第2章【1】
初めにアナスタシアが降り立ったのは、大国の侵攻を受ける小さな国だった。大国の軍事力に勝てず、民が一方的に虐殺され続けていた。
アナスタシアに課されたのは、戦争に勝てばいいという訳ではない、ということだった。敵国を滅ぼすことはできず、最低限の被害で戦争を収めなければならない。それと同時に、傷付いた民を救わなければならなかった。
ふたつ目の目的を果たすのは、アナスタシアには簡単なことだった。彼女は騎士でありながら、癒しの魔法を持っている。その力でたちまち民の怪我を癒し、そうしてアナスタシアは民からの信用を得ることとなった。
アナスタシアは騎士団を統治していたため、軍事的な知識にも長けていた。彼女は軍を率いて侵攻を妨げると、策略を
民からの多くの感謝に、アナスタシアは微笑んでいた。国から栄誉と褒美が与えられようとしていたが、ルーベルはその前にアナスタシアをその国から引き離した。神の遣いであるアナスタシアを、国の英雄にするわけにはいかない。幸い、アナスタシアは栄誉と褒美にはさほど興味がなく、感謝の言葉で充分に誇りを得たようだった。
「私の力でも、民を救うことができるのですね」
次の目的地に向かう途中、アナスタシアがふとそんなことを言った。
「自分の力では無理だと思っていたのか?」
「自信はありませんでした。私はただの人間に過ぎませんから」
アナスタシアは神により魔力も武力も格段に増している。力というものは実感がないものであるため、実際に使うまで自信が持てなかったのだろう。
「これでわかっただろう。きみには民を救う力がある」
「はい。とても誇らしいです」
そう言って微笑むアナスタシアは、天使のルーベルから見ても美しかった。
* * *
あのとき微笑んでいたアナスタシアを、幾度となく転生したいまでも忘れることはない。ルーベルが人間であったなら、ラクリマの言うように恋をしていたかもしれない。実際、アナスタシアに恋慕を懐いた者は少なくないだろう。
そう話すと、ハンナはどこかつまらなさそうに唇を尖らせた。
「天使って恋心とかないの?」
「そういった感情はないな。そもそも、恋心というのは人間特有のものさ」
「ふうん……。私が男の子だったら、アナスタシアに恋してたのかな」
「そういう可能性もあっただろうね」
「でも叶わぬ恋かあ……。アナスタシアはいなくなくなっちゃうんだもんね」
アナスタシアがひとつの地点に長く留まることはない。救わなければならない人間が多く居たからだ。立ち止まることなく進まなければならなかった。
「蒼、ハンナ。ここにいたんだ」
校門の前に居た蒼とハンナのもとに、律が穏やかに微笑んで歩み寄って来る。
「探させてしまったか?」
「香川に聞いたからすぐ見つけられたよ。ふたりは仲が良いんだね」
律がそう言うと蒼とハンナは揃って顔をしかめるので、律はそれを面白がっているようだった。ふたりが行動をともにしているのは律がいるためであるが、当の本人はそれに気付いておらず、ハンナが蒼に懐いていると思っているのだ。だが、わざわざ不仲宣言をするほど蒼もハンナも子どもではなかった。
「本屋に寄ってもいいかな」
「いいわよ。私も新しい本が欲しいな」
「蒼もいいかな」
「もちろん」
きみについて行くのは慣れているよ、と蒼は心の中で呟いた。
* * *
アナスタシアの挨拶を受けたあと、ルーベルは神に責任感を持つよう叱責していた。人間の社会で言うところの「社長」に値する神に「秘書」のようなものであるルーベルが説教するなど、他の天使であればあり得ないことだ。ルーベルも後々にパテルから叱責を食らったが、大地を救うためにわざわざ人間を召し上げる必要はないはずだ。
そもそも、神は好き勝手に天使を増やしている。ある程度の役職を以ている者は仕事に
何より、アナスタシアにも家族がいたはずだ。愛する家族から引き裂くような真似をする必要がどこにあったと言うのだろうか。
なぜ彼女を、というルーベルの問いに、神は誤魔化すだけで答えなかった。とは言え、ルーベルとて神の配下。神の意思に背くことはできない。アナスタシアを人間界に帰すことは不可能であるため、ルーベルが導いてやるしかなかった。
アナスタシアが大地へ降りたあとも、神は彼女に接触していた。ルーベルとアナスタシアには神の声が聞こえる。神は威厳を保った声であったが、アナスタシアを溺愛していることはルーベルにはすぐにわかった。
アナスタシアは人間からすれば魅力的な女性だろう。それでも、神が人間のような感情を懐くとは思えない。だが、神はアナスタシアに魅了されていた。
* * *
そして、いまも。
姿形が変わっても、アナスタシアの高潔な魂は変わっていない。なぜ神がアナスタシアを溺愛していたかは、いまの蒼には知る術のないことだ。
そもそも“愛”などという感情を、神が懐くはずがないのだ。
「ねえ、律! 今年は誰も受験じゃないし、夏休みはいっぱい遊びたいな」
いつもの公園のブランコに腰掛けたハンナが楽しげに言う。律は優しく微笑んだ。
「ハンナは来年が受験だからね」
「そう! 来年の夏休みはきっと遊んでる暇はないわ。その次の年は律と蒼が受験だし、遊ぶなら今年しかない!」
「そうだね。じゃあ、ハンナのやりたいことを全部やろう」
「ほんと? 久々に夏休みの計画を立てちゃおうかな」
律はハンナに甘い。今世では元々なんの関係もなかったふたりだが、ハンナがよく懐いているためか、律はハンナに優しく接した。その様子を見ていると、アナスタシアとラクリマが過ごしていた光景が思い浮かぶようだった。
「蒼は何かやりたいことある?」
律が明るく問いかけるので、蒼は意識を現在に戻す。
「特にないかな。きみは何かあるか?」
「僕も特にないかな」
「無欲ねえ。自由に好き勝手できるのは夏休みだけよ?」
「うーん……まあ、まだ時間があるし、何か考えておくよ」
アナスタシアには自由がなかった。民を救うために大地に降り、神のために闘い続けた。それでも健気に笑っていた彼女を、ルーベルが忘れることはないだろう。
「きみたち、都合良く忘れているようだがね」
蒼が呆れながら言うと、律とハンナは揃って首を傾げた。
「夏休み前には期末テストが待っている。追試、もしくは補習となれば、夏休みは自由にならないと思うが?」
今度は揃って苦虫を噛み潰したような顔をするので、蒼はおかしくて小さく笑う。
「忘れてるんじゃないわ! 現実逃避してるだけよ」
「まだ考える必要はないよ。夏休みはまだ先なんだから」
「やれやれ。いまから備えようという気はないようだね」
律のことだから、期末テスト前に蒼に泣きついて来るに決まっている。そう考えると、断固として自分を頼らなかったアナスタシアの痛々しい背中を思い出す。自分を頼りに思っているだけマシになったのかもしれない。
「まあ、夏休みの計画を立てればモチベーションの向上には繋がるかもしれないね」
「でしょ? 楽しみがあれば頑張れるのよ」
「じゃあ、ハンナの計画に期待しようかな」
「任せといて! 一番の思い出になるような計画を立てるわ!」
実に平和だ、と蒼は思った。この平穏な時を律が笑って過ごしていること、それが何よりも救いだった。
* * *
次にアナスタシアが向かったのは、疫病に苦しむ小さく貧しい村だった。この村の民の約半数が病に罹り、すでに多くの民が命を落としていた。
アナスタシアが挨拶に行ったとき、村長も病に臥していた。貧しさゆえに薬が充分に行き渡らず、村長はその責任感に押し潰されそうになっていたのだ。そこに現れたアナスタシアは、まさに救世主だった。
この村で出会ったひとりがラクリマ・エヴァーソンだ。村長の娘で、アナスタシアの癒しの魔法で治癒することができた。ラクリマはアナスタシアに心から感謝し、喜んで彼女に手を貸すようになった。貧しいながらも村民たちの厚意により教育を受けていたラクリマは、充分にアナスタシアの助けとなった。
アナスタシアは騎士でありながら、薬学に精通していた。さらにルーベルが授けた智慧とラクリマの手伝いもあり、村に蔓延する疫病の特効薬を作り上げるまでに時間はそうかからなかった。特効薬の量産に至ると、疫病は数年で収束すると予測され、アナスタシアは民に何も告げずに村を去った。彼女の救済を求める者はまだ多く、収束を見届けるだけの時間が彼女にはなかったからだ。
アナスタシアは村民たちが回復する確信が持てなかったようで、最後まで見届けることを望んだ。しかし、ルーベルはそれを許すことができなかった。アナスタシアが救った命に比べ、世界の均衡を崩し得る失われる命のほうが圧倒的に多かったからだ。ひとつの場所に留まり続けることはできない。それに加え、アナスタシアに執着心を持たせるわけにはいかなかった。命を救うことができなかった際に、アナスタシアにかかる心労を軽くするためだ。まだアナスタシアは命を取りこぼしたことはない。だがこの先、そういった場面にいくつも遭遇するだろう。そういったとき、執着心は
仇となる。実直なアナスタシアが傷を増やさないための行動を、ルーベルは取らなければならなかった。
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