イフの葬列〜天使は人の子を愛す〜
加賀谷 依胡
第1章【1】
凍えるほど冷えた風が吹き抜ける冬の夜だった。
星の輝く空に立ち昇る煙が、現実を遠く感じさせる。
視界が真っ赤に染まった。人々の悲鳴が耳を貫く。
燃え盛る炎を見上げ、星野蒼は自分の使命を思い出した。
――今度こそ、彼女を守らなければならない。
第1章
「いまは『彼』だがね」
初めて出会ったのが何年前のことなのかは憶えていないが、以前の「彼女」のことはよく憶えている。忘れようにも忘れることはできないだろう。
「まさか転生して男になるとはね」
肩をすくめる蒼に、西村ハンナは小さく笑った。
「転生後の性別までは操れないでしょ」
ハンナはいつもの癖で、ウェーブのかかった髪を指先でくるくると回す。
いつも休憩に使う公園は穏やかで、小鳥の
「あれ? もしかして好きだったの?」
揶揄うようにハンナが言うので、蒼は小さく溜め息を落とす。
「天使が人の子に対してそういった感情を懐くことはないよ」
ふうん、と呟きながらも、ハンナはおかしそうにニヤニヤと笑っている。女の子というものはなぜそういった話を面白がるのだろう、と蒼はまた溜め息をついた。
星野蒼は天使だった。名はルーベル。
尊い存在という意味の天使ではなく、神の遣いの天使であった。
それが十年前に火事現場で蘇った記憶が。
「それにしても……。きみまで転生しているとは思わなかったよ、ラクリマ」
「ふふ、久々にその名前で呼ばれたな」
くすぐったそうにハンナは笑う。
ラクリマ・エヴァーソン。それが彼女の以前の名前だった。
彼女は人間だ。以前も現在も。
「でもさ」と、ハンナ。「こういう会話をしてると、周りからはいわゆる厨二病って思われそうだよね。ふっ……俺には前世の記憶があるんだ……。みたいな」
ひたいに手を当ててそれらしいポーズを取るハンナに、蒼は苦笑する。
「だから、こうして人気のまばらな場所で話しているだろう。他人から見れば、私たちが本当に前世の記憶を持ち合わせているなどわからないはずだからな」
ハンナは以前の蒼も知っている。天使の頃の蒼に会ったことがあるのだ。
天使と人間が出会うことは、本来ならあり得ないことだ。神の遣いである天使は、人間の目で捉えることができない。人間の目に触れてしまえば、利用するために捕らわれる可能性もある。そのため、神が天使と人間の生きる次元を分けたのだ。天使を捕らえることが神への冒涜であるという考えを持つ人間が大半を占めているが、利用できるものは利用する、と考える人間も少なくない。幸い、ラクリマ・エヴァーソンはそういった人間ではなかった。
天使であったルーベルと人間のラクリマの出会いは、ひとりの人物がもたらしたものである。今世でも、高校一年生の蒼と中学二年生のハンナが関わりを持つことは、その人物がいなければなかったことだろう。学生の交友関係は狭い。出会いすらしなかったはずだ。その人物に今世で出会わなければ、記憶を取り戻したことにも意味はなかったのかもしれない。
「蒼、ハンナ。お待たせ」
呼びかける声に振り向くと、蒼と同じ学生服の少年が歩み寄って来る。
本来なら出会うはずのなかった蒼とハンナを引き合わせたのが彼女――いまでは彼――である。今世の名は藤堂律。現在は蒼と同じ高校一年生だ。
「ハンナもいたんだね。ふたりは仲が良いんだ」
「律を待っていたら蒼がいただけ」
ハンナがついとそっぽを向いて言うので、律は首を傾げた。
彼女はいつでも律と行動をともにしたいと思っている。律と行動をするとそこにいつも蒼がいるだけで、蒼に懐いているというわけではないのだ。
「待っていてくれてありがとう。帰ろうか」
「うん!」
ジル・アナスタシア。それが律の以前の名前だ。
アナスタシアは、神の手となり足となり闘う戦士として召し上げられた人間だった。
それが彼女の運命を過酷なものへと変えた。
「次の休みさ、猫カフェに行かない?」
楽しげに笑いながらハンナが言う。彼女は律と出かけるのが好きだった。前世でのラクリマは、アナスタシアとあまり長い時間を過ごせなかった。それを取り戻すように、いまでは休みのたびに律を遊びに誘っているのだ。律に蒼が必ずついて来ることが少し不満げであるが、拒むようなことはない。
「ハンナは猫が好きなんだ」
「うん。前はアレルギーで触れなかったから」
「いまは触れるの?」
「ふふ。好きなだけ触れるよ」
嬉しそうなハンナに、律も朗らかな笑みを浮かべた。
律の優しさは、アナスタシアの頃から変わらない。過酷な運命を背負いながらも、アナスタシアは人々に慈愛を持って微笑んだ。それが、痛々しかった。
天使ルーベルには、時を司る女神から授けられた力があった。それによる祝福をアナスタシアに与えた。つまり、アナスタシアは時を遡ることができた。
自身の死をきっかけとして。
厳しく激しい戦いの中で、アナスタシアは何度も死に、何度もやり直して、そしてまた死ぬ。死ぬ直前の記憶を保持したまま。
それがアナスタシアの心を壊すまでには、そう時間を要さなかった。
ルーベルはそれを見ていることしかできなかった。祝福を与えたのはルーベルで、彼の力を使わなければアナスタシアが蘇ることはない。しかし、アナスタシアは神のために闘わなければならなかった。神の遣いであるルーベルに、その力を使わないことは許されない。消耗していくアナスタシアから笑顔は失われ、しかし救いを求める人間はあとを絶たない。人々の前ではアナスタシアは微笑んでいた。それがアナスタシアに課された使命だったからだ。
その過酷な運命を終わらせることができるのは、ルーベルだけだった。
「蒼? ぼーっとしてどうしたんだ?」
律に呼びかけられ、蒼は意識を現在に戻した。
「いや、なんでもないよ」
肩をすくめる蒼に、律は微笑んで見せる。
その表情が、最期の瞬間のアナスタシアと重なった。アナスタシアの心からの笑顔を見たのは久しぶりだった。そして、アナスタシアは微笑んで告げた。
ありがとう、と。
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