乱れ籠が空になる時

 毎回想うが、なんと真面目な方であることか。
 文章は真面目、しかし本人はちゃらちゃらしている書き手もいるが(私だ)、大田康湖さんは裏も表も真面目な方だ。
 与太話を口にしたりはしないのだろう。冗談にも腹を抱えて笑うこともないのだろう。知らないが。

 カクヨム内にも何人か、徹頭徹尾「真面目」という方がいて、当然ながらその作品も至極真面目である。
 真面目な方を揶揄う、貶めるという人間も世の中にはいるが、わたしは真面目な方を尊ぶほうで、その作品はこちらも真面目な気持ちできちんと読むことにしている。

 そんな真面目な方が書いたエッセイなのだから、やっぱり真面目なのだ。

 そして普遍的でもある。

 祖父母の家、山河に囲まれた田舎、よく遊びに行ったよその家、そして実家。
 時の経過とともに家も古くなり、そこに暮らした人々も去ってゆく。
 人が不在になった家はみるみる荒れていくものだ。
「あの家、もうこの世にはないの」
 何度、そんな想いをしてきたことだろう。
 竈や古い井戸には蜘蛛の巣がはっていた。「八つ墓村」と呼んでいた家もあった。
 それらは相続の関係で手放され、分譲されたり、駐車場になったり、あるいは朽ちるままにされている。

 歩いていたあの長い廊下、花木の庭、手水鉢、そこにいた懐かしい人々。
 大黒柱や粋を凝らした欄間など、今の人たちが建てる家にはもう見ることはないだろう。

 先祖代々の土地から人が動かなかった時代は遠くなりつつある。
 盆や正月に親戚一同が集まることも減り、先祖の墓とて遠々しい。

 そんな愛惜と哀愁を淡々と書き残したこのエッセイには、誰もが想いあたる寂しさと共に、怖ろしい速さで変わってしまったこの国への遣る瀬無い懐古の念が、乱れ籠に脱ぎ捨てられた黒紋付のように静かに横たわっている。

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