毎回想うが、なんと真面目な方であることか。
文章は真面目、しかし本人はちゃらちゃらしている書き手もいるが(私だ)、大田康湖さんは裏も表も真面目な方だ。
与太話を口にしたりはしないのだろう。冗談にも腹を抱えて笑うこともないのだろう。知らないが。
カクヨム内にも何人か、徹頭徹尾「真面目」という方がいて、当然ながらその作品も至極真面目である。
真面目な方を揶揄う、貶めるという人間も世の中にはいるが、わたしは真面目な方を尊ぶほうで、その作品はこちらも真面目な気持ちできちんと読むことにしている。
そんな真面目な方が書いたエッセイなのだから、やっぱり真面目なのだ。
そして普遍的でもある。
祖父母の家、山河に囲まれた田舎、よく遊びに行ったよその家、そして実家。
時の経過とともに家も古くなり、そこに暮らした人々も去ってゆく。
人が不在になった家はみるみる荒れていくものだ。
「あの家、もうこの世にはないの」
何度、そんな想いをしてきたことだろう。
竈や古い井戸には蜘蛛の巣がはっていた。「八つ墓村」と呼んでいた家もあった。
それらは相続の関係で手放され、分譲されたり、駐車場になったり、あるいは朽ちるままにされている。
歩いていたあの長い廊下、花木の庭、手水鉢、そこにいた懐かしい人々。
大黒柱や粋を凝らした欄間など、今の人たちが建てる家にはもう見ることはないだろう。
先祖代々の土地から人が動かなかった時代は遠くなりつつある。
盆や正月に親戚一同が集まることも減り、先祖の墓とて遠々しい。
そんな愛惜と哀愁を淡々と書き残したこのエッセイには、誰もが想いあたる寂しさと共に、怖ろしい速さで変わってしまったこの国への遣る瀬無い懐古の念が、乱れ籠に脱ぎ捨てられた黒紋付のように静かに横たわっている。
2023年の敬老の日、Googleマップで祖父母の家が『売物件』となっていた。
中学の同窓会に出席するため帰省した際、父に話すと、いとこが土地を相続せず手放したと聞く。昼食時、デザートに柿を出した母が「祖父母の家で採れた最後の柿だから食べなさい」と勧める。正月に祖父母の家に行くと、干し柿になっていたのを思い出しながら一切れ食べる。
2024年帰省した際、夕食のデザートに柿が出されたので母に聞くと、「これはうちの柿。今年は豊作だったから干し柿にしたの」この柿もいつか食べられなくなる日が来るのだろうと口に入れる。
懐かしい思い出の場所やものが、また一つ消えていく。
新年のめでたさに差し込む寂しさから、人生の影を感じさせられる。
光もあれば影もある。
陰りは、自分の根っこをしっかり整え、固める時期の印かもしれない。
仕事に、友人との待ち合わせに――そんなふとした時に、何気なく見ることの多いGoogleマップ。
現代技術であるGoogleマップのストリートビューと、ノスタルジックな記憶・想い出にまつわる、誰にでも起こりえる実体験が綴られています。
相反するものなのに、繋がると、おおきな膨らみを持って私たちに沢山の感情や情報・果ては人の繋がりをもたらしてくれる不思議……。
現代技術は使いようで色々な可能性があることを考えさせてくれます。
忘れかけていた様々な記憶の懐かしさ。
見慣れた思い出の風景がなくなっていく寂しさ。
このエッセイで、手軽にできる「自分にまつわる聖地(思い出)巡礼」をしてみるのも良いものだと考えさせられました。
読後「私の母方の祖父母の家にも柿があったなぁ」と思いを馳せました。
私の父が柿の好きな人で、秋になると祖父母宅の柿の実をもらうのを楽しみにしていました。
今でも祖母は存命なので柿の木そのものはあるのですが、もう実がならなくなってしまって、秋になってもあの美味しかった甘くてやわらかい柿を食べられないのは寂しい感じですね。
こんなふうに、このエッセイは読者の「思い出」を喚起させる作品となっております。
懐かしい気分に浸りたい方におススメです。
個人的には老若男女関係なくすべての方に刺さる良作だと感じています。
是非ご一読を!
以上です。
最後に作者様へ。
大切な思い出を見せて下さってありがとうございました。
では、失礼いたしました。