彷徨する影

湾多珠巳

The flying ghost bus


 そのバス路線の廃止が決まったのは、サダヒロが大学院浪人をしていた年の、秋のことだった。


 試験対策のため、誰も住まなくなった町外れのあばら家に一人住まいしていた折のことだ。母方の叔父のそのまた大伯母が一時期暮らしていたとかの古い一戸建てだったが、付近の家々はみな土地を離れ、荒れ果てた「元」農地だらけになっているその地区は、その頃ですでに充分すぎるほど暮らしにくかった。

 が、来年の院試まで、しばらく一人で静かにこもれるような場所がほしい、と思っていたサダヒロにとっては、この上ない拾い物物件だった。

 地権者の親戚は、きちんと家回りや庭の手入れをしてくれるのなら、家賃はいらないという。半径一キロメートル範囲にすら店一つなく、畑付きの家が何件か残っているだけ、というような僻地である。それでも、一応のバス路線はあった。一日三便ほどの交通機関を利用すれば、なんとか日々の買い物はできる。

 かくてサダヒロは仙人のような隠遁暮らしに入り、現代文明からも距離を置いた静謐な生活を一年間に渡って大いに満喫した。だが、秋の半ばに再挑戦した院試には、やはり落ちた。

 そしてサダヒロが学業への道へ見切りをつけるのと歩調を合わせるように、その地区のバス路線は、年度の終わりに運行を取りやめる運びとなってしまったのだった。



 三月も終わりに近い、雨上がりのある夜。ちらほらと桜が咲き初めている舗道を、サダヒロはふらふらと歩いていた。大学の仲間との最後の飲み会に参加していて、終電帰りになったのだが、終バスは午後七時発だったので、歩くしかなかったのだ。

 もともとそのつもりだったし、駅からの距離は四キロ少々。それほど大変な道のりでもない。最低限の外灯しか並んでいないバス道は、傍目には不気味で危険なものに映っただろうが、サダヒロはすっかり夜の田舎道にもなじんでいた。いい月明かりが出ていて、むしろいつになくごきげんな気分で、酔いを醒ましながらそぞろ歩きを楽しんでいた。

 院試に落ちたショックからは表向き立ち直っている。幸い、駆け込みで始めた就職活動はうまくいき、この四月からそこそこの待遇で会社勤めを始められる運びとなっていた。

 ようやく自宅近くにまでたどり着いた時、サダヒロの眼が、ふと道路脇のバス停標識に止まった。

 この一年間たっぷり世話になったから、モノ自体はすっかり見慣れている。が、改めてよく見ると、それは相当に年季の入った標識だった。伸びた角材の上に円形のトタン板の看板がついている、古いバス停にはよくあるタイプのシルエットだが、どの部位も長く風雨にさらされてすっかり朽ちかけていた。角材の表面の塗料はことごとく剥げ落ちているし、金属部分はサビだらけだ。何度か塗り直された様子の円形看板のどまんなかにだけ、かろうじて補修のあとが残っていて、「清徳塚坂下せいとくづかさかした」との文字が、白地に黒く読み取れる。 

 停留所は屋根付きの待合所などもなく、コンクリの土台にただ標識が刺さっているだけである。さすがにそれだけだと停車の目印としては心もとないので、停留所名の下と、柱になっている角材の側面部分に、安物の反射テープがベタベタ貼り付けてあった。おかげで雨降りの夜などでもバスが停車ポイントを見逃すことはなさそうだが、古色蒼然とした標識にパステルカラーのテープがへばりついている様は、今さらではあるものの、なにかしらサダヒロの眼には痛ましいものに映った。

 はっきり言って、美しくない。

 だが、そんな見苦しさを受け入れながらも、この標識は今日までここに立ち続けてきたのだ。

 などと、まだ酔いの残る頭で、サダヒロはしばしバス停標識を眺め続けていた。

 なぜだか、心の底でそのバス標識に己自身を重ねたい気分になっていた。今でこそ新しい生活に前向きになっているサダヒロだったが、院への未練が完全に消えたわけではない。むしろ、こんな年齢で挫折の体験を経たことは、実のところ無意識下の疼きとなっており、彼自身を今なお責め続けていたのだった。

 加えて彼はアルコールにはめっぽう弱く、その時点で再び酔いが回り始めてきたのを自覚もしていた。中途半端に体を動かしたせいで、酩酊の度合いがはっきりと深くなってしまったようだ。

 仲間ともいい気分で別れの盃をかわして、表向き悠然と学生生活と決別できたつもりでいたのだが、ここに至って心のメッキが剥げ落ちてきたらしい。

 だから、いったいどういう考えのもとにその行動を取ったのか、サダヒロ自身どうもはっきりしないのだが。

 気がついた時には彼はバス停標識を引き抜いていて、肩に担いで自宅への坂道を上がっている途中だった。

 なんだか自分がとても誇らしいことをしているような気分になっていた。長年の労苦にもかかわらず、おそらくは間もなくスクラップになるであろうバス標識、その尊厳を、その魂を、俺は救ってやったのだ! みたいな感覚が、ぐるぐる回る脳髄の中で、きれぎれの思考になって、サダヒロを鼓舞していた。

 古ぼけた標識を家の中に引き込んで畳の上に横たえた後も、知る人のない篤志家をねぎらうような口調で支離滅裂なことを語りかけ、そのまま夜更けまでいい気分で喋り続けていたような気がする。


 翌日、サダヒロはさっぱりした気分で目を覚ました。

 荷物の整理も掃除もほぼ終わっている。あとは寝具と洗面道具をレンタカーに詰め込めば、いつでもこの家を引き払える。

 買っておいた弁当と缶ジュースをかきこんで、ではそろそろ出ようか、と腰を上げた時は、もう朝も遅い頃だった。

 ふと、奥の畳の間を見ると、昨晩引っこ抜いてきたバス停標識が転がっている。

 さすがにバツの悪い思いになって、戻してきたほうがいいだろうか、と逡巡した、その時。

 なんだか台所の窓の外から異様なざわつきが伝わってきたような気がして、サダヒロは思わず視線を戸外に投げかけた。

 家の周りは三方が竹やぶで、その先の状況は窺い見ることができない。一旦門の外に出て道路の左右を見渡し、裏へと続く、バス停への小径を下り降りてみる。

 藪が途切れた瞬間、いつもは交通量がほとんどない車道に、たくさんの車両と人の群れが慌ただしく行き来しているのが目に入る。何かの作業車に救急車。警察や報道関係らしい車も複数見える。それらの間を縫うように、あちこちの所轄からやってきたらしい殺気立った人々。

 不穏な空気にビビりながらも、周辺住民の野次馬らしい集まりに近寄って、声をかけてみた。

 ――何か事故でも?

 ――ああ、バスがな。

 ――ほれ、ここいつも通ってる、市営の。

 ――今朝は霧が出とったからなあ。

 ――よっぽど視界が悪かったんかなあ。あんな崖から転落するなんて。

 ――誰か一人でも助かっとりゃええが、無理かのう。

 うつろな目で住民の指先を追ったサダヒロは、少し先で大きく右カーブしながら急坂を下るルートになっている道路の、その手前付近の惨状に絶句した。ガードレールが大きくひしゃげ、ほとんど捻じ切れるような形で虚空に白い腕を伸ばしている。その先は垂直に近い絶壁で、下は谷川だ。曲がるべき箇所を見誤って、直進したバスがガードレールを突き破り、崖下に転落した――どう見てもそうとしか見えない事故現場だった。

 そこは確かに、絶壁沿いに急カーブを配し、薄いガードレール一枚を柵代わりにしていただけの、運転していてひやっとするタイプの道路ではあった。でも、だからこそみな差し掛かる時は用心し、結果これまで事故らしい事故が起きたことのなかった箇所だったのだ。

 それが、濃霧の影響で? いや違う、とサダヒロは即座に真実を悟った。

 俺のせいだ。

 あるべきバス停がなく、目印を失ったまま直進を続けたバスが、霧の中でカーブ位置を見誤ってそのままダイブしてしまったのだ。

 一歩後退ったサダヒロは、すばやくバス停のあった辺りの道端へ視線を飛ばした。人も車も、バスが転落したその派手な痕跡にばかり意識を向けていて、標識がなくなっていることに気が向いている者はいなさそうだった。

 一度、意を決して口を開きかけた彼だったが、結局そのまま沈黙し、やがて事故現場付近の喧騒に紛れるようにそっとその場を離れ、借家へ戻った。

 息せき切って部屋に駆け込むと、畳の上のバス標識をしばし凝視する。今となっては絶対に人目に触れてはいけない重要参考物件だ。徹底的に粉砕するか、焼却するのが得策だろう。だが、後ろめたさもあって、強硬な手段には踏み出しかねた。

 やがてサダヒロは一つ頷くと、標識を手にして押入れのふすまを開けた。その部屋には天袋がなく、押し入れの天井部分にはちょっとした裂け目が出来ていて、わずかに天井裏が覗いていた。板の継ぎ目を少しガタつかせ、隙間を広げて得物を押し込んでみると、小ぶりなバス標識は特に抵抗もなく、するっと暗がりの中へ呑み込まれていった。

 今後、この家を大掃除することがあるにしても、よもや天井裏のホコリまできれいにしようなどとは誰も思うまい。家屋の解体時にでも、瓦礫にまみれてこの世から永遠に姿を消してくれるに違いない。それまでしばし、人知れず沈黙し続けていてくれればいい――。そう、唇をかみしめると、サダヒロは逃げるように戸締まりを済ませ、レンタカーで借家を後にした。

 二百キロ以上先にある新しい下宿までは、そのまま休憩も取らずに走りきった。彼がようやく一息ついたのは、到着後に親戚に電話して、急用のため立ち寄らなかったことを詫び、鍵は後日郵送するからと伝えて電話を切った、その後のことだ。

 事故のニュースは、しばらく新聞の地方欄を賑わせていた。サダヒロはできるだけ聞くまいとしていたものの、概略ぐらいはどうしても耳に入ってくる。大破したバスに生存者はいなかったこと。廃止寸前の路線だけに乗客は少なかったが、それでも七人の犠牲者が出たこと。

 なくなった標識のことは誰も問題にしていなかった。事故処理のどさくさで誤って廃棄されてしまったものとでも思われているのか? そう訝ったが、あえて探りを入れて回るのはためらわれた。



 半年が経ち、一年が過ぎた。自らの黒い記憶を振り払うかのように仕事に打ち込んだサダヒロは、就職した会社で好意的な評価を得、しかし終日暗い顔でいるのと、社外の付き合いに一切応じないため、じきに「仕事だけは真面目な変人」としての位置づけが確定した。

 生活が成り立っていければ、誰に何を言われようと構わなかった。彼はまるで差し出された問題集を黙々とこなす受験生のように、与えられた職務をただこなした。家族、親戚ともめったに会わなくなったが、もともと内向的な性格だったし、一応社会人となった彼をことさらに怪しむ身内はいなかった。

 妙な噂を聞いたのは、二年が過ぎた頃だった。決して意識して情報を集めていたわけではないのに、その話はネットから、ついで数少ない話し相手から、ごく自然な形でサダヒロの耳に入ってきた。

 あの事故が起きたバス路線沿いに、亡霊が出るというのだ。

 ただし、人の姿をした霊ではない。バスが、バスの車体そのものが、青白い燐光を放ちながら、夜な夜な田舎道を疾走しているらしい。

 バカげた話だ。他の怪談なら、そうサダヒロは一蹴して終わりにするだろう。けれども、もちろんそんな気分にはなれなかった。

 ――まさか、俺を探しているのか?

 考え過ぎだ、と自分でも思った。地元の人々も怪しんでいない事件の真相を、亡霊が何もかも看破した上でその犯人を求めさまよっている、などというのは、どこか無理があるように感じる。だいたい、そこまで分かっているんなら、この俺の元にまで乗り付けてくればいいじゃないか――そんな、強がりともこじつけともつかない考えが、しばらく頭を悩ませた。

 さらに二年が過ぎた。サダヒロの身の上には何も起こらなかった。

 内心はずっとビクつきっぱなしで、未だに問題の町付近の土地へは足を踏み入れることが出来なかったが、それだけだった。

 何ごともなければ、恐怖心はどうしても鈍磨していくものだ。気がつくとサダヒロは、怪談はただの怪談として聞き流せるようになっていた。さらに年数が経つと、理由を作って断り続けていたその地区への出張もぽつぽつ受けられるようになった。

 決して罪の意識が消えたわけではないにしろ、過去は過去として割り切ることも必要だ、などと、したり顔で自問自答できるようになった時には、事故から八年近くが過ぎていた。その頃には、かつての事故現場の至近を、一応は平静な顔で通り抜けられるようにもなっていた。



 親戚の一人が亡くなり、古ぼけた一戸建ての相続先が親類の間で問題になったのは、サダヒロがその家で院試対策に打ち込んだ日々から、ちょうど十三年が過ぎた時のことだ。

 付近は相変わらず満足な店一つなく、かつての畑も今や荒れ地ばかりだが、そう遠くないところで自動車道の延伸が行われており、地価はいくらか上がっていた。とはいえ、転売益目当てで住み続けるには不便過ぎる物件である。かと言ってガタのきてる木造家屋付きだとまず売れそうにないし、家を解体して売り出せば大赤字は必至だ。

 はっきりした結論が出ないまま、なぜだかいつの間にかサダヒロが当座の相続管理人という話になってしまっていた。悪いようにはしないから、とにかく物件のオーナーになってくれ、と高齢の親戚たちに説き伏せられると、うまく断ることもできなかった。一族の中でろくに発言力も確保しないまま安穏と過ごしてきたのが仇になったようだ。あるいは、自分の家を持たせれば、これを機会に所帯を作ろうという気持ちになるのでは、との両親の思惑が、裏で糸を引いていたのかも知れない。


 彼が再びそのボロ住宅の玄関をくぐったのは、三月末だった。奇しくも例のバス事故があった時節そのままだ。けれども、サダヒロは今やすっかり恐怖心が風化してしまっているのを感じていた。改めてその家で暮らす可能性が出てきたことで、万事現実的に考えたい気分になってしまった感じだ。

 幽霊バスなんて、ただの噂だろう。それよりも、責任ある社会人として、親類一同の懸案事項にしっかり取り組むべきではないか?

 夕刻まで庭の手入れをし、日が沈んでから屋内の整理に取り掛かった。日帰りで済む作業ではないとわかっていたから、サダヒロは週末に泊りがけで、自らの新しい「所有物件」を仔細に点検するつもりでいた。

 寝室にするつもりでいた部屋の確認はいちばん最後になった。ゆえに、入り口の引き戸に手をかけたのは、そろそろ深夜帯に入る頃合いだった。

 半分開けたところで、異音を立てて扉が止まった。敷居に木片でも入り込んでいたのか、と引き戸ごと一旦取り外そうとして、どうももっと大きな異物があるようなのに気づいた。部屋の壁と引き戸との間に、棒状のものがはさまっているようだ。それも、結構長いものが。

 家中あちこち歩き回った振動で、鴨居の横木でも朽ち落ちたんだろうか、といぶかったサダヒロは、首を傾げながらもその物体を引きずり出し。

 端っこの丸い部分に、錆だらけの「市営バス」の文字を認めて、あやうく絶叫するところだった。

 ――なぜだっ!?

 総身の毛を逆立て、眼を大きく見開きながら、声にならない苦鳴を発する。そう、そこにそんなものがあるはずはない。だが、あり得ないことではなかった。天井裏と壁の中の空間はひとつながりだ。長年の間に風や振動や、あるいはネズミか何かのいたずらで、上のあったはずのものが壁の裏に滑り落ちてくることはあるだろう。

 僅かに残った理性で、サダヒロもそれぐらいのことは理解できていた。けれども、それにも増して衝撃だったこと、それは、己自身が、バス標識の出現に身も世もなく慌てふためいているという、その事実だった。今の今まで、彼はその空間のどこかにそれがあることを、すっかり失念していたのである。

 なぜ忘れていたのか。忘れられるはずがない。忘れていいはずがない。なのに、今この瞬間まで、このバス標識を、自らの恐ろしい罪の結晶を、まったく意識しないまま、俺はこの家に戻り、あろうことか気楽な単身生活まで始めようとしていた。ということは――

(それほどまでに、俺は嫌な記憶から逃げたかったのか? 無責任を決め込みたかったのか?)

 愕然と自問し、そんなはずはない、と畳に膝をつく。取り落とした標識は、十三年前に見た姿そのままで床に音を立てて転がった。青白い蛍光灯の下、錆まみれの「清徳塚坂下」の文字と、その下に貼っつけた安物反射テープがぎらっと光を放った。

 その刹那。


 ――ぶおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん


 地の底から吠え立てたような、恐ろしく低い轟音が、家全体に鳴り渡る。聞き違えようもない、それは古い年式の大型車のクラクション。直後、部屋の壁が爆発したように粉砕された。家屋を半壊させて飛び込んできたのは、青白い瘴気を禍々しくまとった、巨獣のようなシルエット――サダヒロ自身もよく見憶えている、旧式の市営バスの車体、そのものであった。

 ぶしゅぅぅぅぅぅぅ、と恐ろしく間延びした圧搾空気の音がして、乗降口が開く。長い彷徨の末に黄泉の濁水で錆びついたようなかすれた機械音声が、案内のアナウンスをコールした。

 ――長ラク……ヲ待たセ、タセ、タセ、イたシ、タシ、タシ……市営バス、ばス、バス、六十四系統、蕗山ふきやま奥ノ院行キ、ヲ乗リの、オ客、客、キャきゃキャキャ――

 とてつもない冷気が乗降口から溢れ落ちてきたのを感じて、サダヒロは心の髄まで凍りついた。声を限りに絶叫したいのだが、かすれ声一つ出ない。全身が激しくわなないているのに、指一本満足に動かせなかった。

 ――ヲ早ク、ゴ、ゴ、ご、ゴジ、ゴジョ、乗、乗、じぉお車……

 恐怖に固まった表情でバスを見上げているばかりのサダヒロの体は、しかし目に見えない何者かによって、ずる、ずると乗降口へ引き込まれていった。車内には、なにか人のような形をした影がいくつもうごめいているのが見える。それらは、十三年ぶりに同乗者が増えることに悦びを感じてでもいるのか、ぬらついた肢体をぶるぶると打ち震わせていた。

(違う……俺は、違う!)

 なぜ思いつかなかったのか。幽霊バスは事故の犯人探しなどをしていたのではない。

 ただ、さまよっていただけなのだ。停まるべきだった停留所を、その標識を求めて。

 あるいは、標識の傍らで待っているはずの乗客を、つかまえるために。

 ほとんど息ができない窒息感の中、サダヒロは決死の思いで畳に指を食い込ませた。いとも簡単に爪が剥がれ、赤黒い泥が幾条もの長々しい痕になる。半身が乗降口に吸い込まれたのを悟った時、彼の心の臓はほとんど止まっていた。

 ――発車、シマす……次ハ、ヒガ、東畑口、東畑東畑ひがしはたヒガシはたはたはたグチぃぃぃぃぃぃ……

 ああ、とサダヒロは薄れ行く意識の中で悲嘆に暮れた。その停留所はもうない。いや、東畑口から先のバス停は、道路どころか土地そのものが存在しない。大型自動車道建設の余波を受けて、山ごとなくなってしまった。

 このバスはどこに向かうのだろうか? このままこの世のどこにも存在しない場所を求めて、永遠にこの近辺をさまよい続けるのだろうか? そして俺はその中で、朽ちた骸を座席に収めながら、いつまでもこの世とあの世の境界を漂うのだろうか?――――



 親族がその物件を訪れた時、家は玄関もどこも閉まったままで、しかしサダヒロは家の中のどこにもいなかった。建物にも庭にも不審な物品はなく、窓一つ壊れていなかったが、一箇所、庭に面した部屋の畳に異様な痕が残っていた。血と肉をそのままなすりつけたような禍々しい床の傷跡に親族たちは困惑したが、それだけで事件性があるとは即断できず、とりあえず行方不明の捜索願だけが出された。

 後日その町では、しばらく噂が収まっていた幽霊バスが、再び活発に出没するようになったという。青白く光る車体の中を垣間見たものの中には、それほど年数が経過していない様子の新手の「乗客」を認めたと主張する者も現れたが、真偽の程は定かではない。

 



  <了>

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彷徨する影 湾多珠巳 @wonder_tamami

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