三
saki:せんせ。メッセージでごめんなさい。この前はご飯に来てくれてありがと。今大丈夫?
naho:どうしたの?
saki:約束守ってくれて、ありがとう。あの話のことママに言わないでくれたんだよね?
naho:もちろん、約束したでしょう。
saki:言っちゃうかなーって、正直不安だったけど。
naho:お母さん、すごく怖がってたよ。咲ちゃんの話ってことは黙ってても、作り話ってことは言った方がいいんじゃないかな。
saki:大丈夫だよ。ねえ、せんせーはあの子が見えるようになった? あの子、気づいてくれないって怒ってる。
naho:家鳴りは相変わらず酷いかな? 隙間風も酷いね。見えると言うか、怖い話苦手だからビクビクしてるけど、あの子は……。
saki:ああ、ならよかった。ちゃんとうつせてたんだ。
naho:うつせた?
saki:あれからママもすごいの。家中が一日中明るくて眩しいったら! 家中うるさいし。
naho:咲ちゃん、やっぱり言った方がいいよ。
saki:だめ。あの子はね、選ぶんだよ。連れて行く人と、伝染させるための人ね。私がベクター。
naho:ベクター? ねえ、咲ちゃん、どうしたの?
saki:媒介者だよ。この前小説で読んだんだあ。かっこいい単語だったから覚えてるの!
naho:ちょっと待って。
saki:あのね、あの子は見つけてくれる人がいなくちゃいけない。あの子みたいに、不思議なものはそこらへんにあるものだけど、誰かが見つけて、認識しないと存在しない。皆が話して、いろんな人の認識に根付いて、そうしたらもっと強くなって、連れて行けるようになる。
naho:咲ちゃん、ちょっと待って、これからお部屋で話さない? 先生ちゃんと話に追いつけてなくて。直接お話ししたいな。
saki:あの子は変わったんだよ、せんせー。大丈夫、せんせーは私と同じだから! たくさん、ばら撒かないと。ほら、窓の外にいるよ、あの子。見えるでしょ?
naho:咲ちゃん。(送信に失敗しました)
naho:電話出れる? (送信に失敗しました)
■
スマートフォンから目を背けて奈帆は天井を仰いだ。
あの子について、確かに噂は加速していた。怪異は人が作るものなのではないだろうかと、知り合いの言葉が蘇る。確かにその通りだった。元々ある怪談を、たまたま咲のものと一致してしまったのかはわからないが、ある程度のあの子像が不特定多数の認識下に存在することは分かった。
あの子というワードでは普遍的すぎて、それだけの検索では期待通りの結果は得られなかった。けれども、ひっそりと、語られていたのを見つけた。「あの子に誘われて階段から落ちた先輩がいる」と誰かが書けば、「あの子は連れて行く人を探している」と書かれる。「あの子が見てくる、追ってくる」とあれば、「その後事故に遭いました」と綴られる。「あの子は一人」「いいや、あの子はたくさんいる。無数に」と好き勝手に語られる。それが伝言ゲームになって、凝り固まる。
あの子は見つめ、哄笑する。あの子は人を選び、探し、連れて行く。あの子は己の情報を伝播させる役割の人を作る。あの子は無数の悪意から生まれた……。
会話の中で次第に転がり、形を変えて行く。しかし「あの子」という元々の大枠は残り、共通認識として伝播していた。
ぎぃと廊下の板が鳴った。風が通り抜けて、目の端を何か白い影が過ぎる。わざとらしく音楽を垂れ流して、浮かぶ不安を掻き消した。
メッセージ以降、咲には会っていない。
家にそれとなく電話をかければ、幸恵からは「体調を崩している」とは聞かされていた。何日か経って、ベランダから出掛けていく背中だけは見ていた。心の中で「咲ちゃん」と呼んだ瞬間、彼女は振り返り、奈帆に笑顔を向けたように見えた。
黒目をこれでもかと見開いて、口角を歪に吊り上げた笑顔を。それは話に聞いていたあの子によく似ていて、それからだったと思う。
明確にあの子の気配を感じるようになったのは。
実際、奈帆は知り合いの一人にはこのことを話していた。奇妙な相談を受けた、と。塾でもこの話を知らないかと何人かに確認して、数人から同様の話を聞いたが、がそれだけだった。インターネットの掲示板に書き込みをしたりはしていない。
それが気に入らないのか、あの子はしょっちゅう纏わりつくようになっていた。
耳を塞ぐ。目を瞑ると、次に目を開いた時に目の前に現れそうで、可能な限り目を見開くしかなかった。そうすれば人相が変わってくる。勤務先でも体調を心配されてしまった。
あははははははは!
笑い声に似たものが聞こえて、釣られて顔を窓に向けた。ほとんど同時に影がかかる。
「あ」
逆さまの幸恵が窓の外を通り過ぎるところだった。
瞬きのうちに通り過ぎたそれと目が合った。その唇が引き上がっていたのを見た。刹那に「上」と言われた気がした。
大きく鈍い音──何かが壊滅的に壊れてしまった音。
奈帆は呆然と、その真っ黒な双眸に囚われて、気がつけばベランダへ出ていた。下は見ない。身を乗り出して、上の階を見上げれば、眩しい真上から視線が刺さった。
すぐ上のベランダで誰かが笑って、ずるりともうひとつ影が降ってくる。ぶぶぶ、とポケットのスマートフォンが鳴った。
saki:___________
(了)
「あの子のことをよろしくね」 井田いづ @Idacksoy
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