「あの子のことをよろしくね」
井田いづ
一
風が強い日には、この古いマンションはぎぃぎぃと家鳴りを響かせる。風が通り抜ければ甲高い音を伴っていく。
そのせいもあってか、一人暮らしだと言うのに、誰かが家の内側にいるような錯覚を覚えてしまうのだ。湿っぽい空気が揺れてら人が走り抜けたような乱れを生む。
──あの子なんて、いない。
話に聞いたくらいで、でてくるなんて、ありえない。ひときわ大きな笑い声が聞こえて、奈帆は耳を塞いだ。
■
「先生はさ、あの子のこと、見えてる?」
からかったのだろうと最初こそ考えた。
咲は家では大人しいらしいのだが、奈帆の前では年相応の女の子だった。この時も、きっと学校で怖い話が流行っているのだろう、怖がらせに来たのだと思って、
「咲ちゃん、問五番を解く方が先だよ。先に解説した方がいい? さっきから手が止まってる──」
奈帆はボールペンの頭で問題集を軽く叩いた。そこでようやく目の前で眉根を寄せる少女に気がついたのである。
「……先に解き方教えようか」
「違うの、聞いて欲しいの、そうすれば……」
「一体どうしたの」
「ね、先生。聞いてくれたら、ちゃんと全部解くから、お願い、ね」
ボールペンごと手をぎゅと握られて、奈帆は困惑した。上目遣いに見上げた瞳が揺らいでいる。
「奈帆ちゃん、おねがい」
咲がこうやって相談をすることはしばしばあった。彼女の家は表向きは平凡で穏やかな家なのだが、蓋を開ければ子に無関心な家だった。そういう悩み事を聞くことが多い。そんな時と同じ目をしたまま、
「あの子がいるの」
と囁いた。奈帆の眉間に皺が刻まれる。
「あの子がずっと見ているの」
吹けば飛んでいくような囁き声だった。
奈帆は逡巡してから、すぐに観念した。集中できていないのに無理やり勉強机に縛りつけたって意味はない。
「あの子って誰のこと?」
「見えない?」
忙しなく瞳は動く。何かを探す──いや、なにか細かな動きを追うように。どこか羽虫でも湧いてるのかと視線を向けたが、何も見つけられなかった。
「奈帆ちゃん先生はまだ知らないんだね。……あの子のこと、本当に見えないんだ」
「見える見えないも」
なんのことかさっぱりよ、と溢した。
咲はぎょろりと視線を一周部屋に回してから、そっと声を落とした。
「……あの子がいるよ」
「どこにいるの?」
「どこにでも。気がついたらおしまい。こっちをじっと見てね、笑ってる。楽しくもないのにね────」
あははははははは! 弾かれるように咲が笑い声を上げた。奈帆の心臓が跳ね上がる。
揶揄われているのだ、と判じるのは難しかった。彼女は咲は真顔で笑い声を上げているのだ。奈帆は慌てて、
「咲ちゃん!」
叫ぶようにして咲の肩に手を置いた。
「こんな感じで笑うのよ」
「咲ちゃん、しっかりして」
咄嗟に手を握りしめていた。きっとストレスが溜まりすぎたのだ。それを爆発させられなくて、歪んだのだと奈帆は考えた。
咲の手はひどく冷たい。彼女はぴたりと笑い止むと、また真剣に言葉を紡いだ。
「いないはずのところに誰かがいるって考えたこと、ない?」
「……あるよ。家鳴りとかね、目の端を知らない人が横切るような、誰かに見られているような気がして。誰かがそこにいるような錯覚でしょう」
ありがちな錯覚だと告げれば、彼女は迷うように視線を泳がせた。
「あの子もいないけど、そこにいるのよ」
「……どんな子か、聞いてもいい?」
奈帆は慎重に言葉を選んだ。怪談めいた話をしていることはわかった。それを、咲が信じ込んでいるだろうことも。
こういう時、否定はしないようにしていた。見てくれる視線、そばに居てくれる人、聞いてくれる誰かが欲しいのだろうと。その根底にはきっと、目を向けてほしいという寂しさがあるのではないかと奈帆は考えていた。特に咲はそう思う子供だった。母親は子を己の操り人形だとしか思っていないような、父親は育児に無関心な家庭だった。
咲の黒々とした瞳に奈帆が映り込む。
「……あの子は、白い子供」
「白い……子供」
「うん。手足が真っ白でね、髪は黒くて、すごく大きな真っ黒な目で見てる。窓の外から、暗がりから、隙間から」
そう言って、メモ帳に拙い絵を描き出した。
よくありがちな、怪異が子供の形をとるならば、サッと頭に浮かびそうな絵である。頭でっかちで、白い手足、張り付く黒髪に、アンバランスに大きな黒目、歪に笑う黒く塗られた逆三角形に描かれた口。
なんとコメントするか迷ってから、奈帆も囁き声を出した。
「あの子はここにもいる?」
「今はいない」
「咲ちゃんのお家には?」
「いつも、ずっといるよ」
「その子は──」
「あの子だよ」
強めに遮られて、奈帆は思わず苦笑した。それを慌てて取り繕って、訂正する。
「幽霊なのかな。他の人といても見える?」
「……わかんない。でもママにも見えるようになったし」
「えっと、あの子はなにか悪さをしてくるのかな」
「しないよ、まだ。そこにいるだけ。いないはずの誰かが通り過ぎたり、笑い声が聞こえたり、走り回る音が聞こえるだけ。ほら」
家鳴りがして、甲高い音を伴った隙間風が通り抜けた。
ぺたぺたと、裸足がフローリングを駆ける。甲高い声で笑いながら、じいっと部屋の入り口、窓の外から見つめている。ただそれだけの存在を、怖がる必要などあるものか。奈帆はなんとか「そこにいるだけなら害はないのね」と言いかけた。やはり咲がもつ「見て欲しい」という幼心から、「見つめる」怪異を妄想してしまったのだ────。
しかし、話はそれで終わりではないらしい。咲は身を乗り出した。
「ねえ、奈帆先生。これ、ママには内緒にしてくれる?」
聞かれずとも無論、そのつもりだった。伝言ゲームほど恐ろしいものはなく、人の想像力は明後日の方向に転がってしまうものなのである。一が十になって、百になって、全く別のものに変化することもあるから、相談事を漏らすことなんて普段からしない。
「約束する。今から聞く話はここだけの話ね。聞き終わったら、心の中にしまって、お墓まで持っていきます」
「あはは、ママにバレなきゃいいよ。むしろ階段の方はフツーにしちゃっていい。だって────」
咲はまた視線を周囲に走らせると、
「私の作り話だったんだよ、最初は」
そう呟いた。
「え、作り話?」
奈帆はびっくりして咲を見つめた。想定外だった。咲はバツが悪そうに顔を伏せた。
「うん、作り話だったの」
「なんで、また」
「ママ、全然話も聞いてくれないし、見てもくれないから。何処の誰ちゃんはどうとかこうとか、私のダメだったところはずっと覚えてるのに、約束はすぐ忘れるし。それでいて、細かいテストの点数だけ覚えて、昔の失敗ばかり詰ってくるんだもん。──だから、脅かしてやろうって。そうすれば、怖がりだから、きっと私に頼ったりするだろうし」
ちょっとした出来心だったのだと呟いた。
いもしないものを創り出し、ひどく怯えてみせる。そういう話が流行っていることにして、泣きつく。母親は非科学的なことを嫌うが、ホラーだとかそう言ったものに耐性がないことは父親からちらりと聞いて知っていた。
「馬鹿なことを言ってないで」
そう言ったものの、母親は「いるかもしれない何か」を怖がり始めたのである。
たった一滴、染み込んだ不安は容易く平穏を汚染する。
「……ママってば、いつも私の話は話半分だったくせに」
「咲ちゃんの話は、怒らずに聞いてくれるようになった?」
「あのママが? そう思う?」
嘲笑して、咲は首を振った。
「まさか。でもすごく怖がってた」
「……この話、ほかの人にもしたの?」
「うん、そうよ。ママが思った以上に怖がったから、なんとなく学校で他の人にも聞かせたの。人から聞いたって風にしてね。こんな適当な話、すぐに帰ると思ったのに、クラスどころか学校中に広まっちゃって」
所詮は暇つぶし、気晴らしだった。
ふと日常で錯覚したものに肉付けしただけの、ありきたりな造形と話だ。「なにそれ気のせいでしょ」くらいの反応か、「それで怖がるとか咲ママ、やばいね」くらいの反応だと思っていたのだが、気がつけばあの子の話はあちこちに伝播していたのだという。
又聞きで、伝言ゲームで、どんどんと膨らんで。
「気がついたらたくさん広まってたの。あの子を見たって人も出てきてさ──最初は楽しかったんだよ? どうせ私の作り話なのに、みんな真面目な顔して、騒いで、怖がって変なのって。……でもね、本当にいたの。もともといたのかも」
「……咲ちゃん? さっきは作り話って」
「もう作り話なんかじゃない。あの子は本当になっちゃったから」
呑気な傍観者でいた咲だったが、段々と怖くなっていた。本当にいるような錯覚を覚えたのだ。何者かに、敢えて己の存在を語るように仕向けられたのでは……。
ある日、部屋の外で甲高い笑い声を聞いたような気がした。エレベーターに乗る時に、目の端を白い影が走り抜けた。留守番中の部屋に自分以外の誰かがいる。
じっとこちらを睨む黒い目を見つけたのだという。あの子は確かにいる。その姿を、存在を、好き勝手に捻じ曲げて語った人をじっと睨んでいる────。
「最初はそこにいるだけだったんだよ、先生」
真っ黒な双眸でじっと奈帆を見上げながら、咲は口角を上げた。悪戯っぽく笑って、エアコンの風に解けそうなくらい細やかな声で囁いた。
「あの子は変わっちゃったんだ。みんなの話の中で」
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