二
長尾家はひとつ上の階に住んでいた。ちょうど奈帆の真上の部屋になる。
長尾夫人については当初から苦手ではあった。
ある時、郵便受けから落とした同窓会のハガキを拾われたことから縁が生まれてしまったのだ。不躾に学校名を読んでから、
「あなた、ここのご出身なの?」
弾んだ声をあげられた。渋々頷く。
「はい」
「桜田さん、とおっしゃるのね。今はなにをなさってるの?」
「知人の個人塾の手伝いを、少し」
「あらそう」
隠そうともしない値踏みする視線は、自分が絶対的に選ぶ立場であると確信しているからこそのものなのだろう。現在の経歴は気に入らないようではあるものの、平日に休みがあることがわかるなり、強引に家にお呼ばれして、娘を紹介されたのだ。
娘の咲はおとなしい、親の顔色を窺う少女だった。
仲良くもない人の家で味のわからないお茶を飲んでいると、ちらりと母親の方を見てから「勉強を教えてください」と突然言い出した。手には問題集がある。
「この子ったら……いえね、あなたのご出身の学校、うちの子も憧れだったみたいで」
子供が勝手にお願いしたこと。あくまでも子供が主だと言い張りたいらしい。
奈帆は戸惑って、ここで断ればいいものを、しかし少しだけならと承諾してしまったのだ。咲の訴えかけるような目に負けたと言っても良い。長尾夫人の監視下のもと、中学受験用の問題集を咲と解いて、その日はそれで終わりだった。
頼まれれば断れない人であると見抜かれたのが不味かった。そして仕事柄、教える能力も一定の基準は満たしていると見做された。咲も穏やかな性質の奈帆にはすぐに懐いたのもある。
結局、それから事あるごとに咲に勉強を教えたり、留守の際には咲を預かったりと便利に使われるようになってしまったのである。善意無償で動く、便利なシッター兼チューターといったところだろうか。
「ご好意に甘えてしまって、なんだか悪いわねえ」
悪びれもせず、さも気がつく人のように夫人は半笑いをする。
時折、お給金の代わりと、食事に招かれることがあった。そんなことなら、お金をくれた方がよほど良いのだが、それを言えるならそもそも体良く扱われることもなかっただろう。結局呼ばれればほいほいと出向くのが奈帆だった。
咲から話を聞いた翌日に奈帆は長尾家のインターホンを鳴らしていた。すぐに扉が開いて、長尾夫人──長尾
神経質そうな顔は常のことだったが、無理やり笑っているような顔だったのだ。目は見開いて、視線が何処か不安そうに廊下を行き来する。咲の話のあの子を怖がっているからかと考えて、困ったなと内心考えながらも
「こんばんは、お招きありがとうございます」
奈帆は礼儀正しく頭を下げた。
「早くお入りになって」
幸恵はそんな奈帆の腕を引くようにして招き入れると、乱暴に扉を閉めた。取り繕うように、
「最近不審者がいるっていうじゃない」
早口にそう付け加えた。
「来る時、変な人はいなかったかしら。大人でも子供でも、最近は変な人は多いから」
「特に誰にも会いませんでしたよ」
その言葉にほっとしたようで、幸恵はさっさとリビングへと移動した。
奈帆の部屋と間取りは同じだ。三和土を上がって、曲がってすぐに廊下の両側にふた部屋洋室がある。その片方が咲の部屋らしく、可愛らしいドアプレートがかかっていた。そのさらに先に洗面所と浴室、キッチンがあって、突き当たりにリビングと、洋室。猫の額ほどのバルコニーからは海が見える、3LDK。
一人暮らしをするに広すぎるが、親子三人ならば十分に活かしきれていた。奈帆の部屋が、田舎に越した母から譲り受けてから、半分物置きのようになっているのとは大違いだった。
案内されたダイニングテーブルにはすでに料理が並んでいた。
「咲ちゃんはまだ塾ですか?」
「ええ。それで、先生から見て、勉強の方はどう?」
「とても優秀で、教え甲斐がありますよ」
満更でもなさそうに幸恵は笑った。
「本番に強ければ良いんだけどね」
「最近は学校でのテストの点数も伸びてきてますし、すぐにそうなりますよ。あっという間に教えたことを覚えてしまいますから」
阿るように言いながら、嫌な大人になったもんだと自省する。第一、上司でも雇い主でもない人相手なのに。
「そうならいいのだけどねえ……」
幸恵は言いかけて、はっと動きを止めた。
じっと廊下の奥を凝視している。明かりすらついていないからか、不自然に暗かった。今し方電球でも切れたのだろうか。
幸恵は瞬きも忘れて何かを凝視している。見開いた目、表情は強張り、不自然に取り繕おうとして口角を歪に吊り上げて笑顔を作っている──それがひどく不気味だった。
「……あ、あの子」
奈帆が眉根を寄せたのを感じてか、幸恵はわざとらしく言い直した。
「いえね、鍵をかけたか心配になっちゃって。少し見てくださる?」
「……はあ」
背中に視線を感じながら、自分でいけば良いのにという言葉を呑み込んで、仕方なく玄関に戻る。
電球は生きていた。人感センサーで玄関の明かりがついて、明るい中で扉を見れば、きちんと施錠されているのがわかる。
「桜田さん、なにもない?」
「ええ、大丈夫です」
「……お、お客様にごめんなさいね、このところ神経質になってしまってて。ストレスかしら?」
「疲れていては、気になっちゃいますよね」
奈帆の言葉に安心してか否か、幸恵は何事もないように語り出した。改めて椅子を勧めながら、探る視線を寄越す。
「そのね、あの子、咲のことなんだけど、あの子、何か変なことを言ってなかったかしら」
「変なこと……」
──あの子はいつもいるよ。
咲の声が脳裏に過ぎる。しかしただの作り話、しかもナイショの話だと頭から振り払う。つい先ほど見たばかりの、虚空を凝視するような幸恵の顔までもがチラついて、肌が粟立つのをぞわりと感じた。本当になったと、言っていなかったか。
奈帆は曖昧に微笑んで誤魔化した。
「……特には」
「そ、そう。咲とは雑談とかなさらないの」
「学校の話なんかはしてくれますよ」
「そう、それならいいんですけど」
ぶつぶつ呟きながら、幸恵は向かいに座った。洒落たグラスに赤ワインを注いでくれた。
一口目から、ワインがタンニンの強い銘柄でよかった、と食材だけは一級品であろう料理を飲み下しながら考える。食事会はどこか落ち着かない雰囲気だった。当たり障りのない会話をしながら、幸恵が落ち着きなく視線をあちらこちらに彷徨わせていることに気がついた。誤魔化すように早口に捲し立てている。
誰々の子はどうだの、あの店はなってないだの、近頃の芸能人は、最近流行っている馬鹿みたいな話は、など転がり続けるそれを奈帆はどうにか相槌を打った。
「娘が」
杯を空っぽにして、幸恵は奈帆をじっと見つめた。ぎょろぎょろと何かを探すようにして、目はしきりに動いている。
「おかしなことばかり言うの、最近ね。発信元はクラスメイトかしらね、碌な子がいたもんじゃないわ。そういう嘘をつくような、つまらない子とは付き合うのはやめなさいってちゃんと言ってるのに」
「おかしな?」
「そうよ、あの子──」
言いかけた瞬間、廊下の板がぎぃと鳴いた。大袈裟に驚いた幸恵に、奈帆までもが驚く。廊下の方で物音がする。隙間風が甲高く鳴いて、確かに笑い声に聞こえるなと考えてから、奈帆は慌てて呑気な声を出した。
「家鳴りも酷いですよねえ。風が強いと仕方がないんでしょうけど」
引き攣った笑みのまま、幸恵も頷いた。
誰かがいるような──先ほど鍵を確認したばかりだ。馬鹿馬鹿しい、とは思いながらも、その疑念はじわりじわりと思考を侵食していた。
あの子なんて、全て咲の作り話だ。それに現実だとして、見ているだけの存在がなんだと言うのだろう。怖いと思うから怖いのだ。
とは言っても湿っぽい視線を感じるのは気分が良くない。こちらを観察して、気が付かないことを責めるようだった。──本当に見つめるだけなのかと、思考は転がりだすと止まらない。
「……ねえ、桜田さんは、怪談話とか好まれるの? 咲に聞かせたりとかしてませんわよね」
幸恵は奈帆があの子の出所だと、僅かにでも考えているのだろう。責めるような視線を向けてきた。
「まさか、そういうのは苦手なんです」
だから困っているのだ。奈帆は少しだけ迷ってから、水を向けてみた。
「咲ちゃんが怪談話をされたんですか?」
「いえ、なんというのかしらね?」
幸恵はわざとらしく口ごもった。非科学的なことを口にするのは恥であると考えている幸恵は結局、誤魔化すように笑った。
「今時はインターネットでも変な話があるでしょう? まだまだ目標まであるんだし、勉強ももっとしてもらわないといけないのに、変なものにハマったら困るでしょう」
「そうですね」
「そうでしょう」
二人してしらばっくれて、誤魔化して、妙な空気になる。しん、と再び沈黙が落ちてきた。
そんな二人を見つめる視線があるように感じて、奈帆は視線を皿に集中させた。気にしない、気にしない、と言い聞かせて、作り話だと己を納得させる。幸恵が怖がるから、その顔が真に迫っているから、こちらまで本気にしてしまってるのだ。咲が「本当になった」と言ったのも、考えたのも、きっと。
あははははははは!
幸恵が悲鳴を上げた。奈帆も声にならない悲鳴をあげる。甲高い隙間風は、生温い触感を残して通り過ぎた。視線を感じて、顔を上げる。
「やだなあ、二人とも。ひどい顔。なんかいたの?」
いつのまに帰ったのか、廊下の暗がりに立ったまま咲が薄ら笑っていた。裸足で、生白い脚が床をぺたぺたと踏む音。玄関の扉を開けた時の音だったらしい。
……本当に?
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