櫻花豊穣~想い繋がりて

水無月 氷泉

櫻樹伝説

 急峻きゅうしゅんな丘の上、一際目を引くほこらがある。


 誰が何の目的で建てたのかはわからない。周囲には住まう者もいない。にもかかわらず、驚くほどに手入れが行き届き、供物くもつも欠かさず捧げられている。


 祠を守護するように立つ、美しく磨き抜かれたさくら色の小さな鳥居は真新しい注連縄しめなわで飾られ、さらに九本の紙垂しでが下がっている。どうやらこの紙垂は見る者によって、その本数が異なるという噂だ。



 祠から離れること二町(二百十八メートル)ほどか。一本の大樹が堂々とそびえている。


 見事なまでの櫻だ。樹齢はいかほどか。大樹と言ってもやや幼く見える。せいぜい数百年と言ったところだろう。人の寿命からすれば途方もない長寿には違いない。




 大樹の幹に背を預ける格好で男が一人たたずんでいる。視線は真っすぐに鳥居を通り越し、祠へと向けられている。


 男は去来する想いをよそに躊躇ためらっていた。鳥居をくぐってしまえば、もはやそこは幽世かくりよだ。現世うつしよに身を置く男は恐怖心にさいなまれていた。



(私が心より愛する櫻姫さくらひめは私を残して幽世に下られてしまった。もう一度逢いたい。今一度、この腕で抱きしめたい。その想いだけを胸に来てみたのだが)



 男は、とある噂を聞きつけ、ここまで足を運んできていた。




☆ ☆ ☆

 満たされし月が天の頂きより降り注ぐ刻、櫻花咲き乱れ、厳かに舞い踊る。


 月は雫をもちて櫻花を濡らし、影を光の下へと誘わん。


 影となりし花びらが月の光にきらめき、薄桃色に染まりて清浄なる水をまといし刻、幽世と現世は一世ひとよに結び戻る。


 散るは命の集いとなりて、今一度ひとたび逢瀬おうせへと導かん。

☆ ☆ ☆




 人伝ひとづてに聞いた際には、いったい何の冗談だ、与太話よたばなしだと一笑に付したものだ。


 幽世に下った者が再び現世に戻るなどあり得ない。そんな話は聞いたことすらない。



(そうだ。目下、急速に力をつけてきている陰陽師おんみょうじどもが『我らなら死者をも蘇らせることができる』などど豪語しているが、片腹痛いにもほどがある。何が泰山府君祭たいざんぶくんさいだ。それで死者が蘇ったことなど一度たりともないではないか)



 それでも噂の全てを否定するだけの根拠を男は持ち合わせていなかった。真偽はさておき、現世に戻ってきたという話も交じっていたからだ。



 一縷いちるの望みがあるならば、そこに賭けてみたい。男はすがる想いで、ここまでやって来ている。



(櫻姫、あなたに逢いたい。あなたに触れたい。私に残された想いは、もはやそれだけなのです)



 天頂へと移った月の光が静かに差しこんでくる。


 どっしりとした太い幹からは幾本もの太い枝が伸びている。


 枝の至る所で無数の櫻花が咲き誇っている。


 えにも言われぬほどの幻想美だ。



(そうか、この櫻は今日が満開であったか。そなたもまた愛しい誰かを想うなどあるのだろうか)




 澄んだ冷涼な光は、今が盛りとばかりに舞い踊る、白に淡い石竹色せきちくいろを落とし込んだ櫻花のことごとくを透過し、辺り一面を薄桃色はくとうしょくに染め抜いていく。



 いつの間に現れたのだろうか。男の足元には一匹の黒猫がうずくまっていた。物憂げな瞳は金色に輝き、男に何事か語りかけているようでもある。


 おもむろに甲高い鳴き声を天に響かせる。



 まさしく、静から動へと移ろう瞬間だ。男の表情があからさまに変化した。



 月光は櫻色の小さな鳥居にも等しく降り注ぐ。九本の紙垂しでが風に揺られるがごとく規則的な動きを見せ、また静へと帰っていく。


 鳥居を輝かせる櫻色はその強度を増しながら、周囲を染める薄桃色を舐めながら、祠へと流れこんでいった。



 櫻色が祠をも呑み込んだ刹那せつな、それは起こった。



「これは、夢なのか。それとも」



 一人の女が急峻な丘の頂きに舞い降る。それはあたかも天女のごときみやびな姿だった。


 降り注ぐ満月の光が揺蕩たゆたう水のごとく全身を照らし出していく。



 男の瞳はその光景に釘づけになっている。自然と涙もあふれ出してくる。



 直上からの光は女を静寂の中に映し出し、未だ透明度の高い姿を現世へと導いていく。


 おぼろのごとき姿は次第に鮮明さを増していく。


 それとともに周囲を染める薄桃色が次第に薄れていく。



 天頂に輝く月光がわずかに傾きを変え、影を長く引き伸ばす。その影もが光に包まれた時だ。



 女が静々しずしずと振り向いた。




「櫻姫」



 感涙かんるいにむせぶ男の口かられた言葉は、愛しいひとの名前、ただそれだけだった。




◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇




「これが私の知る櫻樹おうじゅ伝説なの。こんな話でよかったかしらね。若い人たちには退屈だったかもしれないわね」



 神月代櫻じんげつだいざくらから少し離れた丘の入口にその老婆を腰を下ろしていた。


 目の前に立つ少年と少女に語って聞かせたのは神月代櫻にまつわる一つの伝説だった。


 真実か否か、今となっては定かではない。小さな祠も失われて久しい。それでもこのような伝説が口伝くでんで残されているということは、信じる人もまた多いのだろう。



 理知的に見える少年が柔らかな微笑を少女に向けてから、静かに問うてくる。


 櫻姫もまた強く逢いたいと心から願っていたのかと。



「そうね。だからこそ、舞い降る、のでしょう」



 一息つく。


 少年も少女も続きを待っている。しっかり手と手を握り合っている姿が何とも微笑ましい。自分の若かった頃もこうだったなと感慨深く想い出す。



「私はね、こう想うのよ。現世と幽世、その境目がどこにあるかなんてわからないけど、私たちの心は二世ふたよを行ったり来たりしているの。現世にいる者と幽世にいる者、二つの想いが一つとなって大きなかたまりになった時、二世を結びつけるための重しになるんじゃないかしら」



 少年と少女が互いの顔を見合わせている。今の老婆の言葉に深く感銘を受けているようだった。少なくとも老婆にはそのように感じられた。



 ひざに座っている黒猫が大きく伸びをし、鳴き声を上げた。金色の瞳が少年と少女をとらえる。


 少年が驚いたような表情を浮かべた。それも一瞬のこと、少年と少女はひとしきり老婆に礼を述べ、深々と頭を下げてくる。



 何と気持ちのよい若者たちだろう。老婆は相好を崩し、会釈を返す。




≪この子たちなら、きっと≫


≪そうかもしれないね。ここでの願いは叶ったようだし。二人の想いが今以上に強く、深く結びつけば、あるいは≫




 老婆が黒猫の背をさすりながら微笑みかけてくる。少年も少女も等しく笑みを返し、別れの言葉を口にして去っていく。




 二人の後ろ姿を見つめながら、黒猫は今一度、高らかに鳴き声を天に響かせた。





<完>




◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇


 本短編は『月下に桜花濡れて天使降る』の前日譚的な要素などを含んでいます。

 https://kakuyomu.jp/works/16817330666450272592

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