第12話 翔

「……りさっ。…ありさっ」


 遠くから人の声が聞こえる。私、何だか揺すぶられているみたい…。

 どうやら、いつの間にか眠っていたようだ。

 気が付くと、翔くんが、テーブルに突っ伏していた私の肩に手を置いていた。


「あ…翔くん。起こしてくれてありがとう」


 翔くんに起こされるまで私が眠っていたということは、パスワードを見つけるために色々な人に会ってきた、あの一連の出来事は夢だったということなの?

 …いや。違う。決して夢なんかじゃない。

 だって、私の横にはウサギのぬいぐるみが、うさこちゃんのフリをしているパニがいるから。

 私は、ぬいぐるみを抱えて外出したりしないもの。絶対に。


「ありさ、遅刻してごめん。実は、地下鉄が止まっちゃって…。原因不明の故障が起こったらしくて。それで、電車の中に缶詰めにされてさ。何故か電波が届かなかったから連絡できなかったんだよ。本当にごめん。……あれ?うさこちゃん、連れて来たの?」


「あっ、そうなの。ちょっとした手違いでね。気にしないで」


 あの洞窟の中で…。私は随分迷ったが、結局、タッチパネルにパスワードを入力した。すると、すぐに目の前が真っ暗になってしまったので、そのあとに何が起こったのかは知らなかった。翔くんが無事に脱出できたのかどうか確信は持てなかったのだが…。


 待ち合わせ場所に来られたということは、出られたんだね。


 翔くんの頭の中では、地下鉄の車両に閉じ込められたことになっているらしい。「何だか身体中が凝ってるな」とか言いながら、肩や首をぐるぐる回している。…そりゃそうよ。あんなに硬くて冷たいガラスのピラミッドの中で眠っていたんだから。


 翔くんは、アメリカンコーヒーを注文した。私は、ロイヤルミルクティーを頼んだ。


「で、大事な話って何?」


 私は居住まいを正し、翔くんの目を真っ直ぐに見据えて尋ねた。本当は聞きたくなかった。だって、今の翔くんが私に言うのはあの言葉に決まっている。


「ありさ。別れて欲しいんだ」

「どうして?」

「他に好きな人ができた」


 私の予想通りの言葉を、翔くんは言った。何のためらいもなく。

 いつもの私ならここまでは聞かないだろうと思うけれど、今回はとことん聞いてやりたい気分になっていた。だから、私もためらわずに尋ねた。


「好きな人って、誰?」

「えっ…。そこまで言わなきゃだめ?」


 翔くんは明らかにうろたえていた。そうよね。ちょっと怖いわよね。でも、確認したいの。


「いいじゃない、教えてよ。これでお別れなんだから。最後のお願いだと思って」


 私が取り乱したりしなかったことに翔くんは安心したようで、表情が少し柔らかくなった。私が別れることをすんなり受け入れると感じたからだろう。しばらくの間は迷っていたようだったが、ついに重い口を開いた。


「……伊藤さんだよ、イラストレーターの。ありさも1度会ったことがあるよ。デパ地下の食料品売り場で」


 そうだと思った。思った通りの答えだったけれど、私は『今初めて知りました』みたいな顔をして驚いてみせた。……全部、白状させてやるんだから。


「そうだったの。翔くん、あのひとのことは友だちだって言ってたじゃない。いつから彼女のこと好きになったの?私たち、ずっと仲良くしてきたのに。そう思ってたのは私だけなの?」


 翔くんは、私の言葉にひるんだように見えた。私は、あくまでも冷静に、淡々とした態度でいるよう努めた。本当は、泣き叫びたいくらい、腹が立っていたのだけれど。……全部白状させてやる。




 伊藤さんと初めて会ったのは、僕が出版社に入ったばかりの頃だった。


 彼女は、僕が大学院を卒業して会社に入った時、既に売れっ子イラストレーターだった。雑誌にイラストを描いたり、単行本の表紙や挿絵を手掛けたり。だから、ウチの会社にもよく打ち合わせに来ていて、先輩が僕に紹介してくれた。


 伊藤さんは僕より2歳年上だ。彼女は美術系の短大を卒業した後、デザイン事務所に勤務した。でも、仕事の評判が良く名指しの仕事が増えてきたので、会社に4年間勤めた後、思い切って独立したのだそうだ。それが僕の入社した年だったので、彼女は「同期だね」と言って笑っていた。


 入社してからの1年間は、仕事で伊藤さんと一緒になることは全くなかった。新入社員の僕には覚えることが山ほどあって、責任ある仕事を任せてもらえる状態ではなかったから。既に実績を上げている彼女とは、立場に雲泥の差があったんだ。


 それでも、彼女の参加する飲み会に誘ってもらう機会が多かったから、僕たちは自然と話をするようになった。何となくウマが合うというか…。辿たどってきた道のりは全く違うのに、話題に困るようなことはなかったよ。彼女といると、いつもとても楽しかった。


 そして、入社して2年目に、単行本を出版する企画を初めて任されることになった。それは、僕が担当する新人作家が初めて出版する書籍で、僕たちは張り切っていた。作家さんが「表紙の絵は、是非とも伊藤さんにお願いしたい」と以前から切望していたので、僕は彼女に表紙を依頼し、引き受けてもらえた。


 こうして、僕と伊藤さんは初めて一緒に仕事をすることになった(ありさとデパ地下で偶然会った時はこの企画の打ち合わせ中だった)。


 一緒に仕事をするようになって、僕はますます伊藤さんに好感を持った。仕事に妥協することはないけれど、こちらの言い分もきちんと汲み取って丁度良い案を出してくれる。どんな状況になっても明るくて頼りになる。締め切りはきちんと守る。


 どれも社会人として当たり前のことかもしれないけれど、いつもきちんとすることって結構難しいと思う。だから、僕は伊藤さんのことをすごく尊敬できた。


 ある時、僕と伊藤さんには過去に接点があったことがわかった。


 僕たちは、同じピアノ教室に通っていたんだ。伊藤さんが僕の『八田はった』という名字を何となく覚えていて、当時の発表会のプログラムを確認してみたところ、僕の名前を見つけたらしい。

 彼女は中3の春にレッスンをめたけれど、それまではレッスンや発表会ですれ違っていたかもしれない。そう考えると、ちょっとワクワクした。


 そんなこともあって僕たちはすっかり打ち解けた。他の友人も交えてよく飲みに行った。


 ある日、伊藤さんから「相談に乗って欲しいから2人だけで会いたい」と言われた。深刻な様子だったので「僕で良ければ…」と、彼女の話を聞くことにした。


 伊藤さんの悩みとは、付き合っている彼氏のことだった。彼女は、彼との関係に行き詰まりを感じていたようだ。「どうしたら良いかわからないから、男性側の考えが知りたい」ということで、僕に意見を求めてきたんだ。


 僕は、どちらかと言えばドライな性格だから、伊藤さんの悩みを聞いた時「そんなの、本人に聞けばいいじゃん。僕は関係ないし」と思ったよ。


 いつもの僕だったら、口に出してはっきりとそう言ってると思う。でも、伊藤さんに対してだけは、そうすることができなかった。彼女から詳しく話を聞き出して、ああでもない、こうでもない、と熱心に考えてるフリをしてしゃべった。


 伊藤さんの悩み相談は、この日だけでは終わらなかった。僕と彼女は、平日はほとんど毎日会って解決策をさぐった。


 僕は、本音では「堂々巡りだよ。僕たちがいくら話したって解決しないよ。本人と話せばいいじゃん」と思っていた。ちょっと面倒に感じてもいた。……そして、気付いたんだ。


 厄介だと思いつつも、僕が伊藤さんの相談に乗り続けたのは、僕自身が彼女に会いたいと思っていたからだ。そして僕は、彼女の目線や仕草から、彼女が僕に好意を寄せているんじゃないかと感じたんだが…。これが、僕の勘違いでないことの確証をつかみたかった。


 ありさは、愚かな僕が伊藤さんの策にまんまとめられた、と言うだろう。その通りだ。

 でも、恋ってそういうものじゃないか?

 誰だって、好きな人が仕掛けた罠には進んでかかりに行くよ。

 僕は彼女に、伊藤さんに惚れてしまったんだ。




 翔くんの残酷な告白を、私は黙って聞いた。最後まで取り乱さず、涙一つこぼさずに冷静でいられたことに、私は驚いた。もっと傷付くかもしれないけれど、私には彼に尋ねたいことがあった。


「もし、あのひとと出会わなかったら、私と別れなかった?」


 翔くんは、迷わずに答えた。


「別れたと思う。ありさのことを嫌いになった訳じゃないけど、好きの種類が変わった。ゼミの親しい後輩に戻ったんだよ。社会人になって、段々とそう感じるようになった。…恋は冷めた。ごめん。……今までありがとう」


 そう言うと、翔くんは千円札を1枚テーブルの上に置いて店を後にした。去り際に「僕、伊藤さんと結婚することになると思う」と言い残して。


 気が抜けた…。


 「恋が冷めた」だなんて、随分と冷酷なことを平気で言ってくれたけど、それならそうと、もっと早く教えて欲しかった。そうしたら私だって、恋が冷めないように努力したり、さっさと別れて新しい恋を見つけたりできたのに。私だけ一途だったなんて、何か、ずるい。


 翔くんは、あのひとと同じピアノ教室に通っていたことがわかって、彼女に対する親近感が増したようだけど。

 もし私が「あの夏、翔くんに話し掛けた女子高生は自分なんだ」と告白していたら、私にもっと執着してくれたのかしら。

 私は「ほんの少し話しただけなのに追いかけて来るなんて薄気味悪い」と思われるのが怖くて内緒にしてきたのに。

 それならさ、それなら…。


 私は、一体、どうすれば良かったの?


 私、心の底から嬉しいと思っていたの。

 あの夏の日、翔くんと出会うことができて。

 あの日以来、密かに思い続けていた翔くんと付き合うことができて。

 これからも、ずっと一緒にいたかったのに。


 私はうつむいていた。目に涙が浮かんできてあふれそうになった。そして、私の目から涙がこぼれ始めた時、隣でパニがぶつぶつ言うのが聞こえてきた。


 あいつ、最低やな。

 千円しか置いていかへんかった。こういう時はさぁ、ありさの分も払うもんやて。

 これやったら、全然足りへんやん。ドケチやな。

 何やら綺麗にまとめとったけどさ、ずっとありさと普通に恋人しとったやんか。

 ありさとイチャイチャしながらあの女と恋の駆け引きしとったって、許せん。さぶいぼ出るわ。

 大体、あいつはさ……


 パニが、翔くんの悪口を言い続けていた。

 これでもかととどまることを知らない怒涛のののしり。

 パニが、あまりにも翔くんのことをひどく言うので、私は思わず笑ってしまった。

 挙句の果てに「もうそれくらいにしておいてあげてよ」と翔くんをかばっちゃった。



 私、失恋、しました。


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