第9話 ありさ ① 

 いつも通り、ふと気が付くと元の喫茶店に戻っていた。

 

 柚季ゆずきに、私があの店で翔くんの姿を見つめていたのを目撃されていたなんて、全然知らなかった。彼のことを傷付けてしまったんだと思うと、少し気分が落ち込んだ。…誤解もあるんだけどな。


「ありさ、集めた言葉を整理しよう。【あ】【さ】【り】【の】【み】【そ】【しる】だね。…そんなにしょんぼりしないでよぉ。今までの話はさ、全部あちら側からの視点だからさ、今度はありさの側からのことを知りたいな。ねぇ、色々と思い出してみてよ、ありさ」


 思い出すって、一体何を思い出せば良いのだろう。今は翔くんを救出するために動いているのだから、翔くんについて振り返れば良いのかな…。




 鮎ちゃんの『鶴の一声』で、私の Z 大進学が決まった。


 ミコちゃんの学校見学に付き添った私は、東京で一目惚れをして帰って来た。再び「あの人」に会いたいがため、第一志望を地元の国立大から東京の Z 大に変更した。

 両親は、私が Z 大を受験することには反対しなかった。Z 大は難関大学として知られていて、1次試験はともかく、2次試験で落とされると考えていたみたいだ。


 だから、実際に私が Z 大に合格した時、両親から「おめでとう」の言葉はなかった。「地元の G 大学に行きなさい」と言われるばかり。あまりに反対されるので、「もう Z 大は諦めようかな。あの人にもう1度会いたかったのに。思い出にするしかないんやろうか…」と弱気になっていた時に、救世主が現れた。姉の鮎子あゆこだ。


「ありさ、自由に生きて欲しい。自分の選んだ学校に行かせたりゃあ」


 鮎ちゃんがこうのたまうと、両親の態度が一変した。私が Z 大に進学することをあっさりと認め、応援してくれるようになったのだ。


 嬉しかった。鮎ちゃんに感謝してもしきれない。でも、少し胸が痛んだのも事実。鮎ちゃんは、おじいちゃんの家を継ぐことによって、自分自身の生き方を犠牲にしているんじゃないか。私ばっかり自由にしていて良いのだろうか。


「ありさ、何をたわけたこと言っとるの。あんなの作戦に決まっとるやん」


 私の心配をよそに、鮎ちゃんは可笑しそうにニヤニヤしていた。


志木しき家の大人たちはさ、多かれ少なかれ、私に負い目を感じとるよ。そりゃそうやろ。実家の管理や両親(私らにとっては祖父母やけど)の世話まで、めいの鮎子に押し付けるんやで。だからね、そこをいたの。私が自己犠牲を匂わせたら、誰も何も言えんくなるよ。まぁ、一生のうちで3回くらいしか使えんけどね」


 貴重な3回のうちの1回を私のために使ってくれたんだ…。それはそれで申し訳ない。


「ありさ、何て顔しとるの。私は私で好きなようにやらせてもらっとるんやで、気にしんといてよ。いち早く見合いの主導権を握ったったしな。あんたもさぁ、真面目も良いけど、もっとしたたかにならんと」


 


 鮎ちゃんのお蔭で私は無事に Z 大に入学することができ、東京での学生生活が始まった。


 私が会いたかった『ショウさん』は、拍子抜けするほどすぐに見つかった。サークルに新入生を勧誘するチラシを配っているのを見たから。かの人は、バスケサークルを主宰する『八田はったしょう』さんだった。


 「名前がわかった。嬉しい」って、私が浮かれたと思うでしょう。そんなことは全くなかった。だって、付き合っている人がいるってすぐにわかっちゃったんだもの。

 その人の名前は、筒井つつい路実ろみさん。経済学部の3年生で、八田さんと同じバスケサークルに所属していた。とっても華やかで綺麗な人だった。


 八田さんと知り合いになるために、私がバスケサークルに入るという選択肢もあったけれど、やめておいた。だって、八田さんと筒井さんが仲良くしているのを間近に見るなんて耐えられないと思ったから。ましてや、2人の間に割って入るなんて想像するだけでも恐ろしい。…私が望んでいたのは、平和で楽しい学生生活を送ることだったからね。


 本格的に講義が始まって、大学生活に何となく馴染んできた5月の終わり頃だった。私と八田さんに薄〜いご縁ができたのは…。


 私は、3年次に希望の宮本ゼミに入れるよう、入学後も必死に英語を勉強した。自分の部屋ではやる気が起きないこともあったから、下宿の近くにある喫茶店をよく利用した。そこは、昼間は普通の喫茶店で、夜にはお酒も提供するという店だった。店主が禁煙に成功したからという理由で、店内は禁煙が徹底されていたので、私にはありがたかった。


 八田さんは、その店で週3回ほどアルバイトをしていた。


 初めて彼を店で見た時はびっくりした。だってこの喫茶店は、大学からは少し不便な場所にあるから、Z 大の人はまず来ないだろうと思っていたんだもの。


 少し迷ったけれど、私は知らないふりをしてこの店に通い続けることにした。店内はとても静かで、店員とお客さんは必要以上の会話をしなかった。誰も私が Z 大の学生だと知らないし、気付かれる心配はなさそうだった。だから、私がこの店でこっそり八田さんを眺めていても、全く問題ない…と思った。


 友人と呼べる人も次第に増えてきて、学生生活は想像していたよりもずっと充実していた。でも、夏休みに入った7月に少し困ったことが起こった。私の Z 大での友人第1号である椎名しいな柚季ゆずきくんから「付き合って欲しい」と言われたのだ。


 椎名くんは明るくて楽しい人だ。男女を問わず、友だちが多い。私は、彼と知り合ったお蔭で友だちが増えたし、大学に馴染むのも早かったと思う。私にとって椎名くんは「素敵な男友だち」という存在で、彼と付き合うなんてことは考えたこともなかった。


 でも、ここは真面目に検討した方が良いと思ったので、帰省した時に、同じく帰省中のミコちゃんに相談した。ミコちゃんとは、くだんの喫茶店に何度か一緒に行ったことがあり、その時に八田さんの姿を拝んでもらっていた。


「ありさ。本当に、八田さんに告白するつもりはないんか?」

「ないない。彼女と上手く行っとるみたいやし。遠くから眺めるだけで満足しとるもん。好きなアイドルを応援するのと似たような心境やね」

「だったらさ、ありさも誰かと付き合って良いんやない?アイドルを応援しとる子たちだって、彼氏くらいおるやろ。椎名くんが良い人やったら、付き合ってみたらいいやん」


 ミコちゃんの言葉を受け、さらに自分でも慎重に考え続けて…。私は椎名くんと付き合うことに決めた。彼に私の返事を伝えたのは、前期試験が終わった後の10月のことだった。長い間待たせて申し訳なかったけれど、椎名くんはとても喜んでくれたので、私も嬉しくなった。


 私たちは、付き合い始めてからお互いの呼び方を変えた。椎名くんは私のことを『ありさ』と呼ぶようになり、私は彼のことを『柚季ゆずき』と呼んだ。何だかくすぐったかったけれど、これだけで2人の距離が縮まった気がした。


 柚季と付き合うようになってからも、私は喫茶店で勉強することを止めなかった。そりゃそうだ。だって、勉強がはかどるから、あの場所に通うんだもの。


 でも、柚季はそう考えなかった。私が、大学から離れた場所にある店に通うことに難色を示し始めたのだ。私は困ってしまった。大学からは不便な場所だけど、私の下宿には近くて便利な店なのである。


 とはいえ、柚季が心配する気持ちもわからなくはないので、私は時々、彼をその喫茶店に連れて行った。時には、ミコちゃんも交えて楽しく過ごした。彼と一緒にその店に行く時は、八田さんがいない日をわざわざ選んだ。柚季を変に刺激したくなかったから(八田さんと柚季は Z 大附属校の出身なので、2人が顔見知りだった場合のことを考慮してのことであった)。


 その甲斐あって、柚季は私がその喫茶店に通うことを納得してくれた。店の雰囲気を実際に味わうことで、私の言う「勉強がはかどるから通っている」ということが嘘ではなかったと実感できたのだろう。いつの間にか、私の喫茶店通いを認めてくれるようになっていた。私の勉強の邪魔になるからと、私が1人で店に行くことに反対しなくなった。


 私は、あの喫茶店に行くことを止めなかった。





 

 



 

 


 


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