第10話 ありさ ②
私と
あれは2年生の秋。11月に入って学園祭の準備に追われる学生が増えてきた頃だ。私はある
「
珍しく1人で、学食で遅い昼食を取っていると、数人の女子学生の会話が聞こえてきた。彼女たちは声を落としていたが、話しているうちに気持ちが
私がこの大学に入ったのは、八田さんに会いたかったから。
私が八田さんに声を掛けなかったのは、彼に付き合っている人がいたから。
私があの喫茶店に通い続けているのは、八田さんの顔を見たいから。
そして、彼女らの会話はこう続いた。
「路実は、卒業したら地元に帰って就職するんだって。翔くんは大学院に受かって、この学校に残るらしい」
八田さんが大学院生として、学校に残る…。
私は、来年度に所属するゼミの希望欄に、第一希望として『宮本ゼミ』と書いて提出した。第二希望も第三希望も書いたが、恐らく宮本ゼミに入れるだろう。大学入学後も英語の勉強を頑張ってきたのはそのためだ。その甲斐あって、上位の成績を収めることができていた。
八田さんと私は、来年度、同じゼミで顔を合わせるかもしれない。
同じゼミの先輩・後輩として、お互いに自己紹介をすることになるかもしれない。
私が一方的に知っているのではなく、正式に知り合いになれるかもしれない。
彼女たちの会話を聞いて以来、私の頭の中は、来年度のことで一杯になった。以前より増して、八田さんのことが気になるようになった。その頃の私は、何に対しても上の空だった。
それは、柚季と会っている時もそう。だから当然、彼は不機嫌になった。
そんな日々が続いて、とうとう柚季の堪忍袋の緒が切れたのだろう。12月に入ると、彼から別れを切り出された。他に好きな人がいるのかどうか問い
私が好きなのは、八田翔さん。
高3の夏に彼を見かけてから、ずっとずっと彼が好き。
私にとって、八田さんは特別。誰よりも特別な存在。
柚季には絶対に知られてはならない想いを抱えて、私は涙を流すしかなかった。
この日、私と柚季は別れた。私は、柚季に対して不誠実な恋人だった。彼は私のことを心から好きでいてくれたのに、私は、心の奥底にしまっておいた八田さんへの気持ちを育て続けた。柚季に対して申し訳ない思いで一杯だったが、同時に、彼と別れられてホッとした自分がいた。
4月、私は3年生になった。念願の宮本ゼミに所属することが決まり、私はやる気に満ちていた。今年度、宮本ゼミに入ったのは7人。男女ともに知っている子ばかりで、楽しくなりそうだと嬉しく思ったことを、今でも覚えている。
春の大型連休に入る前の4月の下旬、ゼミの顔合わせが行われることになった。宮本先生の研究室に集まったのは、3年が7人、4年が8人、大学院1年が3人、2年が2人の20名だった。
自己紹介が始まる前、八田さんが私の顔を見て「あれっ?」という表情をした。そして、私にこう言った。
「君、僕がバイトしている店によく来てるよね。ここの学生だったんだ。ちょっと意外。だって、学校からちょっと遠いからさ。僕は
八田さんが、私が店の常連であると認識していたことに甘い
「3年の
…
こうして、八田先輩と私は正式に顔見知りとなった。この日以来、私が先輩のバイト先の喫茶店で彼と会った時、私たちは軽い雑談をするようになった。そのお蔭で、先輩と私が打ち解けるのにあまり時間はかからなかった。
梅雨に入って蒸し暑い6月のある日、私は軽く食事を取りながら勉強しようと、いつもの喫茶店に向かった。今日は、八田先輩が働いている日ではなかったけれど。
扉を開けて店内に入ると、八田先輩が中にいた。どうして?
「あれ?鍵、かかってなかった?」
と、先輩は何やら作業をしながら私に言った。
「開いてましたけど…。ひょっとして、今日はお休みですか?」
「今ね、店長が用事で外出中だから。今日は夜だけ営業することになったんだよ」
それなら帰ろうと、挨拶をして店から出ようとした時、先輩が私にこう言った。
「志木さん、勉強するんだよね。だったら、店に居ても良いよ。他にお客さんはいないから、いつもより集中できるでしょ。あ、でも、僕がちょっと音を出すけど…」
私は先輩の言葉に甘えて、店の中で勉強させてもらうことにした。店長が不在のため、食べ物はトースト系しか出せないと言われたので、ピザトーストとアイスティーを注文して席に着いた。
先輩は作業を一時中断して、私が注文した品を用意してくれた。お給仕を済ませると、元の仕事に戻った。先輩、一体何をしているの?
先輩は、店の奥にある古いグランドピアノの鍵盤を叩き、ピアノ線の調整をしていた。
「先輩、ひょっとして、ピアノの調律をしているんですか?そんなことできるんですか?」
私は驚いて、先輩に尋ねた。
「できるよ。ウチのピアノが古くて、すぐに音が狂うから、調律師さんに教えてもらったんだ。もちろん、年に数回はきちんとプロの方に調律して頂くけどね」
この店にピアノがあるのは、昔は店内で演奏会が催されることがあったからだという。ジャンルは問わない方針だったので、演奏したい人はすぐに見つかっていたんだとか。でも、近頃は音楽会の企画をしていなかったので、ピアノは放ったらかしになっていたらしい。
「店長がさ、音楽家さんたちのスケジュール調整をするのに疲れちゃったみたい。でも、ピアノって弾いてないと傷んじゃうからさ、僕が時々触らせてもらってるの。お客さんがいない時にね。で、ついでに調律もしてるっていう訳。もちろん、年に1回はプロの調律師さんが来てるよ」
八田先輩には英文学とバスケのイメージしかなかったから、当然、先輩とピアノが結びつくことはなく、意外な組み合わせに私は度肝を抜かれた。
運ばれてきた熱々のピザトーストでお腹を満たした後、私は自分の勉強に取り掛かった。
先輩が鍵盤を叩く音が鳴り続けていた。
しばらくすると鍵盤の音が止んで、先輩が音階を弾き始めた。
調律は終わったようだ。
一般的に、調律師は仕事が終了した後に何かしらの曲を弾く。それは、きちんと調律が出来たかどうかを確認するためだ。調整が上手くいっていないと、音が気持ち悪く感じるらしい。私は、そこまでの耳を持っていないのでよくわからないけれど。
そして、曲が始まった。
聞こえてきたのはドビュッシーの『月の光』。
私がこの曲を好きなこと、先輩は知らない筈なのに。思わぬ偶然に胸がときめいた。
私はこの曲を弾けない。私はピアノが苦手で、『ソナタ』まではなんとか頑張ったが、人に聞かせられるような演奏には至らなかった。でも、姉の
鮎ちゃんの弾く『月の光』はとても清らかだ。空気の澄み切った静かな夜、真っ白な月の光が降り注ぎ、辺りをやわらかく照らす…そんな印象を受けた。それは、穏やかな鮎ちゃんのイメージとぴったりと重なって、私はこの曲が大好きになった。発表会の
でも、
白くも清らかでもない。それはまるで、踊るサロメを照らす赤い月。
ねっとりとした和音が絡みつき、官能的に舞うサロメの
心が、丸裸にされる。
曲が終わると、私はふらふらとピアノに向かって歩いて行った。そして、鍵盤を前にして座っている先輩に向かってこう言った。
「先輩のことが好きです。私と付き合って下さい」
先輩は座ったまま私を見上げると、私の目をじっと見つめた。そして、私を目で捕らえたまま立ち上がり、両手を広げて「喜んで」と言った。
私は迷わず先輩の腕の中に飛び込み、先輩の胸に顔を
この日から、八田先輩と私は恋人同士になった…。
…気が付くと、私の目の前に赤い封筒が置いてあった。それを開けると、中には白い紙が1枚入っていた。そして、こう記されていた。
【 、、】
《参考図書》
「サロメ」 オスカー・ワイルド 作 福田恒存 訳
岩波文庫 1995年
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