第8話 元カレ 柚季
「整理すると、これまでに集まったのは6文字。【あ】【さ】【り】【の】【み】【そ】ってことは、パスワードって『アサリの味噌』で決まりじゃない?」
私は、元の喫茶店で水を飲み、いつの間にか運ばれてきていたマカロンをつまみながらパニに話しかけた。
「ありさ、残念だけど、そんな意味不明の言葉じゃないんだよ。もう1人、会いに行かなきゃね。今度のヒトは、ある意味、筒井さんよりも気が重いかもしれないけど、頑張ってね」
気遣いに
「誰と会うのかは、行ってからのお楽しみってことにしよう。ありさ、そのマカロンを食べ終わったら出発するからね」
そして、いつの間にか研究室のような部屋に私はいた。…待って。この雰囲気、見覚えがある。ここって、 Z 大の研究室じゃないの。室内の様子からすると、文学部が使っている場所ではない。きっと理系の部屋だ。私は理系とは縁がない…ことは、ない。
「ありさ、久しぶり。元気そうにしてるじゃん。私立の学校で図書館司書として働いてるんだってね。教職課程は取らないで、司書科目を頑張るんだって言ってたもんね」
明るく爽やかに現れたこのヒトは、
教授がさ、トルコ旅行に行って、トルコ紅茶のグラスとやかんと茶葉を買ってきたんだ。それ以来、ウチの研究室のおもてなしはトルコ紅茶と決まっちゃった。
ありさと僕は、学部の1年の10月から付き合い始めて、2年の12月まで続いたんだよね。楽しかった!できればね、別れたくなかったよ…。
ありさと最初に出会ったのは、入学後のオリエンテーションの時だった。僕はさ、附属高校の出身だったから、学生生活に関する細かなことは、先輩たちから聞いて知っていたんだよ。だからさ、オリエンテーションなんてかったるいなぁ…なんて思ってたんだけど。出席を取られるからさ、参加したんだよね。
会場の後ろの方で寝るつもりで席を探していたら、何だかやけに姿勢の良い女の子が、1人で座っているのが目に飛び込んできたんだ。ひと目で、上京してきた子なんだってわかったよ。いかにも「新生活が、これから始まる…!」みたいな緊張した面持ちでいたんだもの。
僕がこんなにのんびり構えているのに(居眠りしようとしてたくらいだからね)…と思ったら、何だか放っておけなくなっちゃって。それで、ありさの隣の席に着いた。そしてこう言ったんだ。
「入学おめでとう」
そしたらさ、ありさは僕を無視したんだ。何の反応もしてくれなかった。まさか、誰かに話しかけられるとは思ってなかったから聞こえなかったんだろうね。
それでもさ、どうしてもありさの顔を僕の方に向けたくなっちゃって、僕はさ、わざと
すると、ありさは僕の
「拾ってくれてありがとう。…敬語はやめてよ。同級生なんだから」
僕は、ドキドキしているのをありさに悟られないよう気を付けながら、会話を続けようと頑張ってみた。ありさは苦笑いしながら会話に乗ってくれた。…苦笑いも可愛かった。
「ごめんなさい。私、まだ誰とも知り合いになっていなくて…。緊張しているんです」
「じゃあ、僕と知り合いになろうよ。僕は、理工学部の
僕がこう言うのを聞いて、ありさは少し肩の荷が下りたような、ホッとしたような表情になった。そして、自己紹介をしてくれた。
「文学部の
また敬語でしゃべってるぅ…と思ったけれど、そこは一旦置いといて、まずは連絡先を交換した。ありさの大学での友人(知人?)第1号が自分なんだ…と思うと、嬉しくてたまらなかった。
その日から僕は、ありさのことを心の中では『ありさ』と呼んだ(実際には『志木さん』と呼んでいた)。そして、2人の距離を縮めるために、何かと理由を見つけてはメールを送ったり、僕の友だちとの会合(飲み会や遊園地など)に誘ったりした。あまりしつこくなり過ぎないよう気を付けながら。
その甲斐あって、『僕はありさのことが大好きで、ありさの彼氏になりたいと思っている』ことが、僕の友だちにはすぐにバレてしまった。まぁ、バレるように仕向けていたんだが。そうすることで『ボクのありさに手を出さないで』と牽制していたのであった。ハハハ…。今から振り返ると随分セコい手を使ったと思うけど、当時の僕は必死だったんだよ。
ありさが「8月に入ったら帰省する。9月まで戻らない」と言っていたので、僕は7月の終わりに「僕と付き合って欲しい」と、ありさに言った。
ありさと僕は、とても仲の良い友だちになれたと思う。ありさは僕に心を開いてくれているという自信もあった。でも、恋愛対象として見てくれているかどうかは確信が持てなかったので、「夏休み中にじっくり考えてみて欲しい」という気持ちを込めて、あのタイミングで告白したんだ。
ありさは、僕の言葉を聞いて少し驚いたようだった。そして、じっくりと、言葉を選びながら「考える時間が欲しい」と言った。
僕としては、ありさの返事は想定内だったけれど、やっぱり「うん」と言ってもらいたかったので、少し胸が痛んだ。でも、僕が「帰省中もメールを送って良い?」と尋ねたら、にっこり笑って「もちろん」と言ってくれたので、安心したよ。
ありさから、きちんとした返事をもらったのは10月だった。前期の試験期間が終わってからというのが、真面目なありさらしいと思ったよ。ありさは、僕の目を真っ直ぐに見てこう言った。
「私と、付き合って下さい」
嬉しかった。単に「僕の告白を受ける」ということではなく、自分から気持ちを表明してくれたことに感激した。恥ずかしがり屋のありさにしては珍しいと感じたけれど。ひょっとしたら、長い間僕を待たせたことを、申し訳なく思ってくれたのかな。
僕は、ありさと付き合えてとても幸せだった。僕たちがまずしたことは、お互いの呼び方を変えること。僕は『志木さん』と呼んでいたのを『ありさ』に変え、ありさは『椎名くん』と呼んでいたのを『
こんな些細なことだけど、こうすることで僕たちの親密度がぐんと増した気がして、僕はとても満足した。ありさが僕の恋人であることを、周りの友だちにも示すことが出来るしね。
それでも、小さな不満が1つあったんだ。それは、ありさには行きつけの喫茶店があって、そこを頻繁に訪れていたということ。
ありさは「そこで勉強するのが第1の目的だ」と言った。もちろん、お茶を飲んだり食事を取ったりもするんだろうけど。その喫茶店は大学からは少し不便な場所にあるから、ウチの学校の奴らはあまり来ない…というのが、僕の不安を掻き立てた(ありさの下宿の近所ではあった。ありさの住まいは女子専用マンションだった)。僕の知らないヒトが、僕の知らない場所で、ありさに目を付けて口説いちゃうんじゃないかって。
僕があんまり心配するものだから、ありさは、時々僕をその喫茶店に連れて行った。僕が不安を覚えるような、甘い雰囲気の場所ではないのだということを証明したかったんだね。確かに、その店は、お客さんがみんな自分の世界に
僕は嫉妬深い人間だったんだ、と初めて気付いたよ。ありさはそのことを静かに受け止めてくれた。だから、僕が不安に思わないように、時にはその店で一緒に勉強したり、地元の友だちのミコちゃんに会わせてくれたりした。
僕は、支配的な彼氏だと思われたくなかったので、ありさの喫茶店通いに目を
お互いを尊重し合う良いカップルだと思っていたけど、僕たちは、2年生の12月に別れた。
楽しい付き合いが続いていたよ。そう思っていたのは、僕だけではないはずだ。僕と一緒にいた時のありさの笑顔…。あれは、本物だったと信じている。今でも。
でも、2年の11月頃から、ありさの様子がおかしくなった。僕と会っていても上の空だったり、僕とのデートの約束をドタキャンすることが増えてきた。
僕は幼かったんだなぁ…。すぐにありさの心変わりを疑ったんだから。そして、ありさ本人を問い詰めた。
「ありさ、最近、様子がおかしいよね。僕の話を聞いてないことが多いし、デートを急にキャンセルすることが増えたし。…ねぇ、他に好きなヤツいるの?」
僕がこう言うと、ありさは不意を突かれたようにハッとして、目を大きく見開いた。そして次の瞬間、その目から涙がブワッと
「そんなこと、ない。…他に、好きな人なんて、いない」
ありさは、泣きながら声を振り絞ってそう言った。でも、それは僕の疑惑を否定するためではなく、まるで自分に言い聞かせているみたいに、僕には見えた。だから僕は、ありさには自分以外に好きな人がいるんだと確信した。もう、こんな気持ちでありさとは付き合えない。
「別れよう」
僕はそう言ったけど、ありさが「別れたくない」と言ってくれたら、その言葉を取り消すつもりでいた。ありさのことが大好きだったから、本当は別れたくなかったんだ、僕は。
でも、ありさは、涙を流しながら静かに
僕たちの恋は終わった。
ありさと別れて、僕の心にはぽっかりと穴が開いたようだった。学内では、無意識のうちにありさの姿を探していた。気が付けば、ありさのことばかり考えていた。
思い返してみれば、ありさの様子がおかしくなった時期は、ゼミの選考期間が目前に迫っていた頃だった。ありさは、宮本ゼミに入るために Z 大を選んだと言っていた。気が気でなかったはずだ。僕とのデートなんて楽しめなくて当然だ。僕は、自分の心の狭さを恥ずかしく思った。
2月に入って、僕はありさに会いに行った。チョコレートを持って。もう1度付き合って欲しいと言うために。今更、ありさにメールを送っても読んでもらえないんじゃないかと思った。でも、あの喫茶店に行けば確実に会えると信じて、そこに向かったんだ。
店の外から中の様子を
ありさは、いた。春から宮本ゼミに所属することが決まったと誰かから聞いたけど、きっと、気を抜かずに英語力を高めようとしているんだなと思った。
懐かしさと愛おしさで胸が一杯になって店の中に飛び込もうとしたその時、ありさが顔を上げて、何かをじっと見つめ始めた。注文を追加するのかなと思ったけれど、ありさは何も言わず一点を見つめ続けるだけ。うっとりとした表情…。ありさの視線の先にいたのは、この店の従業員だった。慣れた様子でコーヒーを
あいつ、知ってる…!
あれは、
八田先輩、この店でバイトしてたのか。だから、ありさはこの店によく来ていたの?でも、僕はここで先輩に会ったことはなかった。ひょっとして、先輩がいない時を狙って、ありさは僕をここに連れて来ていたんだろうか?
しばらくして、ありさは先輩から視線を外し勉強に戻った。すると、今度は八田先輩がありさの方をじっと見つめ始めた。物言いたげな切ない視線…。情熱を秘めた目付き。
ありさの口から八田先輩のことなんて聞いたことはない。
でも、あの2人は確実にこの店で会っていたんだ。
あんな風に視線を送り合っていたんだ。
……バカに、するなあっ。
ありさに渡すつもりだったチョコレートは、父にあげた。
当時の僕はさ、何というか、精神的に未熟だったと思う。振り返ってみるとね。今はさ、もう少し大人になったから、ありさが誰と一緒にいようと幸せを願ってあげられるよ。本当だよ。
はい。これ。
今日は、この赤い封筒を受け取るために、僕に会いに来てくれたんだよね。
中に何が入っているのか、僕は知らないんだよ。でも、ありさにとっては重要なものなんだよね。きっと。
じゃあね。もう、会うこともないかな。
僕はね、大学院を終えたらアメリカに留学して研究を続けることになった。
さようなら。元気でね。
私とパニは、元の喫茶店に戻っていた。無言で
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