第7話 元カノ 筒井 

「まだ終わりじゃないわよね。これまで集めた言葉…っていうか音?【あ】【さ】【り】【の】【み】。…意味わかんないもんね」


 親友のミコちゃんに久しぶりに会えて、そして、ヨシヒコくんとまた付き合うことになったという、彼女にとって嬉しい報告を聞けて、私は優しい気持ちになっていた。だから、少し面倒だと感じていた言葉探しのための面談も、今なら前向きな気持ちで取り組むことができるような気がしている。一刻も早くパスワードを特定して、翔くんを助け出したいし。待っててね。


「ありさ。やる気に満ちているところをさ…。水を差すようで言いにくいんだけど…」


 物事をはっきりズケズケと言うパニにしては珍しく、奥歯に物が挟まったような言い方をする。ちょっと嫌な予感がするけど…。何よ、遠慮なく話してみてよ。


「次に会うヒトなんだけどさぁ…。筒井さんなんだよね。翔の元カノの。彼女は、ありさと翔が付き合っていることは知らないから、ありさもその心構えでいてね。くれぐれも、余計なことは言わないでよぉ。『今、翔くんと付き合っているのはワタシよ!』とかさ」


 …そうなんだ。


 ちなみに、筒井さんと私は顔見知りではない。大学時代にも接点は全くなかったが、彼女と翔くんと付き合っていたことは、勿論知っていた。学部は違えど、一応、大学の先輩に当たるが、本音を言えば1番会いたくなかったヒトではある。


 でも、翔くんを救出するためには、彼女に会って話さなければならないのだ。全ては翔くんのため。パスワードを特定するため…。私は、腹をくくった。




「初めまして。筒井つつい路実ろみです。今日は、わざわざ F 県まで足を運んで下さり、ありがとうございます。あなたが、志木しきありささんですか」


 地元の信用金庫に就職したという筒井さんは、(得体の知れない)私に、ものすごく丁寧に挨拶をしてくれて、恐縮してしまった。学部は違うが同じ Z 大学の2年後輩である旨を彼女に告げると、少しリラックスしてくれたようで、さっきよりも表情が柔らかくなった。


 それにしてもここはどこだろう?座り心地の良いソファ、可愛らしい陶器のお人形が飾られていて。あれってマイセンかな?高価な雰囲気が漂っているぞ。ひょっとして、私は今、筒井さんのご自宅にいるのかな。もしかしたら、筒井さんってお嬢さまなのかもしれない…。品が良いし。


 抹茶をてたからどうぞ。お作法なんかは気にしなくて大丈夫よ。私、こちらに戻ってからお茶を習い始めたの。練り切りもどうぞ、食べてね。




 志木さんが同じ大学の後輩なら、敬語はやめても良いかな?堅苦しくない方が、楽しくお話できると思うし。私ね、多分、志木さんが思ってる以上に愛校心が強いのよ。大学生活の全てが、私の心の中で輝いている。『素晴らしい日々を過ごすことが出来た』と、今でも思っているの。

 

 私は、経済学部を卒業したんだけど…。本当はね、文学部に行きたかったの。でも、 Z 大文学部の入試の英語ってものすごく難しいのよね。入学した後、専門課程の勉強についていくために厳しくする必要があるって言われているけど、まぁ、その通りだった。学部生でも英語で書かれた論文や研究書を山のように読まされてたし、卒論は英語で書かされてたし。


 文学部のほとんどの学生が、附属高校から上がって来たヒトだって聞いてるわ。附属校では、中学の頃から大学での研究を意識した英語教育カリキュラムが組まれているらしいの。だから、地方の公立高校出身者では太刀打ち出来ないのよ。

 

 それでも、毎年、何人かは附属出身ではない学生が文学部に合格するんだからね。すごいわね。ところで、志木さんは何学部を出たの?…えっ、文学部卒なの?…しかも、地方の公立高校からの進学なんだ。わぁ、頑張って勉強したのねぇ。


 大学時代に、付き合っていたヒトはいましたよ。文学部の八田はったしょうくん。彼とは、バスケのサークルで知り合ったの。


 そのサークルは、翔が立ち上げたものだった。他の運動系のサークルと比べるとかなり緩くて、そこが気に入ったの。私は、友だちを作るために、何かしらのサークルに所属したかったけれど、学生生活がそれ一色になることは避けたいと思っていたから。勉強を頑張りたかったし、バイトもしたかった。


 だから、このサークルのチラシを受け取った時は嬉しかった。少しも迷わずに参加することを決めたわ。バスケは得意だったし。私ね、中学も高校もバスケ部に所属していたのよ。


 サークルには附属高校出身の学生が多かったから、既に、ある種の一体感が出来上がっていたわ。私は、すごく内気という訳ではなかったけど、彼らの輪の中に入っていくのは少し難しかった。何だか気後れしちゃって。なかなかそれを払拭できなかったのね。


 そんな私を(私だけではなく、遠巻きにしている子たちみんなをだったけど)気遣って、いつも話しかけてくれたのが翔だった。明るくて、優しくて、バスケをする姿もカッコ良くて…。


 翔のことはすぐに好きになっちゃった。


 本音を言えば、すぐにでも告白したかった。でも、知り合ったばかりなのにグイグイ行き過ぎて、彼が私のことを怖がったりしたら困ると思って…。だからね、サークルの飲み会には積極的に参加して、翔との距離をじわじわ縮めていく作戦を取ったの。


 『彼に付き合っているヒトがいたらどうしよう』とか『好きなヒトがいたらどうしよう』とかいうことは、全く考えないタイプね、私は。だって、そんなの心配したってしょうがないじゃない。私にはどうにも出来ないことなんだから。私に出来ることは、自分を知ってもらうことだけ。でも、告白のタイミングだけは気を遣うわ。早すぎても遅すぎてもダメだもの…と思う。


 翔と気楽に話せる友だちになることが出来て、サークルのみんなとも仲良くなって…。そしてついに、私は自分の気持ちを翔に伝えた。それが、1年の2月のこと。バレンタインデーにチョコレートを渡してね。重くなっちゃうかな…って少し心配だったけど、手作りしたのよ。だって、周りの女子たち、みんな自分で作っていたんだもの。


 翔からの返事は、すぐにはもらえなかった。「少し考えさせて欲しい」って言われただけ。


 ちょっと、ショックだった。さすがに『僕も筒井さんのことが大好き』って言ってくれるとは期待していなかったけど…。でも『じゃあ、付き合ってみよっか』くらいのことは言ってもらえると思ってた。


 だって、サークル仲間に『筒井さんと翔ってお似合いだよね』とか『2人、付き合っちゃえば良いのに』とか言われることが度々たびたびあったのよ。そんな時も、翔は、否定するどころか、まんざらでもなさそうに笑っていたんだから。


 それでも、結局、私たちは付き合うことになった。私は、心の底から嬉しかったわ。


 とはいえ、翔がどうして私と付き合う気になったのかは、よくわからなかった。彼が私に恋してる…!っていう雰囲気では全くなかったんだもの。でも、まぁ、徐々に恋人らしくなっていけたらそれで良いと思って、私は満足することにしたの。


 実際に付き合ってみると、翔はとっても素敵な恋人だった。相変わらず、男女を問わず、みんなと仲が良かったけど、私のことは良い塩梅あんばいに特別扱いしていることが感じられて。私を付き合っている彼女として尊重してくれているのが伝わってきた。だから私は、彼が誰と親しくしていても、不安になることはなかったわ。


 でも1度だけ、ものすごい嫉妬心が湧いてきて止められない時があった。自分でもびっくりするくらい、激しくヤキモチを焼いてイライラしてた。


 あれは、2年の夏休みのことだった。はっきり覚えているわ。だってその時は、オープンキャンパス期間で、全国から受験生が学校見学に来ていて、休み中にしては学内に人が大勢いたから。


 私たちバスケサークルの面面めんめんは、練習のために体育館に向かって歩いていたの。いつもは現地集合なんだけど、この日は練習の前に集まって、みんなで一緒にお昼ご飯を食べたから、珍しく集団で練習会場に移動中だったのね。


 私たちが歩いていたら、1人の女の子がこちらに向かって走って来るのが見えた。誰かの知り合いなのかしら…なんて思っていたら、彼女は翔を目指して走っていたので驚いたわ(私たちは、何となく男女別になって歩いていたので、私は翔の近くにはいなかったの)。翔は一人っ子だから妹のはずはないし。


 その女の子は、翔の目の前で立ち止まると、彼の目を真っ直ぐに見つめて何やら話していた。そしたら、翔も、彼女の目をじっと見つめて彼女に語りかけていた。近くにいた男子たちは、2人から少し距離を取って、彼らの会話の邪魔にならないように気を遣っていて…。何で男子ってそうなるの!って頭に来たわね。


 一瞬のうちに2人だけの世界が出来上がってしまって、それが嫌でぶち壊してやりたくて、私は翔に声を掛けたの。


「翔、体育館の予約時間が迫っているから。早く行こう」


 2人が何を話していたのかは知らない。翔は私に話さなかったし、私も翔に尋ねなかった。

 そのあと、私はずっと翔に対して機嫌が悪かった。あのモヤモヤした気持ちは今でも上手く説明できない。でも、2人きりになって翔に情熱的に抱き締められたら、気分が晴れた。結局、私は、翔の恋人として全く自信がなかったんだと、はっきりと自覚したの。


 私たちは、4年の秋頃に別れた。

 付き合いは順調だったのよ。3年になった時、あの時の女の子が入学してきて翔の周りをうろちょろしたら承知しないから…って警戒していたけど、そんなことは起こらなかったし。


 別れてしまったのは、卒業後の進路ですれ違いになったのが主な理由ね。私は、地元の信用金庫に就職することが決まり、翔は大学院に進むことになった。


 もしも、翔が私に『東京に残って欲しい』って言ってくれたら、私はきっと、両親を説得して地元には帰らない選択をしただろうと思う。でも翔は私を引き留めてはくれなかった。だから私は、大学生活の楽しい思い出を胸に、実家に戻る決意をしたの。最後にドロドロしたくなかった。


 そうだ。ありささん、あなたに渡すものがあったんだった。

 この赤い封筒を受け取るために、今日は私に会いに来てくれたんだものね。

 中に何が入っているのか、私は何も知らないのよ。でも、あなたにとっては重要なものなのよね。きっと。


 お別れする前に、1つだけ愚痴を聞いて欲しいの。こんなこと、大学時代の友だちには悔しくて話せないから。恥ずかしいけど、私って見栄っ張りな一面があるのよね。


 サークル仲間と一緒に、翔のピアノの発表会に行ったことがあるの。

 彼と同じ中学や高校に通った子たちは、何度も彼のピアノを聞いたことがあるみたいなんだけど…。私は、翔がピアノを弾けることすら知らなかった。だって、彼の口から、ピアノの『ピ』の字も聞いたことがなかったんだもの。ずっとレッスンに通い続けていただなんて、私からしたら青天の霹靂へきれきよ。


 びっくりした。翔はものすごくピアノが上手かった。彼の演奏に感動したわ。

 同時に悔しかった。こんなに弾けるのに、どうして私に聞かせてくれないの?


 だから、彼におねだりしたの。

「翔、今度は私のためだけにピアノを弾いて」って。

 こんな我儘わがままなんて、可愛いものだと思うでしょ。でもね、こう言われた。

「えぇっ。…やだよ。そんな気障きざなことしたくない。恥ずかしいじゃん」


 あなたに話したら、スッキリしたわ。ずっと誰かに愚痴りたかったの。

 聞いてくれて、ありがとう。さようなら。

 



 筒井さんから別れの挨拶を聞いたあと、気が付くと、私とパニは元の喫茶店に戻っていた。

 大学時代に、彼女と関わらなくて本当に良かったと、心の底から思った。やっぱり、横恋慕は仕掛けていく側が悪者になってしまうもの。もし、翔くんをめぐって彼女に真正面から挑んでいたら、平和な学生生活を棒に振っていただろうなぁ…。


 筒井さんから受け取った赤い封筒を開けると、中には白い紙が1枚入っていた。そして、それにはこう記されていた。


【 そ 】




 

 


 

 



 

 

 


 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る