第5話 高校からの友人 輝彦 

「…まだまだパスワードには程遠いんだよね。きっと。ねぇ、パニ。次は誰に会いに行くの?どこに行けば良いの?」


 私は、喫茶店の座り心地の良いソファに腰掛け、いつの間にか運ばれて来ていたチョコレートをかじりながら、これまでに手に入れた言葉を眺めていた。【あ】【さ】【り】って『アサリ』のこと?貝のことなの?翔くんと私は、一緒に潮干狩りに行ったことはないから、パスワードの文言は2人の思い出に関連してはいないのだろう。


「ふふっ、さあね。…ひと休みできた?じゃあ、次の人に会いに行こうか、ありさ」


 私とパニは体育館の中の観覧席にいた。眼下では、少年たちがバスケットボールの練習をしている。高校生の部活動のようだ。それにしても、ここはどこの学校だろう。私の母校ではない。私は高校時代は吹奏楽部だったので、運動部とは無縁だった。だから、目の前の光景が新鮮に感じられる。ちょっと楽しい。


 すると、見知らぬ男性が、私とパニの方に向かって歩いてきた。紺色のジャージを着て、首からホイッスルをぶら下げている。この学校の体育の先生なんだろうか…。


「あなたが、ありささんですか?初めまして。バスケ部顧問の桜田さくらだ輝彦てるひこと申します。八田はったしょうくんとは同級生で、バスケ部で一緒でした。ええ、この高校です。大学も一緒でした。僕たちは、Z大学附属高校出身なんです」


 体育館ではお湯が沸かせなくて…。ペットボトルのブレンド茶ですが、どうぞ。部活の生徒たちも飲んでいます。みんな、このお茶が大好きです。




 翔と友達になったのは、僕がこの高校に入学してからです。でも、彼のことは、僕が地元の中学に通っていた頃から知っていました。Z大附属中学のバスケ部は結構強かったんです。だから、いつも選手として試合に出ていた『八田翔』のことは知っていました。みんな知っていました。カッコ良かったから、他校の女子たちも注目してましたよ。ええ、僕もバスケ部でした。


 大学受験のことも考えて、僕はZ大附属高校に進学しました。そして、バスケ部に入部しました。そしたら翔もいて、嬉しかったですね。これからはチームメイトなんだなぁ…とワクワクしました。翔の華麗なボールさばきを間近で見られると思うと、楽しみで楽しみで。


 翔と僕は、同じ部活で毎日のように顔を合わせることになった訳ですが、あいつは本当に良い奴でした。明るくて、優しくて、よく笑って、そしておっとりとしていた。プレーは俊敏なのに不思議でしたよ。意地悪な面は少しもありませんでした。


 女子にも人気がありましたよ。


 Z大附属高校は男子校ですが、同じZ大系列の女子校のバスケ部と合同練習をすることが時々ありました。その時は『八田くんと一緒に写真を撮りたい』って行列が出来たりしてね。でも、あいつには、自分がモテているという自覚はあまりなかったんじゃないかな。何だかいつも写真撮られるなぁ…くらいは感じていたかもしれないけど。でも、基本的には、男友達と一緒にいる方が気楽でいいよ…と思っていたみたいでした。


 ひとつ、翔には驚かされたことがあります。あいつ、ピアノがものすごく上手いんです。音楽の先生に『音楽室のグランドピアノをいつでも好きな時に弾いて良い』という許可を中学の時にもらったそうです。朝の始業前とか、昼休みとか、放課後とか、時間を見つけては弾いていました。


「だってさ、ウチのピアノはアップライトだから。たまにはグランドを弾きたいんだ。ピアノのレッスンの時はグランドを弾くんだし」


 バスケ部で大活躍しているような奴が、ピアノのレッスンを真面目に受けていることに驚きました。ピアノを5歳から弾き続けていると知った時は、りましたよ。そして、指は大丈夫なのかと心配になりました。案の定、ピアノの先生も音楽の先生も、翔がバスケ部に所属していることにヤキモキしていたようです。


「『コンクールを受けてみろ』とか『音大を受験してみないか』とか、よく言われる。でも、そういうのには興味がないんだ。ピアノは好きだから弾く。ただそれだけ。それに、音大に行くような子たちって、凄まじい練習をしてるんだよ。音大に入る前も入ってからも。楽譜なんて緻密ちみつすぎるくらいに読み込んで、考えて、自分の演奏を作り上げるんだ。そんなの僕にはムリ」


 翔は、内部進学で Z 大の文学部に進みました。僕も、内部進学で Z 大に入学しました。僕は化学専攻だったので、翔とは少し離れてしまいましたが。でも、大学に入ってからも一緒にバスケをしていましたから、割といつも側にいた気がします。


 あいつ、大学に入学したと同時に、バスケットボールのサークルを立ち上げたんです。理由は簡単です。大学生になっても友達と一緒にバスケをしたかったから。


 大学のバスケ部ともなると、ゴリゴリの体育会系なんですよ。全国の強豪校から優秀な選手が集まって来て、勝つための部活動、バスケ中心の学生生活になってしまう。僕たちみたいなのんびりバスケを楽しみたい奴らなんて、出る幕なしです。だから、翔はサークルを作った。他の大学の学生たちと交流試合をやったりして、本当に充実していました。彼は、友達みんなでワイワイすることが好きで、仲間を大切にする奴なんです。


 大学2年生の時だったかな。夏休みに入る前だったと思いますが、僕の心に強く残った出来事がありました。翔が覚えているかどうかはわからないですけど。


 夏休みに入る前だとはっきり覚えているのは、たくさんの高校生たちが大学見学に訪れていたからです。オープンキャンパスって言うんでしたっけ。翔も僕も内部進学でしたから、改めて学校見学はしませんでした。興味があれば、いつでも行けましたからね。


 2歳くらいしか違わないのに随分みんな初々しいね…なんて言いながら、僕たちサークルの連中は、練習場所の体育館に向かって歩いていました。すると、1人の女の子がこちらに向かって走って来たので驚きました。近づいてきたその子は、翔に向かってこう問いかけました。


「私は受験生なんですけど、センパイはどのゼミに所属していますか?」


 唐突にそう聞かれて、翔の奴、固まってるんじゃないかと心配になりました。あいつ、おっとりして人見知りもほとんどしないけど、ちょっと繊細な一面いちめんもあるので。


「ゼミに入るのは来年からだよ。僕は今2年生だから。でも、英文学の宮本ゼミに入りたいと思ってる。イギリスロマン主義に興味があるから。シェリーが好きなんだ」


 驚いたことに、翔は、見知らぬ女の子の質問に丁寧に答えてあげていたんですよ。優しそうな笑顔なんか浮かべちゃって。女の子の方は、翔の目を真っ直ぐに見つめていました。何の関係もない僕の方がうろたえていましたよ。


「この大学の英文科に入りたいなら、英語をしっかり勉強しておきなよ。長文読解とか英作文をきちんとできるようにしておかないと、授業について行くのに苦労するからね」


 放っておくといつまでも話し続けていそうな翔と女の子を見兼ねて、同じサークルに所属している筒井さんが声掛けました。


「翔、体育館の予約時間が迫っているから。早く行こう」


 筒井さんは、当時、翔と付き合っていました。彼女の方から告白したと聞いています。翔が他の女の子と楽しそうに話しているのをみて、ヤキモチを焼いたんでしょうねぇ。きっと。筒井さんは経済学部だから、翔が他の友だちと、自分の知らない文学の話で盛り上がったりしていると、ちょっと寂しい気持ちになるらしい…と聞いたことがあります。それだけ、あいつのことが好きだったってことでしょうけどね。


 僕は大学を卒業後、高校の化学の教師として母校に勤務することになりました。そして、翔は大学院に進んで、宮本先生のもとで文学の研究を続けることになりました。社会人と学生になってしまったので、時間を合わせることが難しくなりましたが、それでも季節の変わり目とかには、バスケ仲間の何人かで集まって飲んだりしましたよ。翔が社会人になってからも、付き合いは途切れていません。


 筒井さんとは、大学卒業前に別れたようです。僕の恋人から聞きました。翔と僕は、あんまり恋愛の話ってしないんです。もし、向こうから何か言ってきたら聞きますよ。でも、あいつが恋人とどんな付き合いをしてるかなんて、あんまり知りたくないしなぁ…。僕らだけですかね?


 筒井さんは、卒業後は地元に帰って信用金庫に就職したそうです。元々もともと、大学を卒業したら実家に戻るという約束をご両親としていたみたいです。でも、もしも翔と別れていなかったら、そのまま東京に残っていたかもしれない…とも思います。まぁ、確かめようがないですけどね。


 翔のその後の恋愛?確か、院生になってから、学部の学生と付き合い始めたと聞きました。別れたとは言われてないので、多分、まだ続いているんじゃないかな。でも、まぁ…。僕らは恋愛の話はあんまりしないので…。よく知らないんですよ。僕はね、翔と友だちですけど、あいつがどんな人と恋をしようが構わないんです。あいつだったら変な子とは付き合わないだろうし。


 翔は、今はちょっと忙しそうだけど、仕事が落ち着いたら、また一緒に飲みますよ。楽しみですよ。でも、その時もきっと恋の話はしないと思います。


 そうだ。あなたにお渡しするものがあったんだ。

 あなたはこの赤い封筒を受け取るために、今日、僕に会いに来てくれたんですよね。

 中に何が入っているのか、僕は知らないんです。でも、ありささん、あなたにとっては大切なものなんでしょうね。きっと。


 さようなら。もう会うことはないかもしれませんが。

 どうぞ、お気を付けて。




 私が桜田さんから赤い封筒を受け取るや否や、私とパニは元の喫茶店に戻っていた。


 桜田さんは、翔くんと友だちなんだ。今も時々会っているんだ。それなのに、彼は私のことを全く知らなかった。いくら恋愛の話はしないからと言っても、翔くんと私は3年も付き合っているのに。全然知らないなんて、ひどくない?


「まぁまぁ。そんなに怒らないで。ありさと翔が付き合い始めたのは桜田が卒業した後のことなんだから。大目に見てあげなよ。それよりも、封筒の中を早く確認したら?」


 …パニの言う通りね。

 私は、気を取り直して封筒を開けた。中には白い紙が1枚入っていて、こう記されていた。


【 の 】

 

 


 

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