第13話 それから

 その後、しばらくの間は、私は失恋の痛手に振り回された。

 ふとした拍子に翔くんとの楽しい思い出がよみがえってきて泣けてきたり…。

 翔くんと別れ話をした時のことを思い出して泣けてきたり…。


 私のウサギのぬいぐるみは「うさこちゃん」に戻ったのだが、私がめそめそし始めると「パニ」が現れ、翔くんを口汚く罵り始めるのだった。私は、パニが翔くんを罵倒するのを聞いて「パニ。いくら何でもそれは言い過ぎだよぅ…」と口では言いながら、お腹の中では笑ってしまっていたのであった。…いいぞ、もっと言え。


 パニの遠慮のない悪口のお蔭なのだろうか…。

 私は、翔くんに振られても必要以上に落ち込まなかったような気がする。

 そして、私がしょんぼりする頻度が減るにつれて、パニの出現率も低下していった。


 いつしか「パニ」は全く現れなくなり、私のウサギのぬいぐるみは、ふわふわで可愛い「うさこちゃん」に完全に戻った。




 翔くんと別れてから、私は仕事熱心になった。


 これまでの私は翔くんと結婚して、結婚生活に支障が出ないような働き方を求めていたので、責任を伴う役職に就かないよう努力していた。つまり、必要最小限の働きしかしてこなかったのだ。


 でも、翔くんと別れてから考え方が変わった。いずれ他の誰かと結婚するにしても、仕事は熱心にやっておく方が良いと思うようになったのだ。過去の私は、翔くんと結婚して、結婚生活においては、あくまでも彼を立てるのだということにこだわり、自分の存在を消していたように感じる。翔くんに寄り掛かり過ぎていて、それが彼にとっては重苦しかったのかもしれない…と今は思う。


 そんな折、我が図書館で、ある重要な問題が浮かび上がった。図書館の利用者数の実態である。


 私は、都内にある私立の中高一貫の女子校の図書館に勤務している。若者の本離れが叫ばれて久しいが、我が校の図書館利用者数は減少することなく、むしろ、緩やかながら増加傾向にあった。だから、私たち図書館職員は「ウチの学校の生徒はみんな本をよく読むね」と言って、胸を撫で下ろしていたのだが…。

 

 しかし、私たちは、気づいてしまった。この利用者数は延べ人数であったことに。実際の利用者数は、その半数ほどだったのだ。つまり、本が大好きな生徒が何度も何度も図書館に足を運んでいただけ。利用者は大きく片寄っていたことが判明したのだ。


 これは、マズい。


 図書館職員の全員が危機感を持った。一体、どうしたら本に興味を持ってもらえるのか。一体、どうしたらもっと図書館に足を運んでもらえるのか。


「講演会をやってみたらどうかな」  図書館長が言った。


 館長の言い分はこうであった。本に興味のない生徒にとって、図書館というものは関心の持てない物体の集まった場所だ。だから、ちょっと訪れてみようという気持ちにすらなれない。そこで、生徒の好きそうなテーマで講演会を開催して、その話を上手く本に結び付けたら、彼女たちを図書館に誘導することができるのではないか…。


 なるほど。確かに試してみる価値のありそうな企画だ。職員全員が深くうなずいた。


「どんなテーマが良いと思いますか?」 


 私たちの学校は中高一貫の女子校。思春期の女の子たちが興味を持ちそうな話題といえば…。

 みんなが静かに考えている中、ある中堅職員の女性が言った。


「やっぱり、恋バナが良いんじゃないですか」  またもや職員全員が深く頷いた。

「でも、誰に話してもらいます?予算はあまりないですけど」  みんなが眉をひそめる。


 しばらくの沈黙の後、誰かがつぶやいた。

「志木さんはどう?彼女はこの中で1番若いから、生徒たちの共感を得やすいと思うけど。彼女なら予算の問題も心配ないでしょ」   みんなの顔が輝く。私を除いて。…冗談じゃないっ。


「あの…。実は私、先日振られたばかりなので…。生徒たちが望むような話は出来ないと思いますよ。自分の身を削るのも気が乗りませんし」  私は必死に抵抗する。


「大丈夫、大丈夫。別に、脚色してくれて構わないんだから。それに、失恋話って最高じゃない。お惚気のろけ話よりもずっと、生徒たちの食いつきが良いと思うわよ」


 先輩司書が明るくそう言うと、その場にいた全員が笑顔で「賛成」「賛成」と言いながら拍手をした。みんな、会議を早く終わらせて家に帰りたいのだろう。そうに決まっている。


「これからは仕事をもっと頑張ろう」と決意した矢先だったので、強く反発してその場の空気を凍らせたくなかった私は、渋々ながらその提案を受け入れた。図書館職員全員の安堵の笑顔がまぶしすぎて、悲しい。


 しかし、引き受けたからには、集まってくれたみんなが喜んでくれるような講演にしたい。大学時代は文学部に籍を置き、美しい文章をたらふく読んできたのだ。その経験を存分にかそうじゃない…と、意外にも、私はやる気がふつふつと湧いてくるのを感じた。


 講演会は1ヶ月後に催されることになった。開催場所として、視聴覚教室を押さえた。音響が素晴らしくて声が聞き取りやすいので、今回のような行事にはピッタリだと思われた。参加希望者は先着70名までとされた。


「50名は来て欲しいよね。少なくとも40名くらいは」と図書館職員のみんなと話していた

のだが…。蓋を開けると、希望者が殺到してあっという間に定員の70名を超えてしまった。


 定員に達した時点で参加の募集は打ち切りになるのだが、70名に入れなかった生徒たちから「どうしても講演を聴きたい」の要望が絶えなかった。挙げ句の果てには、先生方からも「参加したいから入れてくれないか」という声が上がり、このまま締め切るのはあまりにも薄情ではないかと思われた。


 結局、講演会は講堂で行うことになった。事前に申し込みをしていなくても、希望者は誰でも参加できることとした。我が勤務校は、中学と高校のそれぞれに、ひとクラス30名が5クラスある。つまり、全校生徒は300名。講堂なら余裕で300名を収容できるけれど、まぁ、さすがに全員ってことはないでしょう…。


 講演会当日。土曜の午後である。みんな部活があるし、早く帰りたい子もいる筈なのに…。講演会場の講堂には大勢の生徒が集まった。並べておいた椅子がどんどん埋まっていく。急遽、席を追加しなければならなくなった。


 結局、全校生徒がほぼ全員、講堂に集まった(体調不良で欠席している子を除いて)。先生方もほぼ全員が参加してくれた(家族の用事で帰宅された方を除いて)。こんなにたくさんの人たちが私の失恋話を聴きに来てくれただなんて。複雑な気持ちだったが、喜んでもらえるよう頑張ろう。


 講演のテーマは「司書・志木ありさを失恋の痛手から救った本たち」。つまり『本を読むことによって私は失恋から立ち直ったんです』『その本とはこれらですよ』と、恋バナから書籍の案内へと結びつけようとする試みなのである。…大丈夫かな。


 結果は、大丈夫であり、大丈夫ではなかった。


 失恋話への食い付きは非常に良かった。

 もちろん脚色だらけの、私に都合の良い話を作り上げた(名前は仮名にした)。翔くんは移り気なダメ男に、伊藤さんは超肉食系の強引な女性になってもらった。そして、彼らがいかに私にひどい仕打ちをしたかを訴えかけて、聴衆の同情心をあおった。非情なる横恋慕物語が誕生した。


 そして、私を元気付けてくれた書籍(実際には本に頼ったわけではないが)を何冊か紹介した。その物語の如何なる点が、私の心に響いたのかを説明したのだが…。


 講演後の質疑応答では、私の失恋に関する質問ばかりが飛び交った。本に関しての質問は皆無で、少しがっかりした。でも、お勧めの書籍については参加者に手渡したレジュメに記されているので、まあ、良いことにした。


 講演会は成功したと言えただろうか…。

 私は、胸を張って言おう。大成功だったと。


 講演会の後、図書館を訪れる生徒が増えた。ものすごく増えた。

 本を借りたり、図書館で調べ物をする生徒は少し増えた程度だったが…。

 何と、司書の私に会いに来てくれる生徒が激増した。


「志木センセ、元気だしなよ」  先生じゃないから。志木さんと呼んでね。

「ありさ、これあげる(個別包装のお菓子を差し出して)」  ありさって…友だちじゃないよ。


という感じで、私を励ますために図書館に足を運んでくれる生徒が大勢現れたのだ。

 これはこれで、悪くない。

 図書館職員の全員がそう思った。この子たちと仲良く話しながら、読書へ導けば良いのだから。


 辛抱強く彼女らと接する日々が続き、徐々に図書の貸し出し件数も増えていった。


 この図書館利用者数の増加に向けての試みは、先生方にも注目された。


 先生たちは学習内容を充実させるために、生徒たちに自分自身で様々な資料にあたって欲しいと常々思っていたらしい。そんな時、楽しそうに図書館に押し寄せる生徒たちの姿を見て、これを利用しない手はないと考えたようだ。


 こうして、教師と図書館が協力し合って生まれたのが、教科書の内容を補う図書を紹介するニュースレターである。このニュースレターは、基本的に毎月発行され教室に貼り出され、生徒全員に送信もされることになった。図書館で調べ物をする生徒が増えたら、教師も図書館も万々歳だ。


 このように、翔くんと別れた後、私は以前よりも濃密に学校と関わるようになった。

 すると、同僚から飲みに誘われることが増えた。ニュースレターを作成するようになってからは、先生方とも交流が深まり、一緒に食事に行くことも増えた。さらには、同僚や先生方の大学時代の友人も交えた食事会にも誘ってもらえるようになり…。


 私の交友関係は一気に広がった。前よりも、知人や友だちが増えた。


 翔くんと付き合っていた時は、彼と結婚することばかりにとらわれていて、職場の仲間たちときちんと向き合っていなかったかもしれない。

 認めるのは恥ずかしいが、私は、鮎ちゃんのお見合い結婚に反発して、翔くんと結婚することに執着し過ぎていたのだろう。

 

 鮎ちゃんは、無理やり押し付けられた相手と結婚した訳じゃないのに。

 思い返してみると、私は、随分と視野が狭くて愚かだったなぁ…と思う。


 そして、そんな馬鹿な私を辛抱強く導いてくれたパニに、心から感謝している。

 パニは、ずっと私の味方でいてくれた。

 おじいちゃんの言う『自分で名前を付けて、生涯大切にできるぬいぐるみを持つ』ってこういうことだったのかもしれんなぁ…。


 久しぶりに、麟太郎さんにぬいぐるみの洋服を仕立ててもらおう。2着。

 1着はふわふわの可愛い「うさこちゃん」のために。

 もう1着は、口の悪い「パニ」が着ても違和感のないものを。


 これからもよろしくね。うさこちゃん、そしてパニ。




 

  

【参考図書】 「不思議の国のアリス」 ルイス・キャロル 作  福島正実 訳

                   角川文庫  1990年


       「虚無への供物(新装版)」上下巻  中井英夫 著

                   講談社文庫  2016年


       「サロメ」  オスカー・ワイルド 作  福田恒存 訳

                   岩波文庫  1995年




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あなたがウサギを置いたから 内藤ふでばこ @naito-fudeb

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