後編


 その後の話は俺がしよう。


 ソチ五輪銀メダリストのスコット・ヴァミールは、五輪から一ヶ月後の世界選手権を欠場し、シーズン終了と共に正式に引退を表明した。「俺が戦ったのはワーテルローではないし、セントヘレナにも行かない。誰にも負けてはいない。金を失ったのではなく、銀を手に入れた」という引退会見での発言が話題になった。カナダの英雄は、最後まで高潔なアスリートだった。


 ソチ五輪は五位入賞を果たした紀ノ川彗も、二〇一四年六月にアマチュア選手としての活動を休止すると発表。それが引退宣言だと世間では受け止められた。休養発表後から、彼は国内外のアイスショーに引っ張りだこで欠かせない存在になってきている。だが……。

 紀ノ川さんは根っからのスケーターだ。ショーに飽きたら、また競技に戻ってくるのかもしれない。


 長澤先生と神月先生は、相変わらず盛岡で後進の指導に当たっている。盛岡のリンクは、俺の金メダル獲得から一般の利用者もクラブ練習生も増えたらしい。嬉しいけれど教えるのが大変だと神月先生が楽しそうに語った。

ソチ五輪が終わった後、長澤先生には第一子が生まれた。俺の氷上の父は本当の父親になった。今年の夏も、一ダース分の甘酒を送ってくれた。

 一度だけ、長澤先生に留佳さんとのことを聞いた。先生との最後のシーズンで、フリーの曲を決めた時。先生の留佳さんに向ける感情を、小さい頃から多少は知っているつもりではあったから。俺が尋ねると、先生は昔のことだと柔らかく笑った。肩を叩いた先生の薬指には、銀色に鈍く光るものが嵌められていた。


 小さかった俺を抱き上げた堤昌親は、二〇一四年現在、横浜を拠点に活動し、ショーに指導者に解説者にと八面六臂ぶりを見せている。少し前に、活動拠点にしていた釧路のリンクが潰れたらしいが、詳しい話は聞いていない。金メダルが決まった時、すぐに、「おめでとう。解説席で見られて嬉しかったよ」という賛辞のメールと「近いうちに俺の教え子と戦うかもしれないから楽しみにしててね」と、教え子とのツーショットの写真を送ってきた。教え子は哲也という名前の、瞳が綺麗な男の子だった。


 二〇一四年十月。

 新しいシーズンが幕を開けた。

 グランプリシリーズ第二戦、カナダ大会。男子シングルショートプログラム。


「本当は引退するつもりだったんですけどね」


 フェンスを挟んだダニーと向き合いながら、俺はそう呟いた。満員のスケートリンク。前滑走の選手がキス&クライに座って点数を待っている。

 五輪で金メダルを獲って、留佳さんの首に掛ける。そうすれば、きっと満足して終われるものだと思っていた。


「現実はそうはいかない。君はまだ若い。第一、君が引退しようとしても、周りの人間が放っておかないさ」

「ダニーも止めていましたか?」


 当たり前だと壮年のカナダ人紳士は薄く笑う。


「だって今、君は夢を叶えたんだろう? それなのに、折角咲かせた花を簡単に折ってしまうなんて勿体無い。それはできるだけ長く保存しておかなくてはならないよ」


 五輪シーズン終了後も、俺は変わらずダニー・リーに師事している。練習環境も、コーチとの信頼関係も何も問題がない。移籍は考えられなかった。当分は彼の元で練習を重ねるつもりだ。次の五輪については何も考えていない。考える必要もないだろう。


「……昔むかし、あるところにとても美しい男の子と、スケートの上手な女の子がいました」


 日本語で呟きながら、俺は左耳のピアスを付け直した。つけていた角度が下がっていたからだ。ピアスホールは盛岡の医者に開けてもらった。ピアッサーで自力で開けようとしたら、留佳さんに止められた。感染症が心配だから絶対にダメ、と。その時の顔は忘れられない。恋人というより母親みたいだった。

 左耳に灯った紫色の淡い光を見て、ダニーが俺の肩に手を置いた。


「君と、君の愛しい人に、幸福な時間を」


 昨シーズン、フリーのプログラムを決める際にダニーに話した昔話。続きはこうなっている。




 岩手山の麓で生まれた男の子は、生まれつき体が弱かったのです。心配した母親は、男の子を健康にさせようと通わせたスケートリンクで、フィギュアスケートと一人の女の子に出会いました。

 女の子はとても綺麗なスケーターでした。猫のように気まぐれで、誰よりも優雅。今でも男の子の原点は、幼い時に直に見た彼女の演技だったと言いきれます。

 そんな彼女には夢がありました。大好きだった人と長野五輪に出場することです。しかし彼女は摂食障害と怪我が重なり、滑れなくなってしまいました。彼女の好きだった人は長野五輪に出場し、その後はアメリカへと旅立っていきました。

 彼が去った後、女の子はぼんやりと泣くことが多くなりました。男の子が心配して隣に座ると、彼女は力無く呟きました。目指していた場所も、大事な人も遠くに行ってしまった。私には何もない、と。

 男の子は彼女の涙を一生懸命拭いながら言いました。


「ぼくがいるよ。ぼくがあなたを、オリンピックに連れて行く。あの人に続く場所で金メダルを獲って、あなたの首にかけてあげる」


 女の子はそこで笑ってくれました。久しぶりに見る女の子の笑顔に、男の子は大変嬉しくなりました。同時に、こう思ったのです。この人が大事だ。だから、この人のために滑りたい、と。滑り続けたら、綺麗な花が咲くように、この人は笑ってくれるだろう。


 それが俺の、恋と、スケート人生の始まり。



 そして今日も、世界で一番愛しい人を幸せにする時間が始まる。


 コールされてリンクに飛び出す。位置につき、一音鳴ると、俺の世界が展開される。会場のスクリーンをちらりと見ると、氷上の俺の姿と名前や経歴が表示されていた。書いてある内容は次の通りだ。


 二〇一四年ソチ五輪優勝、神原出雲、日本。


                               (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷華、咲くとき 神山雪 @chiyokoraito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ