終章 開花【2014年、崎山留佳と神原出雲】
前編
二〇一四年三月。
先月の半ばとは打って変わって、岩手山は穏やかな顔を見せつつも、純白の神の使いをちらちらと舞い踊らせていた。二月半ばの大雪は、あの子が吹き起こしたものなんじゃないかと疑っている。
粉雪が舞う深夜。私はあの子に会うためにかつての職場を訪れていた。
鍵は空いていた。もともとここで練習していたのだ。深夜の貸切ぐらい予約できるだろう。騒ぎにならないよう、匿名で申請したのかもしれない。
数えきれないほど貸し靴を渡した受付を通り過ぎる。
照明は最小限の薄暗いスケートリンクに、一輪の氷の華が咲いている。華を彩るのは、ヴァイオリンとピアノの二重奏。
カミーユ・サン=サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」。
ヴァイオリンにピアノが寄り添うように。
音は水。氷上は豊かな土壌。旋律が氷上の隅々にまで行き渡り芽が出る。よく伸びるスケートは、際限なく伸びていく蔦のようだ。滑っている格好は黒のシンプルな練習着。……だけど私には、紫色の華やかな衣装に映って見えた。曲は終盤。ラストのコレオグラフィックシークエンス。軽快な音と共に、滑りの質が、深淵から羽毛が舞うかのように軽くなる。ピアノの打鍵が目立つときは、エッジを深く傾けて。どんな時でも姿勢が崩れない。
三週間前の演技とかぶる。
体が熱い。
目の前に広がる至高の世界。まっさらな氷に、あの子のトレースだけが残っている。
随分遠い存在になってしまったのに、手が届く距離にあの子がいる。
曲が終わり、全ての要素が実施されて最後のスピンを解く。
「出雲!」
世界の外から、私は声を掛ける。このフェンスは境界だ。スケーターとスケーターではないものの境目。氷の上で戦える人間と、そうではない人間。スケーターは、氷の上にいる時は人ではなくなる。
その中心で、あの子がゆっくりと振り向いた。
氷の華が美しく咲き誇っている。
「久しぶりです。お元気でしたか?」
あの子――神原出雲が、小さい頃と何も変わらない顔で、私にだけ微笑みかけた。
「うん。……久しぶりっていうほどじゃ、ないと思うけど」
正確にいえば、二ヶ月前の福岡で会った。その時、カナダに行って以来一年九ヶ月ぶりに顔を合わせた。大学生になって、前よりも筋肉がついたようだった。昔の細すぎる印象しかなかったから、私は密かにどきどきした。
「ファイナルの時は、来てくれて本当にありがとうございました」
「……だって、チケットを送られてきたら行くしかないじゃない」
二ヶ月前。福岡で開催されたグランプリファイナル。
出雲が、選手の関係者だけが座れるシャロペン席のチケットを私にくれたのだ。私は関係者でも、彼のトレーナーでも、マネージャーでも、親族でもない。だけど、もらったチケットを返す気にはなれなかった。
ソチ五輪の開催国はロシアだ。現地には行けない。ならば、せめて日本で開催される大会では会場で見たい。そんな欲が確かに優っていたのだ。
……その大会から、彼は表彰台の中心を守り続けている。グランプリファイナル初優勝、全日本選手権二連覇。そして。
冬季五輪ソチ大会。フィギュアスケート競技、男子シングル。
三位はアメリカのネイト・コリンズ。ショートプログラム六位からの逆転表彰台だった。ショートプログラムの「ボヘミアン・ラプソディー」も勿論だが、フリーの
「キング・アーサー」も名作だった。
二位はスコット・ヴァミール。バンクーバー五輪から四年、絶対王者として戦い続けたカナダの英傑がついに五輪でメダルを獲得した。
そして――
「おめでとう」
キス&クライで、目を丸くする出雲と対照的に、隣に座るダニー・リーは穏やかな顔だった。長澤先輩みたいに、この結果を予想していたようだった。
リンクサイドに戻った出雲は、フェンスにかけておいたサコッシュに手を伸ばした。
――写真では何度も見ている。実物は見るのも触るのも初めてだ。
知っている限りの冬季五輪のメダルの形を思い出す。長野の時は小ぶりだが繊細な作りだった。ソルトレイクのものは覚えていない。トリノの時は宇宙の円盤みたいだった。バンクーバーのものは、感無量の顔をした紀ノ川彗の姿とセットで思い出された。
出雲が持ってきたのは、真ん中に透明素材を繰り抜いたデザイン。ソチの山々と雪の結晶が連想される。首紐は青。青と、メダルの金色のバランスが絶妙に美しい。首に掛けられた金メダルは重たかった。
「ずるいな、出雲は。本当に昔の約束を果たしてくるんだもの」
――ばかだなあ。でも、ありがとう。期待しないで待っているね。
スケートをやめた直後。観客席の隅で泣いていた私は、出雲によく励まされていた。小学校にも上がっていない子供が、小さな手を使って私の涙を拭ってくれた。
目を瞑ると、あの時の演技が浮かび上がる。
ソチ五輪男子シングル。最終グループ、三番滑走。堤昌親の解説は徹底して淡々としていた。実施した技の名前、出来栄え、減点か否か。発言したのはそれぐらいだ。
今思うと、昌親は、極力言葉を挟まないようにしていたのかもしれない。画面越しに見ている人間が演技に集中できるように。見ている人間に先入観を与えないように。
四回転サルコウ、四回転トウループ+三回転トウループのコンビネーションジャンプから始まる。シャープな放物線。流れるようなランディング。多彩なポジションを見せるスピン。基礎点が1.1倍になる後半に、五つのジャンプを組み込む。
紫色の、氷でできた薄い花弁。触れたら壊れてしまうのかもしれない。だけど、手を伸ばさずにはいられない。
力強く。だけど繊細で、美しく。
「あなたの滑りを見ると、滑れなくなった私の体が熱くなる」
深夜。出雲の演技を見ているうちに、私の瞳から大粒の涙が落ちていった。抑えきれなかった何か。心の片隅で否定はしつつ、抱え込まずにはいられない熱いもの。
「それなら、今から一緒に滑りませんか?」
出雲は笑って手招きをする。思わぬ提案に、私は少し怯んだ。
「無理よ。私、靴持っていないから」
「貸し靴ならありますよ。たくさん」
スケーターなら、自分の靴で滑りたいと思うものだ。
でも今の私はスケーターじゃない。
……貸し靴を入れた棚は、閉館と同時にシャッターを閉めて鍵をかける。シャッターの鍵の保管場所は変わっていなかった。鍵を開けて、二三.五のサイズの靴を探しあて、エッジカバーを外して氷の上に立つ。
世界のこちら側。スケートリンクで働いていても、氷の上に立とうとはずっと思えなかった。
「……意外と体が覚えているものね」
十六年ぶりの氷上。リンクサイドとは違う冷たさが支配している。二本の足で立てているのが奇跡だ。フォアで、右のアウトサイドエッジ、インサイドエッジと切り替えて滑っていく。バックで滑れるか。重心を傾けて体の向きを変える。難しいターンは滑れないけど、エッジ使いならわかる。前向きか後ろ向きか、左足のインサイドかアウトサイドか、右足も同じように。
「じゃあ、やってみましょうか。フリーの最後の方とかどうです?」
「ちょっと。本当に滑るの?」
苦笑しながら腰が引き気味の私に、出雲が手を伸ばしてきた。
「滑れますよ。絶対。だってこれは留佳さんなんですから」
「序奏とロンド・カプリチオーソ」の終盤のストレートラインステップ。出雲が、ここを滑ろうと提案したのには理由がある。
出雲は私の手を取ったまま、鼻歌で滑り出す。私も後に続く。最後に滑った時は、体に鉛が詰まったみたいだった。それなのに、今は、羽毛みたいに軽い。左足フォアイン。右足フォアイン。出雲みたいには滑れない。だけど、あの時の自分のようには滑ることができる。
……スケーターとして本格的に始まるはずだった私のショートプログラム。飛び跳ねるヴァイオリンを、ピアノが手を添えて踊る。このプログラムで長野に出たいと確かに言ったことがある。音と滑りが鬩ぎ合う。初めて見た時に理解した。これは私のプログラムが下敷きになっているのだと。
「出雲はこのプログラムを、どこで見たの?」
二〇〇九年の世界ジュニアが終わった後、落ち込む出雲をここに連れ出した。リンクサイドで、私は彼の滑っている様子を見つめる。調子を取り戻した出雲がこれを滑り出して、私は静かに驚いたものだ。
「一九九六年の東北ブロックです。会場はここだったから。実は会場にいたんですよ、俺」
「……嘘。だってその時、二歳ぐらいだったでしょ?」
「綺麗なものは覚えるようにしているんです」
本当かどうか知る術はない。振付は神月先生だ。先生から教わったのだろうか。それともビデオを撮っていた誰かがいたのだろうか。いや、それとも長澤先輩に聞いたのだろうか。……考えるのはよそう。大事なのは、私の一部があの子になって五輪の舞台で頂点に立った。その事実だけで十分だ。
口の端が緩むのが抑えられなかった。出雲の鼻歌が再開される。私はひたすらに足を動かし、氷の世界に身を浸していた。冷たい風が気持ちいい。
「楽しいなあ。……ねえ、スケートって、こんなに楽しかったんだね」
どうして苦しさしか覚えなくなってしまったのだろう。大好きだった人に置いていかれるのが寂しいと思ったからか。自分の体が変わってしまった戸惑いが優っていたのか。星をつかみたくても掴めない自分が悲しくなってしまったのか。負の感情がマーブルになり、全てが重くのしかかって、私は折れてしまった。
リンク中央に戻ってきた私は、肩で息をしていた。絶対零度の氷上。ここが世界の中心。隣に立つ出雲は、何よりも繊細に咲き誇っている。
ソチ五輪で美しく開花した、神原出雲という名前の氷上の華。
「留佳さんは、今、幸せですか?」
出雲が聞いてくる。先月、私が長澤先輩にしたものと同じだった。口の端がゆるむのを抑えられなかった。答えは決まっている。
「幸せよ、ものすごく。全部あなたのおかげ」
よかった、と出雲は目を細めた。
「俺の夢も叶いました。これ以上にないぐらい幸せです。……これからはどうしようかな」
出雲は少しだけ寂しげな目を作った。
ソチ五輪の男子シングルが終了した直後、出雲は二十歳の誕生日を迎えた。ぎりぎりだが、男子シングル史上、十代で五輪の金メダリストになったのは彼が初めてだ。若すぎる五輪王者は、叶えたかった夢を全て叶えて、自分の向かう先がわからなくなっているのだろう。モチベーションが維持できなくなるのか、歴代の五輪王者はそのまま引退する選手が多かった。
私は少し考えて、左耳のピアスを外した。二年前に盛岡を離れる時、出雲が贈ってくれたもの。
「これ、渡しておくね」
私はスワロフスキーのピアスを出雲の手のひらに押しつけた。思いっきり戸惑った表情でピアスと私の顔を交互に見比べる。私の意図が読めなかったようだ。スケーターという仮面が外れた、年相応の男の子の反応。私は笑いを禁じ得ない。こんな顔を知っているのも、私だけなのかもしれない。
「返すんじゃない。氷の上での苦しみも喜びも、全部分け合うの。……あなたはこれで終わりじゃない。私をもっともっと、幸せにしてくれるんでしょう?」
あなたが好き。そう言ってしまうのは簡単だ。出雲からその言葉を聞くのはもっと容易い。きっと出雲は、それを伝えるために私を呼んだのだから。
それはまだ先にしたい。
私は出雲が好きだ。出雲自身も、そして、出雲の滑りも。世界で一番愛していると言い切れる。今までもこれからも。だからもっともっと、見ていたいのだ。
氷上で咲き誇る美しい花を、誰よりも近い位置で。
「ずるいですよ、留佳さん。これで満足したと思ったのに。もっと滑りたくなったじゃないですか」
私は意地悪く笑った。最初にずるいことをしたのは出雲だ。だから、私だってちょっとずるいことを言いたい。
あなたの演技を見ている時間が、一番幸せだから。
「……全部終わったら、あなたが俺を拾いにきてくれますか」
吐いた出雲の声には、少し涙が混じっていた。世界の中心で見つめ合う。手を伸ばせば触れられる位置。遠くの存在になっていたと思っていたのは私だけだった。出雲の滑りも、心も、いつだって私に向いていた。私は彼の小さな頭に手を伸ばし、両手で掻き抱いた。互いの体温が近くなる。私の抱擁を出雲は黙って受け入れている。
「当たり前よ。絶対に、誰にも渡さない」
だからそれまではどうか咲き続けて。
私の思いを理解したように、出雲は私の背中に手を回した。
誰もいない深夜のスケートリンク。
それは、これから再び始まる場所にもなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます