最期の命令

文鳥亮

最期の命令(1話完結・三訂版)

 戦後のある夏の日。

 一人の初老の男がベッドに横たわっていた。


 その顔はどす黒く、一面に斑点のようなしみが散らばり、少し口をあいたままで、髪は薄く、かつての立派な体格を思わせる骨ばった体に、黄ばんだ皮膚が貼りついていた。

 ここは小さな町立病院の一室で、男の名は勝男という。


 彼は今さっき上体を起こされ、前には移動式の小さな架台が寄せられ、四角いお盆にのった少量の流動食やお茶などが置かれていた。ベッドわきには、見舞いに来た目のくりくりした女の子とその母親が付いているが、彼の意識は霧が掛かり、目は半分いているのに反応が乏しかった。


 昼食時に来てくれた看護婦によると、彼は肝硬変が進行するとともに、脳軟化症による認知機能の障害が急速に悪化していた。ここしばらくは、今のようにぼーっとすることが多く、中でも問題なのは、ひどく食欲が減退し、自発的にはまったく食事を摂れていないことだという。

 つまりは、いよいよ最期が近づいていたのである。


 外は猛暑で蝉の声がうるさかったが、この部屋では窓のクーラーがガーっと大きな雑音を発し、そこそこ冷えた空気を送り出していた。


(いちばんしなくてはいけないのは、ご飯を食べさせることね)

 つぶらな瞳で見つめていた涼子りょうこはそう理解した。

 どうしたらこの人が食べてくれるか、さっきからずっと考えている。

(‥‥‥そうそう、おじいちゃんは元軍人だから、命令すればしゃんとしてご飯も食べるはず)

 それが小さな頭で懸命に出した答えだった。

 彼女は大きな声を出そうと深く息を吸い、吐き出した。


「命令だ! これを食え!」


(な、な! なんてこと言いだすの、この子は!)

 うたた寝していた佳代子は顔色を変え、弾けるように立ち上がると、涼子の肩をぐいと引いた。

「やめなさい! おじいちゃんになんてこと言うの!」

 振り向いた涼子は口を尖らせる。

「だって、このまま食べなかったらおじいちゃん死んじゃうじゃない!」

「だからって、命令なんかするものじゃないでしょ!」

 佳代子は目を尖らせる。

「だって、おじいちゃ」

「やめなさいと言ったらやめなさい!」

「‥‥‥‥‥‥」

 佳代子の剣幕に、涼子は不服そうに口を閉じた。


 しかし、女たちが口論する間に、勝男にわずかな変化が生じていた。半眼のまぶたがかすかにしばたいていたのである。

(‥‥‥命令? そうだった。あのとき俺たちは砂浜で突撃したんだ‥‥‥)

 二人は気づかなかったが、彼の頭脳は高速で回転を始め、三十年以上前の記憶をたどっていた‥‥‥


  ♢ ♢ ♢


 暗夜である。

 日本軍は飛行場を奪われ、それを奪還すべく米軍陣地に攻撃を掛けようとしていた。しかし、尖兵がイル川上流側の正面で渡河を阻まれ、部隊は作戦の変更を余儀なくされた。一部を牽制に残し、大隊主力が河口の砂州を渡って敵陣に突入することになった。

 序列では勝男の所属する中隊が先頭である。まだ戦闘が続く中、中隊長の命令が各小隊の伝令に伝えられた。将兵はひそかに行動を開始した。


 男たちは目だけを光らせ、黙々と砂浜を匍匐ほふくし、砂州の手前で着剣した。先頭が砂州に入り、じわじわと進んでいく。

 とそのとき、シュパーっと照明弾が上がり、あたりが照らされた。

(まずい‥‥‥)

 全員がぴたりと静止し、消えるのを待つ。

 だが。

 中隊長は、もはや猶予はないと判断した。彼はがばと立ち上がり、軍刀を振り下ろした。

 それがギラリと光を反射する。

「突っ込めえええ!」

 男たちは一斉に体を起こし、もの凄い勢いで突進した。

「うおあああああ!」「おおおおおお!」


 その途端、大音響とともに凄まじい量の火箭が飛び交い、あたりを覆った。

 海岸の砂が弾け、破片が襲い、ある者は宙に舞い、ある者は地面に倒れた。倒れた者の上に別な者が倒れた。生身から流れ出たたくさんの血が、海岸の砂に沁み込んでいった。

 勝男たちは中隊の尖兵として真っ先に駆け出したが、砂州の端あたりで目の前の地面がはじけた。

 昭和十七年八月二十一日未明、とある南海の島のできごとであった。


———彼の頭脳はさらに回転し、場面も移っていく。


 二月にガダルカナル島を撤退した勝男は、いったんブーゲンビル島にとどまり、その後、フィリピンのルソン島の部隊に転属した。しばらくはそこで安穏な軍隊生活を送った。

 しかし昭和二十年一月。

 連合軍が、大挙してルソン島のリンガエン湾に上陸した。日本軍はこの島を占領してから三年近くを無為に過ごし、堅固な防衛態勢はまったくできていなかった。泥縄の防衛部隊は、たちまちにして打ち破られた。


 勝男たちは敗走に敗走を重ね、最後はルソン島中部で東方の山岳ジャングル地帯に逃げ込んでいた。その一帯は人口も少なく、人跡未踏のジャングルには、穀類はもちろん、食べられる果実や野草の類はほとんどなかった。

 悲惨な飢餓に陥った彼らは、現地民の集落に食糧を盗みに入り、追われては奥地に逃げるの繰り返しであった。


 かくて、勝男が行動を共にする仲間たちは次々と欠けていき、最後には彼が敬愛してやまない小隊長ただ一人になっていた。


———日付は不詳だが、おそらくその年の八月後半。


 ジャングルの切れ目で、二人は小さな水流の横合いに倒れていた。

 もう五日間まともな食べ物を口に入れていない。自分らがどこにいるか、皆目見当もつかない。まずいことに、小隊長は足に怪我を負っていた。その傷口が化膿して大きな潰瘍になり、一部は腐敗して骨が見えている。

 そのせいか、二、三日前から高熱を発しており、意識もほとんどなかった。


 小柄な彼を勝男は背負って逃げ、食糧さがしも一人でやっていたが、そのためにすっかり体力をなくしていた。彼自身も悪性のマラリアに冒され、もはや立ち上がるのもままならぬ状態である。

 死がすぐ目の前に迫っていた。


 彼は苦労して水辺に這って行き、水を汲むと、小隊長に飲ませようと這って戻った‥‥‥


  ♢ ♢ ♢


 さっきの病室。


(そういえば、あたしの名前はおじいちゃんが付けてくれたんだっけ‥‥‥)

 それを思い出した。

 彼女はこの名前が好きだ。なんでも勝男のいとこに涼子という奥さんがいて、とても素敵な人だったと聞いている。残念なことに写真も見たことがなく、どんな人かは分からない。


「女の子なら涼子がいい、涼しいって書いて涼子だ」

 勝男が強く言ったらしい。

 初孫の誕生に際し、名前の候補を求められたときのことだ。しかし、生まれたのは今日みたいな暑い盛りの八月一日で、両親はかなり迷ったようだ。それでも、響きが良いし、夏だから逆に涼し気な名前もいいかと涼子に決めた。

 それからしばらくたってのことだが、勝男は滅多に昔の話はしないのに、あるとき涼子の想い出をとても幸せそうな表情で語ったという。

 それでこの名の本当の由来が分かったのだが‥‥‥


(きっと、おじいちゃんは好きだったのね、涼子さんのこと)

 彼女はそう思うたびに微笑ほほえましく感じる。しかも、かっこ良いことに、その旦那さんはもの凄く強いゼロ戦パイロットだったそうな。

(多分、決闘したらおじいちゃんじゃかなわない。振られたんだ、ふふふ)

 ちょうどいま、子供向け全集でそんな西洋貴族の物語を読んでいた。


(でも、おじいちゃんは戦争の話になると、いつも凄く嫌な顔をするけど、どうしてなのかな? 聞きたいけど、こんなことになっちゃったし‥‥‥ううん、でもやっぱり知りたいな)

 しかし、彼女に大東亜戦争の知識はほとんどなく、ましてや勝男の壮絶な戦歴など知る由もなかった。


 そうやって考えに沈んでいると、母が声を掛けていた。

「涼子、‥‥‥涼子?」

「‥‥‥あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してた。なに?」

「私、ちょっと電話架けてくるね。だけど、さっきみたいなこと言ったらだめよ‥‥‥じゃあ、もうちょっとがんばって食べさせてあげて」

「はーい」

 公衆電話は病院の小さな玄関ホールにある。バッグからがま口を取り出すと、佳代子は出て行った。さっきの「これを食え」から十分もたっていない。


 涼子がよく見ると、勝男は手をもぞもぞ動かしている。

(あれ? おじいちゃん、しゃんとするのかな?)

 少し首を捻って考えたが、今度は正攻法で行くことにした。

 彼女はまた息を吸い込んだ。

「おじいちゃん、ご飯だよ。食べないと病気良くならないよ!」

 大きな声で呼びかけ、勝男の腕や肩をさすってみたりもする。

「おじいちゃん!」

 勝男の手の動きは止まり、口が開きかかったように見えた。

(さあ、どうかな‥‥‥?)

 じっと見つめたが、それ以上の変化はなかった。


「なーんだ、だめかあ。やっぱりショック療法じゃないとだめなんだよね。ママったら、なんにも分かってないんだから」

 彼女は勝手な結論に達すると、ドアから顔を出して廊下を見た。むっと熱気がくるが、母は戻ってこない。

 よし。

 ベッドのそばに戻ると、今度は作戦を変えて耳元でそっと言ってみた。


「命令だ。これを食え」


 それを聞くと彼の頭脳は再び高速回転を始め、封印していた記憶がよみがえってきた。


  ♢ ♢ ♢


 彼は水筒の紐を腕に掛けて引きずりながら戻った。たかだか十メートル這うのに結構かかる。

 木陰に入ると、頭上では鳥が元気にさえずっている。

「小隊長殿‥‥‥水です」

 耳元で呼びかけたが応答はない。

 彼はやっとのことで起き上がり、震える手で水筒の蓋を小隊長の口にあてがった。水がこぼれたが、たぶん口に入った。

 と、小隊長が口を動かし始めた。目は閉じたままだ。


「なんですか? 小隊長殿」

 彼は耳を寄せる。

「あ・り・が・とな」

 かすれ声だ。

「いえ、そんな」

「おれは‥‥‥」

「はい」

「もう‥‥‥だめだ」

 いけない。弱気は死神を呼ぶ。

「そんなことはありません‥‥‥俺が必ず食糧を‥‥‥見つけてきます‥‥‥しっかりしてください」

 しかし勝男の息も荒い。もはや食糧などどこにもなく、よしんばあったとしても取りに行く体力はない。

 そこで言葉が途切れた。


「小隊長どの?」

 腕を揺すると、また口が動き始めた。

「‥‥‥くうんだ‥‥‥おれを」


 勝男はぎくっとした。

 飢餓の極限で兵隊が屍肉を喰らう話は聞いている。いや、それはすでに起こっている現実のことだった。

「ばかな‥‥‥おやめください」

「きけ」

「はい」

「いきて‥‥‥かえれ‥‥‥にほんに」

「はい‥‥‥小隊長どのも一緒です」

「いや‥‥‥おれは」

「はい」

「おまえの‥‥‥からだに‥‥‥なって」

「おやめくだ」

「かえる。‥‥‥ならばいっしょ‥‥‥だ」

「それは‥‥‥」

 勝男は答えに窮した。

 そこでまた言葉がとぎれた。


 しばし二人は沈黙し、さらさらとせせらぎの音だけが続く。

 彼は不安になった。

「小隊長どの? どうされました?」

 すると、またかすれ声。呼吸が不規則になり、かなり苦しそうだ。

「‥‥‥め‥‥‥」

 そして急に声がはっきりした。


「命令だ。俺を食え‥‥‥」


 そこで小隊長の呼吸は止まった。勝男はそれに気づくとうろたえた。

「小隊長どの、小隊長どのお!」

 必死になって体を揺するが、もはや反応はない。

 なかば予期したことだが、もう少し先だと思っていた。心の準備はできていなかった。


「なんで‥‥‥俺をおいていくのですか」

 彼は小隊長にすがりついて泣いた‥‥‥


  ♢ ♢ ♢


 目を開けると、ぼんやりした視界に女の子が見える。

 頭脳が回転し、その子が誰だか思い出した。世界に二人といない孫娘。

「あ、おじいちゃん、気がついたの?」

 しかし彼は聞いていなかった。小隊長に報告していたのだ。

 うれしかった。

 たまらなくうれしかった。

(あなたにいただいた命はこの子につなぎました‥‥‥私の役目は終わりました。いまから、おそばにまいります)

 報告を終えると、彼は至福の表情のまま意識を失った。

 確かに彼は役目を終えたのかもしれない。それきり意識は戻らなかった。


 それから何日かねばったが、ついに頭脳の回転は止まった。ずいぶん遅れたが、彼は永久とわの旅に出たのだ。

 そこにはきっと、小隊長や他の懐しい人たちがいる‥‥‥



  * * *



 さて、ここで重大な疑問に突き当たる。

 彼はなぜ生還できたのか?


———気がつくと彼は米軍の野戦病院に寝ていた。

 すでに戦争は終わっている。しばらくして体が回復すると収容所に送られた。尋問を受けたが、どこからも戦犯の容疑は出なかった。

 彼は翌年の一月に復員した。


 小隊長の死後、彼はそのまま隣に横たわっていた。一緒に死のうと思った。そうするうちに、いつしか意識を失った。しかし、強靭な肉体が最後の二日間を生き延びさせた。

 雨も彼を助けた。

 そして、たまたまいつもより奥に入った米軍のパトロール隊が、異臭によって二人を発見したのだ。


 そう。


 


        -了-


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