10夜目のためのお話:とっておきの魔法
宵闇に染まった窓ガラス越しに、ふわりふわりと舞う雪が見える。
エーファは雪のダンスを眺めつつ、鉢植えに今日の水晶細工の飾りを結んだ。
毎日コツコツと飾り付けている木には、もう十個の飾りがついている。
「ふぅ……」
背後から小さなため息が聞こえて振り返ると、ヒルデが物憂げな表情で楽譜を眺めている。聖女の選定で歌う課題曲の楽譜らしい。
今日のヒルデは何度も溜息をついている。おそらく、明日に迫った選考会に緊張しているのだろう。
「ヒルデさん、溜息をついていると幸せが逃げちゃいますよ」
それとなく声をかけると、ヒルデは目をぱちくりさせる。ややあって、自分の頬をペタペタと触わった。
「す、すみません。自分では全く気づいていませんでした」
「慣れているので気にしないでください。ここにくるお客様は、よくため息をついているんです。カフェ銀月亭は、悩みを抱えて眠れない人たちが来る場所ですから」
ふと夜空を見上げて月があると安心するように、この店を見かけた人もまた安心できる店であってほしい。そう願ってつけた名前だ。
実際にこの店の客は悩みを抱えている者が多い。中には、エーファが魔法をかけてこの店まで誘導した者もいる。
職場の人間関係に苦労している宮廷メイドや、身分違いとわかっていても令嬢に片想いしてしまった傭兵に、自分の思い描くドレスを自由に作りたい服飾士など、人も悩みも三者三様だ。
エーファは彼らの悩みを聞く代わり、エーファが望む情報をひとつ、かれらからこっそりと聞き出している。
それはメヒティルデと王太子のアンゼルムと彼の新しい婚約者のユリアにまつわる噂話や目撃情報だ。
メヒティルデがユリアの誘拐に加担したという冤罪を晴らすべく、些細な情報や証人を集めて回っている。
ここはメヒティルデを救い出すための拠点。それが、エーファがこの店を始めた理由である。
いつものエーファなら彼らの情報を持っていない人物の悩みまでは聞かなかった。ヒルデと何度か言葉を交わしたが、エーファの求める情報を持っていなかったのだ。
しかしヒルデの事は無視できなかった。
彼女は自分と同じように、会いたい人がいる。そのために懸命に歌を練習している彼女を、応援したいと思うようになったのだ。
「私でよかったら聞かせてください」
「……明日の選考会が不安なんです。もしも選ばれなかったら、私は一生あの子と再会できないのかなと思うと、怖いんです……」
ヒルデは両手をぎゅっと握りしめた。
「もし聖女に選ばれたとしても、あの子と会えるかどうかわからないのに……聖女に選ばれるかどうかでやきもきするなんて、変な話ですよね?」
「いいえ。会えないかもしれないと思うと、不安ですよね。ヒルデさんにとって聖女になることが、その人と再会できる有力な方法だと思っているんですから、なおさら不安になりますよ」
エーファも同じような不安を抱える事が度々ある。
もしも計画が上手くいかなかったら、もしも上手く行ったのにメヒティルデと再会できなかったら――。
不安が重く心にのしかかり、諦めさせようとしてくるのだ。
「――ただ、それはまだ起こっていない事で、違う未来が来る可能性もあるんです。だから不安を忘れるためにも、明日はヒルデさんが会いたい人に贈るように歌うのはどうでしょうか?」
「あの子に贈るように……ですか。――そうですね、あの子と過ごした時間を想いながら歌うと、不安も緊張も忘れられるような気がします……!」
「ええ、ぜひそうしてください」
エーファはカウンターの奥に戻ると、鍋に牛乳とシナモンを入れて火にかける。続いてケーキ作りに使うチョコレートの塊を取り出して砕いた。
鍋の上に手をかざし、牛乳が温まった頃合いを見計らって小さな塊になったチョコレートを入れる。
焦げ付かないよう木べらで混ぜ、表面がふわりと浮き上がると火を止めた。
カフェ銀月亭の店内に、ショコラの甘い香りが広がる。
「ヒルデさん、ホットショコラはお好きですか?」
エーファは問いかけつつも、草木の描かれた美しいティーカップをすでに二つ用意している。一つはヒルデ、もう一つは自分用だ。
「ええ、好きですよ」
「よかった。それでは、私のまかないに付き合ってください」
パチンと片目を瞑ってみせると、泡だて器で鍋の中のホットショコラを軽く泡立てる。このひと手間で、飲み口がまろやかになるのだ。
二つのティーカップそれぞれにホットショコラを入れると、魔法具の冷蔵庫からケーキ作りの時に余った生クリームが入った器を取り出す。それをスプーンで掬うと、ホットショコラの上に浮かべた。
「はい、どうぞ。熱いので気を付けてくださいね」
「わあっ! 美味しそう。ありがとうございます!」
「いいえ、まかないの消費にご協力いただくので、むしろ私が礼を言うべきです。ありがとうございます」
エーファはヒルデの隣の席に座ると、スプーンで生クリームの島を切り崩しながら冷却の魔法の呪文を呟く。するとティーカップの周りに小さな氷の結晶がいくつも現れ、クルクルと円を描くように舞った。
「綺麗ですね。何の魔法なんですか?」
「熱々の飲み物を瞬時に適温にしてくれる魔法です。悩める猫舌族のために私が編み出した魔法なんですよ!」
これは、猫舌であるエーファが熱い飲み物をすぐに冷ますために、よく使っている魔法だ。
本来なら攻撃魔法として使われているものだが、威力を弱めてごく限定的な範囲で発動するよう細かく調整されている。
魔法の威力を弱めることと出力の範囲を限定することは、それ自体もまた別の術式が必要になるため同時展開するには高度な技術が必要になる。
そのためエーファが初めてこの魔法を披露した時、彼女の部下たちは口を揃えて「才能の無駄遣いだ」と言い、ジットリとした目で彼女を睨めつけたのだった。
彼らがなんと言おうと、エーファは気にしない。自分の魔法の技能をもったいぶってひけらかすより、温かい飲み物をすぐに適温で飲めることの方が何万倍も重要なのだ。
「温かくて、ほんのり甘くておいしいです。少しシナモンの香りもしますね」
ヒルデはティーカップを両手で包み込む。
ほうっと溜息をつく表情は、先ほどよりも穏やかになっていた。
「なんだかポカポカとした気持ちになります」
「よかった。ホットショコラは不安を和らげてくれる魔法の飲み物なんですよ」
「元賢者のエーファさんが作ったホットショコラなら、より効果が高くなっていそうですね」
「とっておきの魔法をかけたので、きっとヒルデさんを緊張から守ってくれますよ」
「ふふっ、ありがとうございます」
温かなホットショコラを堪能し、モフモフのシリウスを撫でてすっかり癒されたヒルデは、帰る頃には笑顔になっていた。
ヒルデが去った店内で、エーファは鼻歌を歌いながら食器を洗う。
「……たまには、こういうのも悪くないかもね」
「ガウッ」
シリウスが尻尾を大きく振りながら相槌を打つ。
魔法使いと使い魔は心が繋がっている。
エーファの喜びがシリウスに伝わっているようで、彼も嬉しそうだ。
カランと鈴の音が鳴り、エーファは扉へと視線を移す。
「こんばんは、エーファさん」
「ロシュフォール団長、いらっしゃいませ!」
ランベルトは肩にうっすらと雪を積もらせている。エーファに背を向けており、少し開けた扉の隙間から外に向けて、外套についた雪を払っているところだった。
しかしエーファのいつもより弾んだ声が聞こえるや否や、その手を止めてしまった。
ゆっくりと振り返ったランベルトが見たのは、目元を綻ばせて無邪気に笑うエーファだ。
基本的にエーファはいつも笑顔だが、それはメヒティルデに仕込まれた、本心を隠す笑みだ。
今のエーファはややあどけなさを感じるものの、ランベルトに心を開いているように見えた。
「なんだか嬉しそうですね。いい事があったんですか?」
「もしかして、そんなにニヤニヤしていますか?」
「ニヤニヤではなく、ニコニコとしています」
「どちらも同じでは?」
「全く違います」
エーファにとっては取るに足らない些細な違いだが、ランベルトにとってはそうでもないらしい。
「う~ん、ヒルデさんを励ますことができたから、嬉しいのかもしれません」
「ヒルデさんを……そうですか。明日は選考会があるので、元気になられてよかったです」
かつてお嬢様狂と呼ばれていたエーファがメヒティルデ以外の誰かの話をする時にこんなにも活き活きとするようになるとは、思ってもみなかったのだ。
彼女心にいい変化が起きているのかもしれない。
ランベルトは頬を緩め、照れくさそうに話すエーファを、優しい眼差しで見守った。
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