5夜目のためのお話:雪の中に隠して

 翌日の夜、やや吹雪いている厳しい天候の中、カフェ銀月亭には客が一人いた。

 白髪の入り混じった鳶色の髪をきっちりと撫でつけている老紳士がカウンターの席に座っているのだ。


「エーファ、見ない間にすっかり痩せてしまっているではないか。人に食べさせるケーキを作る前に、自分にご飯を作ってあげなさい」

「全然痩せてないよ。ハンスさん、また視力が落ちたんじゃない?」


 彼はハンス・トレーガー。元アーレンベルク公爵家で執事長として働いていた、エーファの元上司だ。


 品があり穏やかに微笑むが、隙がないため彼を恐れる者もいた。

 噂によると、剣術と武術の心得もあるらしい。

 天涯孤独の身となったエーファがひとりで生きていくことができるよう、厳しくも温かく見守ってくれた人物だ。


 メヒティルデが国外に追放されたと知ったエーファが一番に連絡をとった人物で、以来たまに顔を合わせている。


「まさか。メヒティルデ様がお戻りになるまで老いるつもりはないよ」

「あのね、老いは気合いでどうにかなるものじゃないからね?」


 エーファはわざと呆れているような表情を作って見せる。しかし彼女の声はわずかに弾んでいた。


「今日のケーキはカヌレとチャイのロールケーキとキャロットケーキだよ。ハンスさんはどれがいい?」

「それでは、キャロットケーキとホットワインをいただこうかな」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 エーファは片手を胸に当て、もう片方の手でスカートの裾を少し摘む。

 これは、エーファが使用人として働いていた時に覚えた挨拶だ。


 普段の飄々としたエーファの面影はない。どこからどう見ても、完璧で気品溢れる侍女のそれだった。


「これは驚いた。とうの昔に侍女を辞めたというのに、少しも鈍っていないね」

「いつまたお嬢様の侍女に戻ってもいいように練習していたんです」

「君は本当に、お嬢様のためには努力を惜しまないねぇ」


 二人は顔を見合わせると、クスリと笑った。


 上機嫌のエーファは鼻歌混じりでホットワインを作る。

 メヒティルデが国外に追放されてからというもの、心置きなく彼女の話をできる人物と再開できると、どうしても浮わついてしまう。


 エーファのウキウキとした気持ちがシリウスにも伝わっており、彼は口を開けてにっこりと笑いながら二人を見ている。


「ハンスさん、あれから……お嬢様には会えたの?」

「いいや、王太子殿下の召集令でお屋敷をお出になって以来、全く会っていないよ」

「……そう……なんだ」


 執事長のハンスなら、もしかすると自分にはない伝手でメヒティルデの所在を掴んでいるのかもしれない。

 エーファの淡い期待はあっという間に砕かれてしまった。

 

「そういうエーファはどうなんだい?」

「全然会えていないよ。いったい、どこへ行ってしまったんだろう……」


 メヒティルデの追放先は明らかになっていない。彼女に手を貸そうとするものを遠ざけるためだ。


「どうか無事でありますように。……ちゃんとご飯を食べているといいんだけど……不便な生活を送っていないか心配だし、お肌や髪の手入れをしてくれる人がいるか不安……いや、私を差し置いてお嬢様の御髪に触れる者を想像すると嫉妬で狂いそうになる……」

「これこれ、邪心に負けるでない」

「だって……想像しただけで嫉妬しちゃうもん」


 エーファは頬を膨らませつつ、ホットワインを銀のゴブレットに注ぐ。


「できましたよ。どうぞ、召し上がれ」

 

 まだ湯気の立つホットワインとキャロットケーキを、ハンスに差し出した。


「ありがとう。こうしてまたエーファのケーキを食べられて嬉しいよ」


 ハンスはホットワインを一口飲むと、嬉しそうにキャロットケーキを口に運ぶ。


 使用人として働いていた頃、エーファはたまに厨房を借りてケーキを作っては、同僚たちに振る舞っていた。


 初めは父親との思い出を忘れないよう、縋るように作っていた。しかしメヒティルデがエーファのケーキを食べてくれたことがきっかけで、次第に目的が変わったのだった。


 食べた人が笑顔になる瞬間が嬉しいから、作るようになれたのだ。


「そうだ、忘れないうちに飾りつけないと――」

 

 エーファはカウンターに置いている木箱から水晶細工の飾りを一つ取り出す。

 店内の魔法のランプに照らされた水晶細工は、キラキラと小さな光を零した。


「世界一綺麗な木にするから、絶対に女神様に気に入られてね?」

  

 言い聞かせるように呟くと、窓辺に置いてある鉢植えの枝にビロードのリボンを結ぶ。

 その様子を、ハンスは神妙な面持ちで見守っていた。


「エーファ、例の計画は順調かい?」

「うん、証言や証拠が集まってきているから、降星祭には実行できるよ。ただ……」

「ただ?」


 エーファはチラと、カウンターに立て掛けている白銀の魔杖を見遣る。


 看板に貼りつけられ野晒しにされていた杖は、ランベルトの説教のおかげでカウンターの横に引っ越せたのだ。


「ロシュフォール団長に悟られているんだよね」

「ふむ、なかなかの強敵だね」

「一度ここに来てから毎日訪ねてくるの。今日もたぶん……来ると思う」

「ほほう、見張られているのか」


 ハンスはフォークを皿の上に置くと、ハンカチを取り出して口元を拭う。キャロットケーキは綺麗に完食していた。


「では、エーファもロシュフォール団長を探ればいい」

「えっ、でも……」

「勝つにはまず、敵を知らねばならない。どうしても計画を成功させたいなら、相手につけ込まれるような隙を作ってはならないよ。むしろ自分から近づいて隙を探りなさい」

「そう……ですね」


 薄青の目は、自然と壁に立てかけている白銀の魔杖へと向く。

 

 ハンカチで汚れを拭ってくれたランベルトの姿が蘇り、胸の中に何かがつっかえた。


「おや、噂をすれば来たようだね」


 ハンスは懐から銅貨を取り出し、テーブルの上に置く。銅貨の下に敷かれている紙を、エーファはそっとポケットの中にしまった。


「健闘を祈るよ、エーファ」


 そう言い、ハンスが外に出ると――入れ替わりでランベルトが入ってきた。


「いらっしゃいませ、ロシュフォール団長」

「……初めて私以外の客人を見ました。ちゃんと人が来るんですね」

「失礼な! 常連さんだっているんですからね?」

「ガウガウッ!」

「……すまない」


 一人と一匹に怒られたランベルトは、思わずたじろいだ。


「もちろん、ロシュフォール団長も常連になってくれますよね?」

「……」


 ランベルトの目に戸惑いの色が浮かぶ。

 

「騎士団や魔法兵団のみんなの近況を聞かせてくださいよ。お礼にジンジャークッキーをつけますから」

「……別にそれに釣られるわけではないですが、いいですよ。……ここは静かで落ち着けますから」

「わーい! ありがとうございまーす!」


 エーファはスキップするような足取りでカウンターの中に入る。


「ロシュフォール団長が嫌な奴だったら、気が楽だったんだけどね……」


 小さな声で呟くと、ポケットの中に入っている紙を握りしめた。

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