シナモンと葡萄酒と白銀の魔杖
柳葉うら
1夜目のためのお話:闇夜に現れるカフェ銀月亭
しんしんと雪が降る夜のこと。
宵闇に染まった王都の一角で、ある一軒の店に明かりが灯った。
そこは石造りの建物の一階部分にある店で、木で作られた張り出しの窓や壁面は深い緑色。
嵌めこまれたアーチ型の窓から見える店内には、魔法で作られた雲や星を模したランプが下がっている。
壁面に取り付けられた看板には、葉とワイングラスを模した装飾の間にやたら美しく輝く銀色の魔杖の装飾があった。
「――あ、雪が降って来た。昨日の雪も残っているし、今夜は誰も来ないかもしれないね」
店の中から、店主のエーファ・ヘルマンが出て来た。
星の光を集めたような銀色の髪を頭の後ろで綺麗に結い上げており、すらりと背が高い女性だ。
年齢は二十四歳。顔立ちが整っており、長い銀色の睫毛に縁どられた目の色は宝石のように美しい薄青色。
服装は簡素で、シャツと紺色のスカートのみだ。全く飾り気がない。
ここは、カフェ銀月亭。
濃紺の夜の帳が降りる頃、月や星と共に現れる、一風変わった店。
昼間は店の面影がなくなっており、住居のような外観だ。そのため誰もそこにカフェがあることを知らない。
ここは真夜中に、眠れない者たちが彷徨い辿り着く場所だ。
「ねえ、シリウス。私と賭けをしない?」
エーファは店の中からのそのそと出てきた大きな雄のフェンリル――相棒のシリウスに話しかけた。
シリウスはやや青みを帯びた美しい銀色の毛並みを持つフェンリルで、エーファが魔法を学び始めた頃からずっと一緒にいる使い魔だ。
金色の目がきらりと光る。どうやら賭けに興味があるらしく、三角形の耳をエーファに向けて熱心に聞いている。
「シリウスが勝ったら、明日のご飯に氷牛の肉をあげる」
「ガウッ!」
「決まりだね。――じゃあ、私は来ないに賭けるよ。私が勝ったら、お腹の毛をモフモフさせてね」
美しい銀色の魔獣はキリリとした表情で頷いた。勝算があると見ているようで、自身に溢れている。
「さあ、開店!」
エーファが指をパチンと鳴らすと、「開店」と書かれた木の立て看板がどこからともなく現れた。
数カ月前まではこの国――リーツェル王国の魔法兵団に努めていた彼女は、この国最高峰の魔法使いに与えられる「賢者」の称号を持っていた。
リーツェル王国は六つの属性魔法「火・地・風・水・雷・氷」のそれぞれの属性魔法を極めた者が賢者となる。
エーファは若くして氷魔法で頭角を現し、隊長まで上り詰めた際に氷の賢者となった。
圧倒的な強さで魔物を氷漬けにして倒す彼女は、氷晶の賢者と呼ばれた。
しかし、わけあって魔法兵団を辞めた彼女は、その際に賢者の地位も手放した。
そうして今は、王都の片隅でひっそりとケーキやお菓子を焼いている。
「今日のケーキはキャロットケーキとシフォンケーキとフォンダンショコラ。もう一つくらい用意したかったな」
客人が全く来ない日もあるというのに、エーファは毎日たんまりとケーキを焼く。
売れ残れば修道院に併設されている孤児院に持っていく。売れ残りだと言えば、修道女たちが気負うことなく受け取ってくれるのだ。
魔法兵団で働いていた時のお給金のおかげでエーファはさほど生活に困っていない。慎ましい生活をしたら一生は働かなくてもいいくらいの巨額を稼いだのだ。
「降星祭の日には特別なケーキを焼いて届けないとね。みんな喜んでくれるといいな」
この国には降星祭という冬の大切な祝祭がある。
特別な日のためにご馳走を作って家族みんなで食べる日だから、孤児院の子どもたちのために食卓を彩る素敵なケーキを贈りたい。
エーファは子どもたちが喜んでくれる姿を思い浮かべては、ふっと目元を綻ばせた。
「さて、朝まで何をして暇をつぶそうかな?」
口ではそう言うものの、指先をツイと動かして二階にある寝室から魔法書を呼び寄せた。読書で時間を潰すつもりらしい。
しかしエーファの読書は、早々に終わりを告げた。
カランと扉につけた鈴が鳴り、来客を知らせたのだ。
「いらっしゃいま――あれ、ロシュフォール団長?」
見る者が息を呑むほどの美丈夫が、驚愕で目を丸くして立ち尽くしていた。
すらりと背が高く引き締まった体躯に、撫でつけられた炎のような色合いの赤い髪。凛とした目の色は美しい
漆黒の騎士服の上から、同じく黒地の外套を羽織っている。
男の名前はランベルト・フォン・ロシュフォール。公爵家の次期当主だ。
二十八歳にして、三つある王立騎士団のうち、魔物討伐を専門とした騎士団の団長を務めている。
決断力があり部下思いの彼は周囲の騎士から大きな信頼を寄せられている。
容姿や身分もよく令嬢達に人気だが、生来の生真面目さがネックとなっておりまだ婚約者すらいない。
一部の者からは剣と結婚するのではないかと言われる始末だ。
彼とは魔法兵だった頃の顔見知りだが、挨拶と業務内容以外で言葉を交わしたことはない。
数少ない会話でわかったのは、彼は高位貴族だがエーファのような平民にも丁寧に接してくれる公正さを持ち合わせていることだ。
「――っ、氷晶の賢者殿……!」
「元、ですよ。私はもう賢者ではありません。魔法兵団も辞めて、今はカフェの店主ですからヘルマンと呼んでください」
素っ気なく訂正するエーファの手の甲に、シリウスがツンツンと冷たくて濡れた鼻を押し付けてくる。
振り向くと、賭けに勝ったシリウスの満面の笑みが自分に向けられている。その額に、デカデカと肉の字が書かれているように見えた。
「わかってるよ。明日買ってくる」
「ガウッ」
明日のご馳走を約束させたシリウスは、満足げにモフモフの尻尾を揺らした。
「退任されてから忽然と姿を消したと噂されていましたが――こんなところにいたのですね」
「こんなところとは失礼な。ここは私の新しい職場です」
「は……?」
ランベルトが気の抜けた声を上げた。いつもは騎士団長としての威厳を見せる彼にしては珍しい表情だ。
思いがけず不意打ちを喰らわせたのだと悟ったエーファは、クスリと笑った。
「今はカフェの店主をしています。お客様、ご注文はお決まりですか?」
メニュー表を見せられたランベルトは小さく唸った。
なんせメニューにはお菓子と葡萄酒とお茶の名前が並んでいるのだ。どれを選ぶべきか迷ってしまった。
「……ホットワインを」
「かしこまりました。そこの椅子にかけてお待ちください」
エーファは鍋の中に葡萄酒を入れ、続いてシナモン、スターアニス、クローブや生姜のスライスと蜂蜜を入れて火にかける。
オレンジとレモンをよく洗い、薄く切る。
手際よく調理するエーファの横顔を、ランベルトの紫色の目がじっと見つめている。
エーファはわざと知らないふりをして無視した。
「なぜ魔導兵団を辞めたのですか?」
「守りたい方がいなくなったからです」
木べらを持つエーファの手が、小さく震えた。その爪は力を入れすぎているせいで白くなっている。
「王太子殿下が、私のお嬢様を追放したからですよ」
「……元アーレンベルク公爵令嬢のことですか」
「もう元をつけるのですね。薄情な人」
押し殺した声で答えるエーファは、いつものように明るく人好きのする笑みを浮かべている。しかし彼女を中心に部屋の中の温度が下がり始めていた。
エーファの怒りが魔力に作用しているのだ。
二人とも押し黙り、気まずい沈黙が流れた。
幸いにも鍋がコトコトと揺れ始め、エーファが冷気を解く。火を消すと、出来上がった温かい葡萄酒を銀のゴブレットに注いだ。
店内に、ふわりとホットワインの芳醇な香りが漂う。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
ランベルトは両手でゴブレットを包み込むように持った。
ゴブレットを伝い感じる温かさに、氷のように冷たかった掌が熱を取り戻すのだった。
ふと、テーブルの上に置いてあるメニュー表の存在に気付いた。
「夜に開いているのに、メニューはワインに茶に果実水――食べ物は菓子だけ。軽食もないなんて変わった店ですね」
「つまみや肉料理を出す店が有り余っているから、私はお菓子を出すことにしたんです。だって、夜中にお菓子を食べたくてもカフェが空いていないと我慢しなきゃいけないなんて辛いでしょう?」
夜の王都にはご飯か酒を出す店しかない。
魔法使いだった頃のエーファは、夜勤終わりにケーキを食べられないことをよく嘆いていた。だから自分が店を開くなら、夜のカフェにしようと決めていたのだと説明した。
「再会を記念して特別にケーキを差し上げますね。お代はいりません」
「これは……何のケーキですか?」
「ニンジンです。もしかして、お嫌いですか?」
「嫌いって……子ども扱いしているんですか?」
「いいえ、お客様への配慮です。苦手なものを食べさせるわけにはいきませんから」
「……それをください」
「はい、ただいま」
エーファは皿の上にキャロットケーキをのせ、ランベルトに差し出す。
ランベルトはフォークを手に取ると、上品な所作で口に運んだ。途端に彼の目が僅かに見開かれた。
「……おいしい」
ケーキの生地はしっとりとしており、シナモンの香りが口の中に広がる。
おまけに舌触りのいいクリームチーズのフロスティングが酸味を加えている。
「お気に召してよかったです。これはお嬢様の、大好きなケーキでした。いつか王妃になったお嬢様にこのケーキを差し入れするのが私の夢だったんですよ……」
そう言い、エーファは窓際に置いている木の鉢植えに透明な飾りを一つだけ吊るした。
飾りは雪の結晶のような形をしている。エーファが指先でつつくと、シャランと音を立てて揺れた。
これは降星祭までを数えるための飾り。
水晶細工の頭についている穴にはベロアのリボンが通されており、それを木の枝に結ぶ。
木と二十四個のガラス細工を買う。それを一日一つずつ飾り、祭りの日を待つ習わしがあるのだ。
降星祭の夜にそれを星空の下に置いていると、女神が気に入った木の持ち主の願いを叶えてくれると言われている。
「ヘルマンさんは女神に様に何を願うのですか?」
「権力をもらうことですかね」
「権力……ですか。それならなぜ、男爵位を授からなかったのですか? あなたは爵位を得るにふさわしい働きをしたはずです」
ふっと、エーファが小さく笑い声をこぼした。
「爵位は何の役にも立ちません。それどころかこの国を守る義務が生まれます。でもお嬢様がいなくなったこの国を守るつもりなんて、ありませんから」
「ヘルマンさん……」
かつては共に王国を守っていた元賢者の変わりように、ランバルトは愕然とした。
「あなたの気持ちはわかります。しかし彼女は罰を受けねばならなかったのです」
「それは本当に、必要な罰だったのですか?」
「……」
ランベルトは眉根を寄せた。何か言いかけたが、唇を引き結んでしまう。
喉元まで出かかった言葉を押し込むように、ゴブレットを一気に煽る。
「ごちそうさまでした。明日も来ます」
立ち上がったランベルトは、テーブルの上に代金を置く。もう二食は食べられるほどの額だ。
「どうぞ、お待ちしております。それでは、お釣りは明日のケーキと葡萄酒代にさせてもらいますね」
「そうしてください」
エーファは笑顔で、ランベルトは仏頂面で、別れを告げた。
しんしんと雪が降り積もる、静かな王都の片隅で。
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