18夜目のためのお話:王子と雪の妖精
カフェ銀月亭がエーファの知り合いたちで賑わっていた頃、神殿から王家の馬車が発った。
中にいるのはアンゼルムとユリアだ。
二人は向き合って座っている。しかしその視線は交わらなかった。
ユリアがアンゼルムを見つめているというのに、彼の視線は窓の外に浮かぶ三日月に向けられている。
目の間に座る婚約者のことなど、少しも気に留めていない。
愛する者同士で結ばれた二人のはずなのに、馬車の中の空気はよそよそしい。
耐え切れなくなったように、ユリアが「あの……」と躊躇いがちに呼びかけた。
「アンゼルム様……聖女に選ばれず、申し訳ございませんでした。私が聖女に選ばれたら、私たちの婚約をとやかく言う者たちでお手を煩わせずに済みましたのに……」
「――ああ、そのことか」
独り言ちるように呟くと、ようやくユリアの顔を見た。
穏やかに口元を綻ばせ、少女たちが思い描く王子様よろしくな笑みを湛えている。しかし濃緑の目は冷え切っていた。
「気にしないで。
「――っ」
優しい声音だが、容赦なく相手の傷口を抉っている。
聖女に選定されなかった婚約者を労わるにしては、彼女への思いが欠片もなかった。
ユリアは貼り付けたような笑みを浮かべ、密かに拳を握る。
「はい……そうですね」
婚約者が自分を愛してくれなくても、どれほど自分の思いや献身に応えてくれなくても、彼女はアンゼルムを責められない。なぜならこの契約結婚をもちかけたのは――ユリアなのだ。
「これからは氷晶の賢者様らしい立ち振る舞いができるよう、気を付けます」
彼女は自分をエーファ・ヘルマンだと思ってほしいと言い、アンゼルムに近づいた。自分を愛さなくていいから、結婚してほしいと。
きっかけは、些細な出来事だった。
ユリアは魔法学院に在籍していたある日、こっそりとアンゼルムの姿を見ていた時に、彼が落とし物をしたことに気づいた。
拾って話しかけてみようと近づくと、それは銀色の質素なロケットペンダントだった。
好奇心に負けて中を開けたユリアが見たのは、エーファ・ヘルマン――つい最近、氷晶の賢者に任命された麗しい魔法使いの肖像画だったのだ。
「……それ、返してくれないか」
ふと気づくと、穏やかな笑みの中に凄みを含めたアンゼルムが、冷え切った眼差しで自分を見ていた。
どうやら彼の逆鱗に触れたらしい。
本能的に察したユリアは、大人しくロケットペンダントをアンゼルムに渡した。
当時のアンゼルムは既に婚約者のメヒティルデがいたのに、彼が大切に持っていたロケットペンダントの中に描かれているのは別の女性。
ユリアの心はざわざわと波打ち始めたのだった。
その後、王宮勤めの父とその同僚がアンゼルムについて話しているのを聞いたのだ。
どうやらユリアが愛してやまない王太子は、かの氷晶の賢者をたいそう特別視しているらしい。
あれは恋なのだろうか。
いや、尊敬しているのではないか。
仮に恋だとして、王太子には婚約者がいるうえに、相手は賢者とはいえ平民だ。彼に相手も王太子が好きだとしても、二人は決して結ばれない。
聞こえてくる会話をどうしても否定できなかったのは、学院で彼にロケットを拾ってあげた時の記憶が蘇ったからだ。
想いを寄せている相手が自分よりも地位の低い平民を特別視している。
ユリアは悔しさのあまり歯を食いしばった。
彼は政略結婚で公爵令嬢の婚約者がいるから身を引いたというのに、その心を平民が奪うなんて許せない。
憎悪を糧に行動に出た。エーファ・ヘルマンの姿を見て、彼女の容姿に近づけるよう努力した。
どんな手を使ってでも、平民より貴族の自分を見てほしかった。
体型が近づくように食事を制限し、化粧で顔を近づけ、表情を真似した。さらには髪に特殊な薬品を塗布して髪の色を少し抜いた。
その努力は身を結び、学園に行くと同級生たちから「氷晶の賢者に似ている」と言われもてはやされるようになった。そこで自信をつけたユリアは、大胆にもアンゼルムに契約結婚を提案した。
平民のエーファがアンゼルムの心を奪っていることに憤っていたユリアだが、自分が格上の公爵家の令嬢であるメヒティルデを蹴落とそうとしていることは完全に棚に上げていた。欲望が勝ってしまっていたのだ。
本来ならユリアの提案は婚約者への不敬だと捉えて警告するはずのアンゼルムが、幸にも提案に乗ってくれた。
そのせいでユリアは物事を楽観視してしまった。これから少しずつ彼の気を惹けば、平民なんかより自分を愛してくれるかもしれないと思ったのだ。
その慢心が後にユリアに現実を突きつけるとも知らず、彼女はアンゼルムと協力してメヒティルデを陥れた。
(ああ、面倒だ。婚約者を演じるためにこの女を迎えに行かずにすむのなら、今もエーファを捜索できたのに)
愛する婚約者の言葉に打ちひしがれているユリアのことなど、アンゼルムは全く気にしていない。
溜息をつきたいのを堪えて窓の外を見遣る。
街中で一瞬だけ見かけたエーファの姿が、しっかりと心に焼きついている。
(ランベルト兄様さえ来なければ上手くいっていたはずだ)
そうすれば今頃、彼の目の前にいるのは崇拝する氷晶の賢者だっただろう。
計画の妨げとなったユリアとランベルトが憎くてならない。
(結局、ニセモノでは少しも心が満たされない。寧ろ虚しくなるばかりだ)
ため息をつくと、目を閉じて瞼の裏に昔の記憶を投影する。
彼が一目ぼれした、雪の妖精のように美しい少女の姿を。
アンゼルムがエーファと出会ったのは、彼が九歳の頃だった。
婚約者のメヒティルデが新しい侍女を連れてきたのだ。
アンゼルムはエーファの、雪の妖精のように美しい容姿と品のある立ち振る舞いに目と心を奪われた。
しかし相手はアンゼルムのことは少しも興味がなかった。
彼がいつも通り微笑みかけても、名前を呼んでみても、淡々としている。たいていはみな喜色の滲む表情で、やや上ずった声で答えてくれるはずなのに、エーファは無感情なのを笑顔で隠し、必要最低限しか返してくれない。
どうしたら気にかけてくれるだろうか。
何をしたらメヒティルデではなく自分を見てくれるだろうか。
自分より三つ年上の彼女は大人に見えた。彼女に追いつきたくて、柄にもなく背伸びした。
しかしどれほどアンゼルムが努力しようと、それがエーファに伝わることはなかった。なぜなら彼女は常に「大切なお嬢様」のことしか考えていないのだ。
会う度に心を揺さぶってくるエーファのことが気になって仕方がないといいのに、当の本人であるエーファはアンゼルムに全く興味を示さない。
あの凪いだ湖のように穏やかな彼女を揺るがすのは、決まってメヒティルデだ。それが羨ましくて、恨めしくて、ならなかった。
淡い片想いは時間を経るにつれて醜くゆがんだ感情へと変化していった。いかなる手段を使ってでもエーファの関心を自分に向けようとした。
そんな折、伯爵令嬢のユリアが契約結婚を持ちかけて来た。
自分をエーファだと思ってくれたらいいと言う彼女に憤りを感じたが、悪くない提案だと思いその話に乗った。
もしかすると、自分によく似た令嬢を隣に置くと、彼女の心を揺さぶられるかもしれないと思ったのだ。
予想通り、ユリアと会う時間を増やすと、王宮ですれ違うエーファが自分を冷ややかな目で見るようになった。彼女の心を揺り動かしたのだと思うと、たまらなく嬉しくなった。
そこからどんどんエスカレートした。
メヒティルデが隣にいるのに空気のように扱ったり、エーファを自身の専属護衛にするよう手を回そうとした。
そうすることでエーファの機嫌が急降下している様を眺めては、彼女の心を意のままに動かしているという優越感に浸っていた。
メヒティルデを追放すれば、どんなに絶望してくれるだろうか。
そんな身勝手な理由で元婚約者を陥れたアンゼルムは、追放後にエーファが姿を消したものだから焦っていた。
まさか何もかも捨てていなくなるとは、思ってもみなかったのだ。
(……いや、これでいいんだ。元賢者とはいえ人々の前から消えて忘れ去られた存在なら、いかようにもできるのだから)
仄暗く笑う彼を、夜空に輝く月が見ていた。
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