どこか遠くで車の急ブレーキの音が聞こえた気がして、ボクは思わず身構えた。左手の懐中電灯を逆手に持ち替えて前に突き出し防御として、右手の懐中電灯をだらりと後ろに引いてカウンターとして。ボクは自分が信じられなかった。こんなゲームかマンガみたいなポーズを無意識のうちに取ってしまうなんて。ボクはもう大学生なんだぞ。酔っ払っているわけでもないのに。そもそも車が突っ込んできたところで、懐中電灯で何ができる? 防御? カウンター? ボクの無意識はバカなのか? 相手は鋼鉄の立方体なんだぞ。何をしたところで破壊されるのはこちら側だ。何をしているんだよ、ボク。何がしたんだボクは。ボクは何なんだ。

 いや、違う、問題はそこじゃない。こんなささいなことで落ち込んでいることが問題だ。ミミッチすぎるぞ、ボクの心。情けないぞ。誰が見ているわけじゃないのに、ボクはどうしてこんなに恥ずかしがって、落ち込んで、心を虚しくさせているんだ? これが赤彦の言う燻ぶりなのだろうか? わからない。完全に我を失っている気もするし、これがありのままのボクという気もする。わからない。

 今日は確か満点の星空だったはず。突然そんなことをひらめく。ああ、そうさ、意味不明な感情は、もっと意味不明な星座を見て和ませればいいんだ。ボクは、ただの四角形や三角形を動物と言い切る、太古のご先祖さまたちの大らかさに心をゆだねて、人間本来のすがたを取り戻すために、空を仰いだ。いや、仰ごうとした。

 ボクの求めた星空は、商店街のアーケードに覆い隠されていた。

 考えてみれば当たり前のことだ。ボクは今まさにアーケード商店街を歩いているのだから。でもボクはあまりの衝撃に、腰が抜けそうだった。一瞬、宇宙そのものを奪われた気さえした。あらゆる蓋然性が深い闇に閉ざされたような恐ろしい感覚を味わった。

 ……こんな板切れに、宇宙を奪われてたまるかよ……!

 ボクは弾かれたように走り出していた。この薄暗い場所から一刻も早く逃げ出したかった。

 どうして赤彦はボクの不安を掻き立てるようなことを言うんだ。全体的に燻ぶっているだなんて確認のしようのないことを。ボクが今こんなに惨めな気持ちでいることを、あいつは知っているのだろうか。織り込み済みなのか? あいつは、今のボクを織り込み済みで、あのお告げをボクに伝えたのか? 本当にお前のこと、信じていいんだよな、赤彦?

「こ、この光は――」

 ふいに口に出たボクの声は混乱の底にいるように怯え切っていた。アーケードの切れ目の先に仄かな光を見た。けれどボクは光を光そのものとして受け入れることができなかった。

「――この輝きは――星でいいんだよな?」

 もし本当に宇宙がなくなっていて、頭上に得体の知れないものが広がっていたら、ボクはどうしたらいい?

 ボクたちの理解を超えたもの。それを見ただけで、頭がおかしくなってしまうようなもの。たとえば宇宙の闇じたいが怪物に代わってしまうとか。……たとえば巨大アナゴ……たとえば巨大ウナギ……たとえば巨大ナマズ……そして、たとえば…………、いいや、こんなのは人間の想像の範疇だ。もっとありえないことが頭上で起こっていたら……。

 アーケードの抜けた瞬間、ボクはノーモーションで空を仰いだ。

「よかった。空だ。ちゃんと空がある。普通の空だ。そして満天の星。普通の満天の星」

 ため息が出た。安堵と感嘆が9:1のため息だった。ここは高原とかじゃないからな。この辺りは暗いけど少し歩けば繁華街もあるし。満天の星といっても、そこまでじゃない。感覚でいうと七分咲きくらいだ。だからあまり感動はしなかった。ありふれた光景に感動できないなんて、やはりボクは燻ぶっているのかもしれない。でも、昔からこうだった気もするし、ますますよくわからなくなる。得体が知れないのはボクじゃないか。ボクこそ得体が知れない。

 ひどい虚脱感がボクを襲った。きっと、急激にホッとしすぎてしまったんだ。それに、全力疾走したことも大きい。全力疾走なんておそらく幼稚園以来だ。

 ひどい虚脱感に見舞われている人間は、そう長く空を見上げていられない。だからボクの視線は空から地面へストンと落ちる。

 すると、そこにあった。いや、存在していた。訪れるべき場所が。お告げの導く地が。

 ボクの脳裏に赤彦の声。これは一昨日の記憶。今から2ヵ月前に店に予約の電話を入れ、時が流れさぁいよいよ明後日がその日だというときの、ボクたちの会話。

「もしもし」

 とボク。

「もしもし?」

 と赤彦。

 スマホごしの会話。

 ボクたちは普段気にもしないが、スマホを通した声というのは偽物だ。数多ある合成音声のなかから、本人に一番近い音声が選ばれているというだけで、決して本人の声そのものではない。それにおそらく、相当の割合で脳の補完も働いているはず。そういったもので心を通わせることができるというのは、本来すごいことだ。でもそれは怖いことでもある。機械の模倣と自分自身の思い込みを真実だと信じているのだから。もし仮に、赤彦に似た声の「赤彦ならざる者」が電話口にいたとして、ボクはそれに気づくことができるだろうか?

「赤彦か?」

「です」

「原田だ」

「へぇ」

「どうした赤彦? なんだか様子がおかしいぞ」

「違うよ」

「え?」

「アルコールです」

「なんだって? お前ゲコのはずだろ? ビールをひと口飲んだだけで完全に潰れてしまう、ゲコのなかのゲコのはずだろ?」

「……ゅふっ……」

 赤彦は薄笑いを一つして、沈黙に沈んだ。もし沈黙に深さというものがあるとしたら、ボクはここまで深い沈黙を他に知らない。長い時間――といっても、時計で計っていなかったので正確な長さはわからない――が流れ、赤彦は妙にハキハキとしゃべりだした。

「……ああ、なんで、今日は一滴ずつ摂取してみたんだよ。スポイトを使って、ね。慎重に、体の声を、聴きながら。己の閾値に、耳をすませながら、ね」

「なるほど、そういうことか、よくわかったよ赤彦。だけど、それでもなお今のお前は、様子がおかしい気がする。お前……ホントに赤彦なのか?」

「です」

「ただ酔っているだけ?」

「です」

「急性アルコール中毒ということは?」

「ああ、それはないな。オレは酒に飲まれちゃいない。この酔いは善性だよ」

「そうか、なら、いいんだ」

「ところで――」

 オレは狂ってなんていない、と断ずるような強い声で赤彦は切り出す。

「――何の用だい? 真夜中というにはまだ早いが、ふだんのキミならとっくに寝ている時間だろう。例の店へ行く「予定日」は今日を越え明日を跨いだ「明後日」のはずだろう? まさかとは思うが――きっと違うとは思うが――楽しみで寝られない、なんてことはないよなああ?」

「違う! そんなんじゃない!!」

 ボクは言った。自分でも信じられないような大声で。

「もしそうなら、睡眠薬でも飲むんだなああ? キミはもう小さな子供じゃないだろおお?」

「だから!! 違うと言っているだろうがッ!! 赤彦――お前ぇえ!!」

「わるかったよ。うへへ。そう激怒するなって。こんなことで怒るなんて、キミらしくないな?」

「ん……、ああ、ボクこそ、わるかった。すまない。こんな大声を出すなんて、どうかしているよな……」

「まるで幼児退行でもしているみたいだったぜえええ?」

「赤彦、お前、今、ボクに、何て言ったんだ、え? おい? なあ? 赤彦お前――ボクをこんなに刺激してどういうつもりだーッ!! 目的は何ッ!?」

「止まってください」

「あっ……わるい、つい……」

「いいよ。気にしていないから。オレもね、調子の波にのりすぎてしまったよ。だが……キミ――ホントに原田か?」

「え――、なんだって?」

「いや、なんでもない。他意はないんだ。思いついたことをポツリと呟いてみた。それだけのことなんだよ」

「えらくお茶を濁すじゃないか赤彦。言いたいことがあるならハッキリ言ってくれよ」

「ふと、キミを別人に感じた。遠くに感じた。懐かしく感じた。そんなところだ」

「どういうことだ? さっぱりわからない。むしろ、さっきよりもわからなくなっているぞ赤彦」

「しょうじき、オレもよくわかっちゃいないよ。原田、よく聞け。確かに心は自分自身のものだ。だが、そのすべてを理解しているわけじゃないだろ? 心の底は誰にも見えない。覗けない。そんなこと人間には不可能だ。それができるのは神さまだけ。オレたちの感じている感情というものは、心の動きの間接的な表れでしかないんだよ。そう、たとえば――『おでん』」

「おでん? おでんってあれか? 汁の中に具材を沈めて、執拗にぐつぐつ煮て、味を染み込ませるあの料理のことを言っているのか?」

「ああ、それです。液体面から顔を出す具材たちはまさに氷山の一角という感じがするだろう? 表にあらわれる行為には隠された原理がある。が、それさえ、おでんの本質ではないんだ。ここまではわかるな?」

「ああたぶん。だいたい、なんとなくは」

「ヨシっ。液体こそが、おでんをおでんたらしめるものだ。なるほど確かに具材がなければそれはおでんではありないだろう。でもね、単純に逆もしかりなんて話でもないんだ。たとえば『おでんの汁』と『おでんの具材』が二つ並んでいたとして、それは『おでんの具材』のほうがおでんらしくあるだろう。だけどそれは見た目だけなんだよ。シイタケやハンペンをそのまま食ったところで虚しいだけだ。でも汁なら、おでんを感じることはできるはずだ。物足りなさを感じるだろうが、確かにおでんを感じることはできる。つまり、オレたちの魂ってのはね原田? おでんの汁みたいにドロドロとした、得体の知れないものなんだよ。だから、わけのわからない独り言が出てしまうのも――ね? ね?」

「ありふれている?」

「そ」

 と、相槌を打ち、赤彦は沈黙した。それはうねるような沈黙だった。明確な意図のある。ボクを試すかのような。「話し出す気配」と「固唾をのむ」を交互に行き来するような、そんな沈黙。

「とこ、ろで」

 赤彦は言った。いや、そうではなく――沈黙に言葉をねじ込んだ――。

「どうして電話してきたんだ?」

「…………え?」

「要件だよ、要件」

「言って、なかったか?」

「ああ。そうだね。『ただオレの声を聴きたくて」ということでなければねぇええ?」

「違う! そんなんじゃない!! 赤彦、お前なあッ!!」

「ほら、また」

「あ……」

「いいんだ。それで要件はなんだい?」

「いや、ただ、肝心の、店の場所を訊いてなかったなと思ってな」

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