裏ごし
倉井さとり
1
今は夜、しかも深夜だ。ボク的にはもう限界突破している時間帯だ。つまり、とっくに寝てしまっている時間だということ。ボクは健康的なんだ。
月が出て明るい夜ではあるけれど、つまづいて大怪我でもしたら大変だから、ボクは両手に懐中電灯をそれぞれひとつずつ持っていた。世の中には、軽く転んで、打ちどころが悪くて死んでしまう人がいる。用心してし過ぎるということはないはずだ。恥ずかしさとかどうでもいい、命に比べたら。さっき駅前でスレ違った女の子たちに笑われたことなんて、本当にどうだっていいことだ。気にする方がどうかしている。
ボクは商店街を歩いていた。まっすぐ伸びる道の左右に立ち並ぶお店は当然、シャッターが下ろされている。昼のうちにこのあたりに来たことはないからよくわからないけど、昼もたぶんこんな感じだろう。いまどき商店街なんて流行らないからね。大手のデパートやスーパーにコンビニがたくさんあって、なおかつ同系列のお店がお客を取り合って共食いしているような状況なんだ。小さなお店が太刀打ちできるわけがない。生き残っているお店がすごいんだろうと思う。他にないサービスや接客を提供できているのか、昔からのお客さんを大切にしているのか、ただ単純に地域に愛されているのか。
ボクがなぜ、このスラム街みたいな商店街を歩いているかというのは、少し説明がしづらい。論理的に話せば話すほど、スピリチュアルな話になってくるからだ。
親友の「桟敷赤彦」という男の勧めで、ボクはこの商店街の近くに店を構えるという焼き鳥屋を訪れることになった。店の名は「裏ごし」。完全予約制で、一名でしか来店不可だということだ。はじめそれを聞いたときは、ずいぶん気取った、金持ち相手のアコギな商売なんじゃないか、と思ったが、赤彦いわくそんなこともないらしい。
「ふん。そんなことはないさ。われわれ学生にも優しいリーズナブルな店だよ。並の居酒屋に比べてもお手頃さ。そもそもキミ? アコギって言葉の意味を正確に理解しているのかい? 金持ちにアコギなんてあまり使わないぜ? 金持ち連中はな、それが金に見合うかなんてことは考えないものだ。何を得られるか、体験できるか、そういうことしか頭にないのさ。――さぁ答えろ、キミはアコギという言葉の意味を正確に理解しているのか?」
「いや、詳しくは知らないが……。」
「オレはいま、鬼の首をとったか?」
「うるさい。ボクは国語辞典じゃない。ボクは人間だ」
このやり取りは2ヵ月前のことだが、ボクはいまだにアコギという言葉の正確な意味を知らない。国語辞典で調べればそれは早いのだろうが――スマホで調べたらもっと早いのだろうが――あえてボクはそれをしない。ボクは人間だからだ。ボクは国語辞典じゃないからだ。なにより、悪友である赤彦の前でそう宣言した以上、ボクは人間らしい営みのなかでアコギの正確な意味を感じ取らなくちゃならない。話しぶりや文脈のなかから、それを掴み取ってやろうと決めている。
商店街は息を殺している。あたりにボクの足音だけがひびく。冥界にでも迷い込んだ気分だ。住宅を兼ねたお店もあるんだろうけど、生命の息吹も営みもボクには感じられなかった。
「アコギってなんなんだろうな……」
ボクは独り言を呟いた。かなり意識的に。
二本の懐中電灯で照らしても、暗闇を払うには足りない。道の先は真っ暗だ。闇を闇と認識するだけの光。闇に呑まれるだけの光。そんな気もしないでもない。まあ安物の懐中電灯だしな。二本セットで安売りしていたので買ったが、あまり明るくないうえに単一乾電池をたくさん使うし電気の消費も早い。正直言って、もう少しお金を出してもっといいものを買えばよかったと後悔している。
ボクは歩きながら、独り言を呟いていく。「あれ、カップラーメンの買い置き、まだあったっけ?」そうしないと、自分という存在がこの暗闇に呑まれてしまうような気がしたからだ。「ボクは何のために生まれたんだろう」たとえば、この薄暗い道をなぞるように、風がさぁっと吹く。そしてボクは跡形もなく消えてしまう。で、この商店街の誰かが、深夜に足音を聞いたような気がして、あれは夢だったのだろうか、なんてことを考え、それも昼前には完全に忘れてしまう。そして、話は終わる。「こんにゃくって何なんだろう。植物? それとも何かのカス?」
意識的に独り言を呟くほど、ボクの思考は無意識に沈んでいく。過去という名の沈殿物はあいまいながらもボクの魂をつつみ込むのだった。
「赤彦。それでどういう風の吹きまわしなんだ? お前が観念以外の話をボクに振るなんて。それに、ライフスタイルの押し付けなんて、お前がもっとも嫌うことのはずだろ?」
「いや、なに、最近のキミを見ていて、オレにも思うところがあってね。キミとオレは付き合いが長いわけじゃあないが、浅い関係でもないだろう?」
「どういうことだ? 話が少しも呑み込めない。噛むこともできない。そもそも歯がささらない。説明しろ赤彦。ボクにもわかるように、ていねいに」
たった2ヵ月前のことだが、過去は過去だ。
過去に優劣はない。順番があるかも怪しいくらいだ。印象に残ったものが大きく映って、そうでないものは跡形もなく消えていくのだから。記憶ほど不確かなものはない。過去はボクたちの後ろにいることはいるが、ボクたちの目にはそれがぼんやりとしか映らない。確かな順番があるのは記録だけ。
あの日のボクたちは大学の講義のあと、大学の中にある喫茶店で話をした。確か、二人ともブラックコーヒーだった。ボクはイチゴ味の小さなババロアを頼み、赤彦は確か……そう、パンケーキだった。ハチミツがたっぷりの、フルーツが盛りだくさんの、分厚いのが何段にも積み重なった、巨大なパンケーキ。
「そんなんでいいのかい?」
ナイフとフォークを両手に持ちながら赤彦は言った。
「ああ、さいきん食欲があまりなくてな……。そんなことはいい。それよりも早く説明しろ。どうしてボクが、その焼き鳥屋とやらに行かなくちゃならないんだ? 何の関係があるっていうんだ。その焼き鳥屋とやらと、このボクが」
「まあそう急ぐな。まずは、今ここに集中だ」
そう言って赤彦は、パンケーキに手をつけはじめた。
フォークの先端がまるで物語の冒頭のように、パンケーキの柔肌に突き刺さっていく。そして、フォークの切っ先が、長い物語を読むようにパンケーキの柔肌を切り裂いていく。
「まさにパンケーキだ」
赤彦は言った。切り取られたパンケーキの断面をまじまじと見ながら。
「そうだろうな」
うまそうだ、うまい、やはりうまい、と呟きながら赤彦は、ゆっくりとパンケーキを食していく。
「うまい。じつにうまい。パンケーキはいいよな。味もいい、見た目も最高だ。なにより、わざわざ粉を練って焼いて固めたものを、わざわざナイフとフォークで分解して食べるというのがいい。人の苦労や文化の営みを解剖するような気持ちになる。実に刺激的だ」
「食べ物はだいだいそうじゃないか?」
「そうではあるが、パンケーキは際立っているよ」
ボクは赤彦がパンケーキを切り崩していくのを見ながら、左手をババロアに右手をコーヒーにかざした。なぜそんなことをしたかといえば、湯気と冷気をべつべつの手に感じたなら、脳がバグを起こすんじゃないかと思い付いたからだ。だが、まったくそんなことはない。ボクの頭は完全に正気を保っていた。
地に足のついた理由として、ボクは猫舌だということもある。
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