……う、うぐぐぐ……。と、ボクのお腹が鳴った。夕食を食べていなかったし、お昼も少なめにしておいたせいだ。ふと、コタツの上の物に意識が向く。さっきから、隅に何か置いてあるなーとは思ってはいた。けど、初めての場所というのと倉木さんの圧のせいで、意識を向ける余裕がなかった。

 それは木でできた大きなサラダボウルだった。中に何か入っているようだ。覗き込むとそこには、たくさんのミカンと、それからいくつか箱状の物もあった。アイスだ。アイスのパッケージだ。よく見るやつだ。コンビニやスーパーで年中見るような。つまり、雪を見ながら食べると風情がありそうなお餅状のアイス。

 食べていいってことなのかな? ボクは心の中で、意識的にそう呟いた。まるで誰かの許しを得るかのように。

 と、その時、誰かの視線を感じた。ボクはゆっくりと顔をあげた。まるで、そうすることで時間の進みを遅らせようとするかのように。雪だるまだ。雪だるまがボクのことを見ていた。大きいけれど、どこか虚ろな黒い目で。マバタキもせずに、じっとボクのことを見ている。でも、ここにこうして置いてあるということは、そういうことなんじゃないか? お通しの代わり、ということなんじゃないだろうか?

「オレサマが見てんのはオマエの心の中なんだぜ?」

 とでも言いたげな雪だるまの顔。いや、雪だるまはそんなこと言わないし、そんな顔だってしない。こいつらは人間につくられし存在。つまり被造物だ。作り手が明確な意図を込めてそうつくらない限り、そんな表情しないはずさ。

「でも、そう、だよな。勝手に食べちゃ、ダメ、だよな……はは……」

 部屋の中はBGMとかが流れているわけじゃないからシーンとしている。

「ていうかボク、なにヒトリゴト言ってんだろ。きもちわる」

 手持ち無沙汰。きっとこいつのせいだろう。ボクはさして意味もなく部屋の中をキョロキョロと見渡した。

「それにしても、お店って感じしないなぁ。まるっきり家って感じだ」

 壁にはカレンダー。雪だるまの対角にはテレビ。その上には目覚まし時計。コンセントには、スマホの充電ケーブルが差しっぱなしになっている。生活感を感じるなんてもんじゃない。生活感しか感じない……。雪だるまとエアコンの数さえ無視できるなら、本当に普通の居間だ。人の家に初めて来たときのソワソワした感じと、雪だるまとエアコンの違和があいまって、物凄く居心地が悪い。なんとなくだけど、倉木さんに早く戻ってきてほしかった。ボクはひとりぼっちだ。こんなに間の抜けた部屋にいるのに、なんだか、独房の中にいるような気持ちになってくる。早く戻ってきてよ、倉木さん……。……なんでボク……こんな気持ちになってるんだろ……。

 ボクは無意識のうちに頬杖をついていた。破壊衝動。そんな大げさなものじゃないけど、なんとなく何かに八つ当たりしたいような気持ちがして、ボクはミカンのひとつを人差し指でつっついた。正直に告白すると、ほんの数ミリへこませてやろうという気持ちがあった。だけどミカンは少しもへこむことはなかった。ミカンは、プラスチックでできていた。いくつかアトランダムにつっついてみたが、すべてプラスチックだった。偽物のミカンだった。それからアイスまでもが。すべてが、精巧につくられた偽物だった。

 ――オレサマが見てんのはオマエの心の中なんだぜ?――

 また、雪だるまと目があう。

「おまたせ。まった?」

 背後から声がしてボクは身をひねった。倉木さんはニコニコ笑って、おぼんを持って立っていた。それを見てボクはひどくホッとした。なにか救いの手でも差し伸べられたような気持ちになった。それを悟られたくなくて、ボクはつっけんどんに言った。

「待ってないですよ、少しも」

「え、なぜ?」

 倉木さん目をまるくした。そしてボクのことを凝視したまま元の位置に座った。少しのあいだ倉木さんは意味不明な注意書きを眺めるような目でボクを見ていたが、すぐに警戒を解き湯呑を差し出してくれた。

「はい。ウーロン茶です」

「ありがとうございます」

 両手で受け取った湯呑はじんわりとあったかくて、ずっとそうしていたいくらいだった。

「熱いから気をつけてターンとお飲み。おかわりたくさんあるからね」

「ん、はい? どうも……?」

「それからこちらはカブ漬けです」

 渡された小皿の上には、赤カブと白カブの漬物がきれいに並べられていた。

「おお……なんか縁起がいいですね。なんかメデタイ気がする」

 とりあえず何か言わなきゃと思ってそう言ってみたけれど、倉木さんは無言だった。両手で頬杖をついて微妙な表情をしている。なんだか何か我慢しているような顔だ。

 まずウーロン茶をひと口飲んでみた。ボクはちょっと驚く。思った以上に美味しくて。思えば、あったかいウーロン茶を飲むのは初めてだった。冷たいのなら何度もあるけど。ウーロン茶はホットのほうが美味しいんだろうか? それとも、ここのウーロン茶が特別美味しいのかな?

 次にカブ漬けに手をつけてみる。ボクはまた驚く。しかもさっきよりも驚く。うまい。カブ漬けがうまい。カブ漬けはびっくりするくらいうまかった。いままで生きてきて、漬物を美味しいと感じたのは初めてだと思う。漬物はべつに嫌いではないし、残さず食べるけどボクにとって漬物は微妙な存在だった。好きでも嫌いでもないやつ。そういう認識だった。だけど今、漬物へのイメージがひっくり返った。

 白カブはさっぱりとした味で、シャクシャク小気味いい歯ごたえで、赤カブのほうはかなり甘くて、なんというのか、くどくなるギリギリを攻めたような癖になるような甘さだった。それを交互に食べて、たまにウーロン茶をすすって。もうそれだけで幸せな気分になった。

「これ、めちゃくちゃ美味しいですね!」

「だろ~」

 そう言って、倉木さんはホクホクと笑った。たとえはおかしいけど、焼き芋みたいな笑顔だと思った。冗談やからかいとかじゃなく、本当にいい意味でそう思うんだけど、本人に伝えたら確実に怒られるような気がする。でも、無性に安心する笑顔だった。ずっと見てると、こっちまで嬉しくなって、涙が出てくるような。

 けっこう量のあった漬物はあっというまに無くなってしまった。

 ボクはふと我に返る。というか、我を忘れていたことを今知った。カブ漬けとウーロン茶に意識を完全に持っていかれていたのだ。

 倉木さんと目が合う。笑顔だった。でも、ボクはそこに、何か圧迫に似たものを感じるのだった。でもきっとこれは、外からのものではなく内側からのものなんだ。何か言わなきゃ、場を繋がなきゃ、沈黙を埋めなくちゃ。

「……まるで漬物専門店に来たみたいです」

「ふふふ。べつにね、テレビのなかの連中みたいに、上手いこと言わなくてもいいんだよ。おいしーとか、うめーとかでいいんだよ。それで嬉しいから、いや、そのほうが嬉しいかもしれない。それより、もっと食べる?」

「はい!」

 今度はもっと味わって食べようと思ったんだけど、美味しくてスピードがあがってしまう。が、ボクのハシは急に止まる。さっきまで気にならなかったけど、真正面から食べているところを見られるのは、なんとなく恥ずかしい。ボクはチラリと倉木さんに視線を向けた。すると倉木さんは、

「そんなに緊張しなくてもいいよ、ほら、脚も崩しなよ」と言った。

「え? 崩してますが……」

 そうだ。ボクは今、脚を崩している。ボクはここに座ってからずっとアグラをしている。どういうことだ? 「脚を崩す」に「正座ではない座り方に移行する」という以外の意味があったろうか?

「あんた、ずいぶん座高が高いんだね」

 ポツリと、本当にポツリと、倉木さんは言った。コミュニケーションの言葉というより、内的思考の言葉という感じで。頭のなかの独り言を思わず口に出してしまったかのように。かみ殺したアクビ、押し殺したクシャミ、止めることのできないシャックリのような言葉。感じたままをストレートに表現した本能の言葉。

「……。短足だって言いたいんですか?」

「そんなことヒトコトも言ってないだろ? 存在はただ、『あんた、ずいぶん座高が高いんだね』とだけ言ったんだ。アゲアシとるんじゃないよ、まったく。それに……なんでちょっと怒ってんだよ……。ったく、なんなんだよ……」

 それからしばらく気まずい雰囲気が流れた。カブ漬けを噛むシャクシャクがやけに大きく感じられる。倉木さんはコタツの上にひろげた両手を置いて、それを眺めている。短い指、短い爪。それが十ある。沈黙。指。爪。そしてシャクシャク。雪だるまは、あいかわらず虚ろな目でボクのことを見ている。

 ――オレサマは頭と体あわせて八十回も転がされて生み出されたんだぜ?――

「料理は少し待ってね。あともう少しだから」

 と、突然倉木さんは言った。

「あれ、注文した覚え、ないですけど……」

「ここはね、コースが決まっているんだよ。ふ……ふふふ……。安心しな、ボッタクリとかじゃないから、値段も電話で伝えたとおりだよ。……ふ、ふふ……」

 倉木さんは、気まずさをなくすために、おどけてくれているようだ。それならボクもちゃんとリアクションしないといけない。なるべくおもしろく、それにも増して自然に――。

 ――ジリリリリリリリン――

 突然背後から大きな音がして、ボク渾身のおもしろリアクションは不発に終わる。

 振り向くと音の正体はすぐに知れた。

 目覚まし時計が、テレビの上でぶるぶる震えていた。

「お、できたみたいだ」と倉木さん。

「え?」

「料理さ。待っててね。すぐに戻るよ」

 そう言って倉木さんは立ち上がった。

「ああ、なるほど……? なんか、そういうシステムなんですね……?」

 きっと台所から電波でも飛ばしているんだろう。

「お客さん」

 フスマに手をかけたまま、こちらに振り返らずに倉木さんは言った。ゾッとするほど綺麗な声で。冷たくて、澄んだ声。「わたし雪女です」みたいな感じだ。

「ねぇお客さん? ここは居酒屋ですからお酒があります。まさか、飲まないつもり?」

「あ、じゃあ……そうだな、とりあえ――」

「ウォッカしかないけれどね」

「なんでウォッカしかないんですか……」

「そりゃあそういう店だからに決まってるだろうが」

 絞り出すように倉木さんは言った。真っ白なシャツについた墨汁を執拗に洗い続けるような、ぼろぼろで、だけれど手慣れた声、口調。

「じゃ、じゃあウォッカで……」

「うす」

 体育会系じみた返事を残し、倉木さんは部屋を出ていった。

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