さっと前方から風が吹いて、ボクは現実に連れ戻された。またひとつさっと風が吹く。まるで、ていねいに切り開かれたウナギのかば焼きに、繊細な毛先のハケでタレを引くかのような、均一でていねいな風。

 風圧の均一さとは違い、風の中に含まれる匂いは乱れ切っていた。炎のように、煙のように。甘くジューシーな油の匂い。そう、焼き鳥の匂いだ。

 ボクはべつに、焼き鳥への思い入れもないし、特別な思い出があるわけでもない。けれど、ボクの鼻腔をくすぐる匂いは、ボクの脳ミソまでくすぐりはじめるのだった。

 ――店の場所それは、とびうお商店街通りを抜けた先にある――

 これは確かに、さっきまでの頭に浮かんでいた記憶の続きだ。続きの言葉だ。ボクが確かに一度聞いた言葉だ。でも、いまボクの頭に浮かぶ赤彦の言葉は、記憶のなかのものと違って、独特の響きをもっていた。頭蓋骨そのものをリ~ンと鳴らすような。もしこの世にお告げというものがあるのなら、おそらくこれがそうだというような。

 ――まるで廃墟のようなアパートの――

 ――その一室にあるのがそこです――

 ボクは歩き出す。それに連れ、アパートが迫ってくる。ように感じる。

 確かにそうだ。まさに廃墟のようなアパートだ。最初聞いたときは何を大袈裟なと思ったが、もうそうとしか言い表すことのできないボクが現にここにいる。

 外壁の色はくすみ、ところどころヒビ割れて、いちぶ剥がれ落ちているところまである。コケやツタまでは生えていないが、むしろそれが不自然に思えてしまう不思議。

 ありふれた造りのアパートではある。なのに、ボロボロというだけで、なぜここまでマガマガしいオーラが出るんだろう。あるいは潜在的な死への恐怖がそうさせるのだろうか。

 いつかお前もこうなって、やがては朽ち果てて、誰からも忘れられてしまうんだ、と。

 ふだん目をそらしていたものを見据えてしまった決まりの悪さ、から逃げたいのに、なぜか目をそらすことのできないアマノジャク。これがボクだし、たぶんみんなそうなんだと思う。怖いもの見たさは誰にだって……。こうして自分の感情を普遍性に溶かし込もうと試みたとしても、死のテストケースはお構いなしにボクに目配せをしてくる。

 お前だ。他の誰かじゃない。俺は、お前のことを見ているんだ。俺は、お前のためにここにいるんだ、と。

 このアパートに店を構える「裏ごし」は、赤彦の友人の友人の友人の友人の友人の友人の友人の友人が経営しているらしい。ただ、赤彦じたいはこの店を訪れたことはないそうで、焼き鳥屋とも面識がないらしい。これだけ友人友人と連呼しても、両端の二人は友人ではないという不思議。そして、行ったこともない店を友人に強く勧める赤彦の心。お告げの確かさがそうさせるのか、それとも赤彦のハードな心がそうさせるのか。決して本人には言わないが――たとえ拷問されようとも言わないが――ボクは赤彦のことをいちばんの親友だと思っている。でも、ここ最近のスピリチュアルな騒動のなかで、それが微かにゆらいだ。微かだが何度もゆらいだ。本当にボクたちは友だちなのか。そう思っているのはボクだけなんじゃないか。

 地味で平凡でありふれていたボクの日常に、突如さしたスピリチュアルな影。この影は本当に、光の到来としての影なのだろうか。それともそれは、たんなる影にすぎないのだろうか。

 アパートの出入り口をくぐった瞬間、ボクは驚愕した。

 階段のとなりにエレベーターがあったからだ。こんなボロボロなアパートにエレベーターなんかないと決めてかかっていたんだと思う。腰が抜けるかと思ったし、「失礼しました」と口にしかけた。

 ボクは自分を恥ずかしく思った。ボクは教えられてきたはずじゃないか、見た目で人を判断するなって。何度も何度も何度も、耳にタコができるくらいに。アパートは人じゃない。でも、腹の底をさらされた気がして、サイテーな自分を見た気がして、どうしようもなく悲しくなった。

 ボクは動揺をかかえたまま、エレベーターのボタンに手を伸ばした。ボクの指に押し込まれた「三階です」のボタンは、ぞっとするほど奥に深くめり込み、ねっとりと元の位置に戻るのだった。

 ポクポク、チーン。

 あまり聞かない効果音をさせてエレベーターは到着した。

 扉がゆっくりと開く。中は無人。ボクは箱のなかに入り、「閉まります」のボタンを押した。するとすぐに効果音が鳴り始めた。ポクポクポクポクポクポク……。ふだんエレベーターで感じる浮遊感はいっさい感じない。動いていないんじゃないかと思うほど、なめらかに上昇していく。効果音だけがやけにひびく。まるで脳裏で鳴っているかのように。ポクポクポクポクポクポク……。ポクポクポクポクポクポク……。チーンはまだか? チーンはいつ来る? じらされているみたいで、ボクは怒りを覚えた。ボクはべつにあのチーンという音に魅力を感じたわけじゃない。だけど、こうもポクポク聞かされると……あのチーンを期待せざるを得ない……。ポクポクポクポクポクポク……。ポクポクポクポクポクポク……。

 やがて体をかすめるほどの浮遊感があって、扉は静かに開いた。

「鳴らないのか……」

 肩透かしを感じながらボクは薄暗い通路を進んだ。店はすぐに見つかった。「405」の番号があてられた部屋のドアの上に、どでかい額縁があって、そこに大きく「裏ごし」と書いてあった。白地に筆文字で書いてある。和食のお店とかでよく見るような崩した文字ではなく、習字のお手本のようにきれいな字だ。かすれたところも、跳ねや払いを伸ばしたところもない、無個性な文字。記号としての店名がただそこにある。凄みをなくすことで逆に凄みを出そうという魂胆かもしれないが、どうなんだろう。ボクにはよくわからない。

 ドアの目の前に立つと、ひんやりと冷気を感じた気がした。きっと気のせいだ。お告げが勧めてきた得体の知れない店に対する怖気が、そういう感覚を引き起こしたに過ぎないのだろう。

 ボクは歯を傷めない程度に噛み締め、ドアノブに手を伸ばし、時計回りにひねり、引いた。

 ――ガコ――

 ドアには鍵がかかっていた。

 ボクはそのことに、しゅんとして、世界そのものから拒絶されたような気持ちになった。

 ここはお店だし、予約しているし、当然ドアは開くものとボクは決めてかかっていた。ボクは自分の人間性の底を見た気がした。してもらえる、してもらうのが当たり前、そんなふうに考えて、そういう態度で生きている人間なんだな、ボクは。まるでトノサマじゃないかよ。

 ボクのすぐ目の前、鼻先十数センチのところに、ちゃんとチャイムがついているじゃないかよボクさあ! 何を甘ったれているんだ! ボクはもう小さな子どもじゃないのに……。自分自身にとことん嫌気がさす。思えば、この夜に足を踏み入れてからずっとそうだ。ボクの目の前にあらわれるものすべてが、ボクの人間性をさらけ出す鏡の役割を果たしている……。

 この一連の現象は、お告げの一環としてのものなのだろうか? ボクの燻ぶりを消去するための活なのか? それとも燻ぶりへの不安から生み出された、疑心暗鬼的被害妄想なのだろうか? ともかくピンポンだ。早計だ。考えすぎて行動しないのだって、それはそれで早計だ。ようはバランスなんだ。良い人生を送るためには「下手な考え休むに似たり」と「急いては事を仕損じる」の良いとこ取りをしなければならないんだ。

 ボクは押した、チャイムを。まるで自分の背中を押すように。

 ――チーン――

「……は、ははは…………」

 少しして、ドタバタと騒がしい足音が近づいてくるのが聞こえた。気配は騒がしいままにドアの前まで来る。そして開錠の音。ドアがゆっくりと開きだす。が、それはすぐに止まる。

 ――ガシャンッ――

 ドアチェーンの鳴る激しい音がボクを威圧する。そして沈黙。お前の出方をうかがっているぞ、という明確な意図を感じる。ボクは声を出すために息を吸った。が、それに被せるように、ドアのすきまの暗がりから声がした。

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