ボクはあっというまに料理を平らげてしまった。のみならず、何品かはおかわりもした。かなりの量を食べたはずなのに、胃にはまだ余裕があった。ボクは本来あまり食べるほうじゃない。だから驚いている。ボク、意外と食える、って。食おうと思えばこんなに食えるんだ、って。

 料理が美味しかったというのももちろんあるだろう。でもそれだけじゃなく、ボクは無意識に自分に限界をもうけていたのかもしれない。つまりボクは精神的な小食だったんだ。

 そしてボクは本来あまり飲むほうじゃない。こちらは、本来のことが本来どおりに起こった。

「うあ……目がまわる……あは……あはは……」

「おい大丈夫か? お冷もってくるか?」

「……な~に、大丈夫ですよ。でも、はい。おねがいします……」

 べつに吐きそうとかじゃないけど、世界がまわってるのは本当だ。世界がどうしようもなくハッピーで、ちっぽけなものがすべて消えて、自分と他人の区別もなくなって、これが世界の本当の姿なんじゃないかと思えてくる。

 倉木さんは立ち上がろうと身を浮かせた。が、次の瞬間、床にうつぶせに崩れ落ちた。

「う。うああ……!!」

「ど、どうしたんですか!? まさか――内臓疾患ですかっ!?」

「……ぁぁぁ……。……ははは……脚が痺れちまった。なんてこった。客の前だってのに……。まったく力が入らねえ。完全にマヒしてやがる。ちくしょう……! ちきしょう……!!」

「だ、大丈夫ですか……? あ、あの……代わりにボク、取ってきますよ……? 台所ってどっちですか?」

「なんだと……? ふざけんじゃねえ……! 客にそんなこと……させられるかってんだあ……!」

 倉木さんは床の上を這って進んでゆく。うねうねと少しずつ進む姿はなんだかまるで、ナメクジか芋虫みたいだ。

「お、おい……なんだよ、存在のこと、そんなにじっと見て……。おいお客さん、変なこと考えるなよ? 変な気を起こすなよ? 言っとくけどね、店の裏には恐~いニイチャンがいるんだ。バイトの板倉くんだ。板倉くんはな、女にモテたくて毎日筋トレしてんだぜ? 腹筋が八つに割れてんだぜ? 八つだぜ? 普通六つだろ。どんだけ腹筋してんだよ。だから、板倉くんがその気になりゃあ、お客さんみたいなガリガリなんて、まあ~ボコボコさ」

 と言い残し、倉木さんはホフク前進で部屋を出ていった。

 その数秒後、声が聞こえてきた。

「お~い、板倉く~ん! お冷おねがい! それと存在にもなんか作ってよ! なんかお腹減っちゃったー!」

 ボクはぼんやりと天井をながめた。綺麗な琥珀色だ。ぶらさがる照明がミラーボールのようにキラキラと輝いている。

 ボクは部屋のなかにあるものに次々と目を移していった。コタツもタンスも、茶棚もテレビも、時計もカレンダーも、壁も、そのどれもが、そこにある、そこに存在しているということの不確かさをかかえながら、それでも、前向きに、明るく、歌っていた。これでいいんだ。これしかなかったんだ。

「オイ」

 と声が聞こえた。誰の声なんて考えるまでもない。ボクたちは裏側の世界でつながっているんだよ。

「オマエ、ホントにダイジョブか?」

 雪だるまは小首をかしげながら、ボクにそう言った。

「だいじょうぶ、だって、こんなに世界があからさまなんだよ?」

「おいシッカリしろ。なんならオレサマの頭食うか? オマエこのままだとヤバいぜ?」

「だいじょぶさ、へいきだよ、世界はだんだんよくなってゆくから。それより『オマエ』だなんてミズクサイじゃん。ボクは『原田』だよ。『原田タオル』だ。『タオル』って呼んでよ」

「ああ、わかった。そうするよ。だから、シッカリしろ。負けるな。気をシッカリもて」

「あははのはっはっ。そんなにあわてないでよ。ところでキミ、名前なんていうの?」

「ン? オレサマ? オレサマは『だるめしあん』だ」

「なんかよくわかんないけど……いい名前だと思うし……だんだんなじんでいくんだろうなぁ……こうして仲良くなれた感動も、自己紹介しあった思い出も……ボクが自分で消してしまうわけだけど……でも、悲しいね……忘れたくない……みんな覚えておきたいのに……」

「オマエ、ホントにこのままだとヤバいぜ。早くオレサマの頭を食うんだ」

「ありがとう。でもごめんね。『だるめしあん』の気持ちはうれしいけど……生のかき氷はちょっとなぁ……」

「……オマエ……」

 肩をゆすられている気がした。いや、ボクは今、実際に肩をゆすられている。それを自覚した途端、ボクの意識に体の感覚が飛び込んできた。

「起きろ。大丈夫か? おい、お客さん」

「……名前……」

「え?」

「……ぜんぜん名前で呼んでくれないじゃないですか……」

「え……? ……ご、ごめん……」

 ボクはパチリと目を開き、頭をあげた。視界がぼんやりしている。人のメガネをかけてるみたいだ。ボクは目をこすりながら、部屋の隅に顔を向けた。そこには雪だるまが鎮座している。普通の雪だるまだ。部屋の隅に雪だるまが置かれている。なんの変哲もないその光景に、なぜか違和感を覚える。そしてボクは無意識に呟く。

「あのぅ倉木さん。……『だるめしあん』は……?」

「……。…………え? …………すまん……ここ、焼き鳥屋だぜ……? どうする? もう帰るか……?」

 ボクはそこでハッとした。居眠りをしていたこと。夢を見るほど深く眠っていたこと。それを自覚した。なんだか恥ずかしいことを口にしてしまった気がする。

「ああ、なんでもないんです。忘れてください。『本当に』なんでもないですから」

 ボクはつとめて冷静にそう言った。すると倉木さんは、落ち着きなく視線をさまよわせながら、

「…………そ、そうか……? とりあえずうん忘れるよああ忘れる。それよりこれハイお冷、とりあえずお冷飲めって、な?」

 と早口に言った。

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