10

「ああ、『ドジョウのおでん』だよ」

「え? ……ええぇ……?」

「な、なんだよ……なんでイヤそうな顔してんだよ?」

「いや……だって……なんか泥臭そうだなと思って……」

「オイ、コラ。なんてこと言うんだ。怒られるだろ」

「怒られる? 誰にです?」

 ボクの問いかけに、倉木さんは押し黙る――まるで、何か致命的なエラーを起こしたかのように。気がつくと部屋のなかは沈黙で張り詰めていた――ひとこと声を発するだけで割れてしまうほどに――世界が壊れてしまうほどに。ボクは、何を、考えているんだろう。そんなわけないじゃないか。世界を壊すほどの問いなんて、あるわけない。でも、ホントにそうか? もし仮にそういう問いがあるとして、ボクなんかにそんなものは生み出せないのは確かだ。じゃあ、今この、ありえないような世界の沈黙はなんだ? 

 どれくらいの時間が経ったのか――あるいは時間なんていっさい流れていなかったのか?――はわからないが、倉木さんはおもむろに口を開いた。

「……誰にって……う~ん、神さまとかだよ」

 さっきまでのありえないような沈黙は、ありえないほどあっさりと消えてしまった。形のないことをいいことに、「沈黙」はすべてをうやむやにするつもりらしい。だけど、「沈黙」は確かにあった。ボクは覚えている。異常な「沈黙」があったことを。世界がバグを起こしかけていたことを。なのに世界は、何食わぬ顔でなごやかさを取り戻してゆく。

「神さま? なんですそれ?」

「え。逆にしらんの?」

「いやまあ、言葉としては知ってますよ。でもやっぱり、あんまりなじみは、ないかもですねぇ。倉木さんは、けっこう信じるほうですか?」

「そうはっきり言われちまうと……そうでもない、かもしれない」

「どっちですか……」

「……まあでも、人間には理解できない法則みたいものは、あると思ってるよ」

「んん……ますますわかりませんね……。自然の法則……的なことですか……?」

「それもあるが、それよりもまず社会だね」

「社会?」

「そう、社会」

「というと?」

「社会に流れてる法則はたぶん、いち人間に理解できるようなものじゃないのさ」

「つまり……こういうことですか? 自然や宇宙よりもまえに、社会の時点で人間の理解を超えているわけだから、それを神と呼んでもさしつかえはないだろう、と」

「うん、たぶんそんなカンジ」

 倉木さんはそこでウインクをしてみせた。閉じた目のほうに首を少し傾け、とびっきりの笑顔で……。キラーン、という効果音がしそうなかわいい仕草だけど、その意図はよくわからない。

「だから」

 と倉木さんは切りだす。

「どんな風習にも神さまが宿っているってことさ」

「けなすとバチがあたると?」

「そうは言わない。けど、楽しみをのがしちまうことはあるかもね」

「ははあ……つまり、『ドジョウのおでんを食え』、と……?」

「心配すんなって! 「うまいもん食いたい、食ってもらいたい」ってのが料理なんだからよ、たいがいイイ神さまが宿ってるもんさあ! ――ようするに、つまりはそういうことだぜ?」

「ん……なるほど……?」

 それじゃあ準備してくるからよ、勝手に帰るんじゃねえぜ、と言って部屋を出ていきかけた倉木さんだったが、何か思い出したようにハッと頭をあげ、こちらに振り返った。

「ああそうだ、言い忘れてたけど、この店にはね、ちょっとしたオプションがあるんだ」

「オプション?」

 倉木さんはパンチを繰り出すように茶棚をビシッと指さした。

「そこの茶棚にお菓子が入ってるから、すきに食っていいよ。かりんとうもあるし、金平糖もあるし、のど飴だってある」

 いらねー。お菓子は大好きだけど、今はいらぬ。今はそういう感じじゃない。鍋のまえにお菓子はいらぬ。不本意ながら、その優しさはむげにさせていただく。

 倉木さんはダンスのような――もっというならダンスのヒナガタのような――謎にノリノリな動きで部屋を出ると、ピシャリと音を立ててフスマを閉じた。

 その瞬間、――ゴゴゴゴゴゴゴ!――と異音がしはじめた。

「うわっ、な、なんだ!? 地震!? ……じゃないな。平行だ。ぜんぜんゆれてない」

 それじゃあ、イッタイゼンタイなんなんだ?

 ボクは気づく。音は上からしている。見ると三台のエアコンがあらぶっていた。ランプをドス黒い赤色に点滅させて、オオカミのように唸っている。そして次の瞬間、エアコンは絶叫のような「アオォーン!」という音とともに、七色の煙をすごい勢いで吐き出しはじめた。

「倉木さん! タイヘンです! エアコンが! エアコンがタイヘンなことに!」

 煙はみるみる部屋に充満し、ボクの視界を奪う。煙は焼け焦げたような臭いにもかかわらずひどく冷たかった。息を吸うとノドが痛み、咳が出た。だからボクは満足に息をすることもできなかった。これはヤバいと思い、ボクは立ち上がって部屋を出ようとした。しかしボクは何かにぶつかり床にうつぶせに倒れてしまう。

 体に力が入らなかった。

 顔をわずかにあげるのが精一杯だった。

 目の前には、ひとつの影が立ち尽くしていた。

 アイスクリームのダブルのようなシルエット。

「……キミ、もしかして『だるめしあん』か?」

「ソウダ。オレサマはだるめしあん。そしてオマエは『タオル原田』」

「……逆だよ……」

「つまり、オレサマはもう行かなければならない」

「なに言ってんのか……ひとつもわからないんだけど……」

 意識が少し遠のいた気がした。

「いちおう言っておくが、オレサマはカミサマじゃないぜ?」

「じゃあ何なの?」

「アクマだ」

「悪魔?」

「ソウ。春のアクマだ」

「雪だるまなのに?」

「ソウ。理解が早くてタスカルよ」

「いや、さっぱりなんだけど……」

「春のあいだはたしかにアクマだが、冬はカミサマかもしれない」

「よくわかんないけど……だるめしあんが悪魔なら……なんかいろいろ大丈夫そうな気がするなぁ……」

「オレサマの脳細胞は六角形だからコムズカしいことはわからない。ガ、これだけはわかるゾ。オマエ、今、オレサマのこと、のほほんとバカにしたな?」

「いやぁ……してないよ、全然……」

「ソウカ。ならばイノチは奪わずにおいてやろう」

「…………えっ?」

「サラバダ! タオル原田よ! 長生きしたくば今宵の幸運をワスレぬことだ!」

 だるめしあんは鋭く野太い声でそう言い残し、ドスドスと大きな足音を立てながら部屋を出ていった。ちゃんと、ピシャリと、フスマを閉めて。

 不思議なことに、煙はだんだんと薄くなっていき、しばらくすると完全に消えてしまった。いつのまにか呼吸も楽になり、意識もはっきりしていた。ただ、記憶だけが混濁していた。

 ボクは今起こったことを受け止めきれなくて、畳の上に仰向けになりながら、天井をぼうぜんと眺めた。ラッコみたいに。水に浮かびながら、水族館の空色の天井をぼんやりと眺めるラッコみたいに。

 そうするうちに、倉木さんが戻ってきた。

「タオルくん、スゲーくつろいでんな……。いや、いいんだけどさ……」

 倉木さんはバカデカい土鍋を持ったまま、ボクのことを見下ろしていた。

「あの、倉木さん……『だるめしあん』はどうなりましたか……?」

 タイミング的に、倉木さんとだるめしあんは廊下でスレ違っているはずだ。

「……ウソだろ……、まだ言ってんのかよ、タオルくん……。いやまあ、ついさっき風習うんぬんとは言ったけどね……さすがになぁ……そういう文化があるのは知ってるが……う~ん……存在のキャパを超えてるな……。いや、ていうか、焼き鳥屋だからな、ここ……」

 ボクがダウンしているあいだに、倉木さんはおでんの準備を進めてくれた。食器が並べられるカチャカチャという音を聞いているうちに、ボクのなかの現実感はしだいに息を吹き返していった。

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