一話のモブが強すぎる!
吹井賢(ふくいけん)
本編
第1話 R製薬会社研究所
その施設は、大阪府は大阪市、淀川河川公園を見下ろす場所にあった。
とある製薬会社の研究所である。本邦でも有数の製薬メーカーの子会社に当たるのだが、街を行く人々は、ここに研究所があることさえ認識していないであろう。風景の一部として消費され、仮に更地になったとしても、「あの高い塀があった建物、なんだったっけ」と思うだけだ。
ここを職場としている彼も、仕事でなければこんな研究所があることなんて知らなかっただろうし、警備員として巡回をしている今も尚、ここが何を目的として、どんな研究をしている施設なのか、全く興味がなかった。
「高瀬君~!」
背後から同僚に呼び掛けられた青年、高瀬壮太は振り返る。
高瀬はこれと言って特徴のない顔立ちの、ごく普通の若者だったが、声を掛けたもう一人の警備員、木屋町は、警備員らしくないだらしのない身体の中年だった。こんな風に、夜間の施設警備をやっているよりも、銀行か商社のデスクに座っている方が余程に似合うだろう。
真っ黒な瞳で木屋町を見た高瀬は、「なんすか」と冷ややかに応じる。
「なんすか、じゃないよ~。歩くペース、速いって! のんびり行こうよ、のんびりさ。どうせ何もないんだから」
「何もないかどうか確認する為に俺達がいるんでしょ」
「そりゃそうだけどさ~」
すぐに歩みを進め始めた高瀬の隣に追い付いた木屋町は、
「高瀬君、いくつだっけ」
と、世間話を始めた。
問われた高瀬は、やや考えて、「二十三っす」と短く応じた。
「おお! 若いね~! 大学生?」
「フリーターっすね」
「へえ。警備員一本?」
「……昼は駐車場係やってます」
この話、何の意味があるんだ?
そんな心情を察したわけではなかろうが、木屋町は「そう言えば、知ってる?」と話題を変えた。
「何がすか」
「この研究所の噂。ここの警備のシフト、はじめてでしょ?」
「まあ、はい」
それは「この場所の警備に入ったのははじめてだろう?」という意味の問いに対しての「はい」であったのだが、どうやら木屋町は「噂話を聞きたい」という風に解釈したらしく、機嫌良く話始めた。
「ここの研究所ね、表向きはただの製薬会社の研究施設だけど、実はとんでもないものを作ってるらしいんだわ」
「……へえ。そうなんですか」
興味はなかったが、仮にも目上が相手だと、相槌だけ打っておく。
「作ってるのは、ドーピング薬。……って言うより、戦場で使うような、ヤバい薬。筋力増強の為のアナボリックステロイド、骨や筋力の成長を促すヒト成長ホルモン、興奮剤・痛み止めとしてのエンドルフィン、遺伝子そのものに作用するゲノムドーピング……。それらを複合させた、人間を超人化するような薬の研究をしてるとか、なんとか」
「面白い噂すね」
「でしょ~?」
高瀬は言った。
「そんな薬を作ってる会社の警備員が、ごく普通の警備会社のアルバイト社員ってことを除けば、面白いと思いますよ」
「あー、それ言っちゃう? 思っちゃうよね、それ。でも、それにはちゃんと理由があるんだな。……ほら、見える? あの辺り」
立ち止まり、木屋町は建物の最上階を指さす。
「あの一角は一般の職員は立ち入り禁止で、でも、何故か黒服の男達が出入りしてるんだよね~。あの区画を守る専門の人間を雇ってるんじゃないかな~」
へえ、と、また気のない返事で応じようとした瞬間だった。
突如としてサイレンが鳴り響いた。非常灯が点灯し、周囲が赤く照らされる。緊急時には警報装置が鳴ることがあると聞いてはいたが、とんでもない大音量だ。その音の大きさは事態の深刻さを示しているようでもあった。
一体、何が?
木屋町の方を見、そう問い掛けようとした時、気付いた。
同僚の後ろ、建物の角から、不審な人影が迫ってきていることを。
「―――邪魔だ」
言って、その黒い影は木屋町を裏拳で殴り付ける。虫でも払い除けるかのように乱雑に、そして、何よりも暴力的に。
頭蓋の砕ける鈍い音と肉が潰れるぐちゃりという音が同時に響き、それで終わりだった。壁まで殴り飛ばされ、建物の外壁を深紅に染めた木屋町は、その命は、既に絶えていた。
信じられない膂力。
不自然な怪力。
その理由は、すぐに分かった。
「……っと、時間切れか……」
男は手にしていたアタッシュケースを乱暴に開ける。そこには緩衝材で梱包された注射器があった。緑色の薬液は非常灯の光を反射し、邪悪な輝きを放っている。
あれが、そうなのだろう。
この研究所で研究されていた、人間を超人化する薬。
「超人化薬、って言うんだ、これ。面白いだろ?」
まだ未完成なんだがな、と続けつつ、男はそれを首筋に注射する。
瞬く間だった。
男の身体が巨大化した。
比喩ではない。男の身体が、一回り、大きくなったのだ。事実として全身の筋肉が隆起していたのだ。薬液に含まれる成分が、異常なパンプアップを引き起こしたのだろう。
楽し気に男は語る。
「筋力は最低でも常人の四倍。効果が大きい場合なら七倍を超える。これを使えば、誰でもスーパーヒーローに大変身ってわけだ。これさえ手にしてしまえば、作戦は成功したも同然だ」
「……さっさと、」
「あ?」
高瀬が、口を開く。
木屋町の元へ行き、既に同僚の息がないことを確認して。
「さっさと行けば……良かっただろ。俺達なんて相手にせずに。作戦だか計画だか、なんだか知らないが、用事があるんなら」
「バカか、お前は? 折角手に入れた力なんだ。使わなきゃ損だろ?」
「……そうか」
―――「死んだぞ、テメェ」。
それが開始の合図になっただろうか。
高瀬は男の元へ、真っ直ぐと歩みを進める。「バカが」。吐き捨てた男は右拳を握り締め、顔面を目掛けて振り抜いた。その膂力は常人の数倍。青年の骨は砕け、肉は千切れるはずだった。
だが。
「が、ぐあぁぁっ!?」
苦痛に顔を歪ませたのは男の方であった。
高瀬が行ったことは単純だ。男の大振りなフックに合わせ、手の平を向け、突き出しただけ。速さも強さも何も無い一撃が、男の中手骨を粉砕した。
あまり知られていないことだが、人の拳は、殴ることに向いてはいないのだ。どれほど筋力があろうが、殴り方を知らなければ無用の長物に過ぎない。そして同時に、これも知られていないことだが、手の平の強度は拳よりも遥かに強い。それは空手では「掌底」、相撲では「張り手」と呼ばれる強力無比な一撃。
「て……ッ!?」
二の句は、継がせなかった。強烈な衝撃と共に男の頭蓋が揺れ、視界が回る。
上体をスウェーするように後傾させ、相手の後ろや横から脚を回して延髄を蹴る足技。裏回し蹴り。そして足を戻した勢いは殺さず、次の技へと繋がる。
即ち、飛び膝蹴りへと。
鼻柱に一撃、顎に一撃。頭が下がった瞬間に後頭部に肘を打ち落とす。倒れ伏した男の顔面を踏み抜く、面踏み砕き。
男は、ピクリとも動かなくなった。
「……こんなもん」
言って。
高瀬は残っていた注射器を地面に叩き付け、全て割った。
それが死んだ同僚へのせめてもの手向けだった。
懐からマルボロを取り出し、咥え、考える。さて、とりあえず警察でも呼ぼうか。
辺りは変わらずサイレンが鳴り響き、赤い光が高瀬を照らしていた。
了
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