第1話 埼玉県秩父市
閃光手榴弾による爆音と光は、遠く聞こえるステージ音声と観客のコールに搔き消された。しかし、視界が焼き付いた暗視装置は手の施しようがなく、男は咄嗟にゴーグルを投げ捨てる。男が絞め落とされたのは、その次の瞬間だった。
意識を失った身体をゆっくりと山中に下ろした椥辻未練は、林越しに見えるライブ会場に目を遣った。メドレーはクライマックス、観客のボルテージも最高潮だった。
椥辻未練は警察庁の警視である。
だが、彼の所属が警察庁警備局警備企画課――『チヨダ』だと知れば、反社会的勢力の人間は身構えるであろう。公安警察官。対スパイ後進国たる日本において、彼等は諜報員と呼称して差し支えない精鋭中の精鋭だ。
そして未練は、チヨダの最奥、『白の部隊』の隊長が一人であり、日本警察の誇る『最高の暴力』の一角だった。
異能力犯罪の対処を専門とする対能力者機関。それが『白の部隊』だ。たった十三人の隊長は、そのほぼ全てが超能力者、かつ、例外なく一流の実力者であった。故に彼等は『最高の暴力』と呼ばれ、文字通りに、暴力装置として最高の存在である。
そう、今回のような、大規模野外フェスを隠れ蓑にした、能力者組織の取引の対処などが専門だ。
未練の任務は、指定の時間までに山中の監視役を排除し、ステージ裏側の会合場所に辿り着くこと。
及び、反逆する異能者達に対する実力行使だ。
「……あんた……」
青年の声は、作戦の歯車が狂い始めた音だったか。
警備員の若い男が、こちらに歩いてきていた。恐らく、巡回警備の最中、不自然な発光と音に様子を伺いに来たのであろう。
……しまった……!
椥辻未練は内心で舌を打つ。
会場の見取り図から警備員の配置まで全て把握している。警備の穴を突いていた。警備員の巡回ルートからは大きく外れているはずだった。この若者、なんとなくで見回りの道程を変えたのか? なんという不幸。不運。秘密裏の作戦とは言え、警備会社に圧力を掛けてでもこの青年を退かすべきだった。
しかも、尚悪いことに、足元には先ほど絞め落とした男が転がっている。これでは「武力的な諍いがありました」と白状しているようなものだ。この状況で警察手帳を取り出したところで意味はあるまい。ニセモノと判断されるのが関の山だ。
「これには事情がある。僕は警察庁の人間なんだ。……って言っても、信じてもらえないよね」
「そうだな」
分かっていた。
言ってみただけだ。
作戦リミットは過ぎつつある。一秒でも早く、目の前の警備員をやり過ごし、指定のポイントへ向かわなければならない。だが、しかし、けれども。
椥辻未練は、片手に持っていたペットボトルを放り投げる。飲み口から飲料水が弧を描くように零れる。未練は戦う選択をした。青年が醸し出す、否、青年の身体に凝縮された暴力の才を感じ取って。
青年は何かを察し、瞬時に木陰に身を隠す。
次の刹那だった。
未練の左手首に水が纏われた。
そう、それこそが『不定の激流』の異名を取る椥辻未練の異能力。この世の理を超えた力。左の手首を中心とした、液体限定のサイコキネシス。
ただ単に、手の近くの水を操るだけ。それだけの異能である。だが、その水が高速回転したとしたらどうだろう? ウォーターカッター並の速度で撃ち出せるとしたら?
「降伏してくれ。僕は、そこを通りたいだけなんだ」
「嫌だ」
未練が問うも、青年は即座に返す。
そうして、こう続けた。
「仮にも警備員だ。……明らかに危険な奴を、通すわけには、いかない」
未練は困ったように笑った。
「立派な心掛けだね」
「皮肉か?」
「……いや」
「本心だよ」。
それが戦闘開始の合図となっただろうか。
ぱきり、という枝が踏み折られた音。水の弾丸が空気を切り裂いた音。どちらが先だっただろう。
木陰から飛び出た青年は、その身を疾駆させ、未練へと迫る。対し、未練は水流弾を撃つ。避けられる。両者の距離、約五メートル。懐から自動拳銃を抜こうとする。止まる気配はない。「フリでは駄目か」。三メートル。一足一刀の間合い。
未練は水流の回転を変更。左腕を水の刃へと変える。
青年は迷わない。踏み出し、踏み切る。
刃が振り下ろされる。青年は身体を半身にするように足を引き、その一撃を避ける。そのまま繰り出されるのは高速の上段裏回し蹴り。しかし、未練はその蹴りを事も無げに前腕で弾く。
青年が体勢を崩す。倒れる。違う。片手逆立ちから放たれるカポエイラの妙技。ベイジャ・フロー。見抜いた未練は勢い良くバックステップし、蹴りの射程から脱出。青年はそのまま地面を転がるようにして、また木陰に身を隠す。
一進一退の攻防は、一報の無線により中断されることになった。
「……こちら、椥辻。…………了解」
内容は「追っていた標的が能力の過剰使用により、死亡した」というものだった。
椥辻未練が急ぐ理由はなくなったのだ。ここを通る理由も。
「事情が変わったみたいだ。僕は戻るよ。来た道をね」
それは、「山中を引き返すのならば戦う理由がないだろう?」という意味を含んだ問い掛けだったが、青年は、
「……追いはしないが、警察に通報はさせてもらう」
と、端的に応じた。
未練は苦笑し、「ご自由に」と返す。
当然の判断だろう。
「それにしても君、何者なのかな? ちょっと、ビックリするくらいに強いじゃないか」
その質問に、青年――高瀬壮太はこう答えるのだ。
当然に、当たり前のように、ごく普通に。
そう―――。
「俺は何者でもないよ。ただの、警備員のアルバイトだ」
『一話のモブが強すぎる』 了
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