第1話 東京都新宿区



 ―――『アバドングループ』。

 ドイツに本社を置くこの複合企業体は、世界で最も大きな企業の一つであり、最もよく知られた企業であろう。

 しかし、百円ショップの商品から最新のステルス戦闘機まで、ありとあらゆるものを製造しているこのコングロマリットが、完全な市場支配による世界征服を目論んでいるとは、一般の人は知るまい。

 人体改造や非人道的殺傷兵器、果ては超能力までもを研究し、裏の世界では最も強大な勢力の一つでもある。


「―――デルタよりアルファ。目標地点に到達。対象Sを捜索する。以上オーバー


 そして、『フォートレス11イレブン』とは、『アバドン』の持つ機械化小隊である。

 ここでの“機械化”とは、「装甲車両によって戦車に追随する歩兵集団」の意味ではなく、文字通りの機械化――サイボーグ化を施された兵士集団であった。

 四肢の何れかを改造、武装化し、通常の特殊部隊を超える殺戮能力を持った十一人。それが、『フォートレス11』である。

 裏路地を行くコードネーム・デルタの耳朶に「了解」の応答が届く。

 正確には、内耳周辺に埋め込まれた通信装置が振動することにより通信を可能としているのだが、それは『フォートレス11』としては些末な改造の一つだった。


『―――アルファよりデルタ。エコーとの通信途絶。注意せよ。以上オーバー


 通信途絶?と疑問符を浮かべながら、アルファは、了解コピーと返す。


『―――通信終了アウト


 まったく、この大事な任務で何をやっているんだか。

 エコーの顔を思い浮かべつつ、そう独り言ちる。

 今回の任務は、あの機密文書――『Cファイル』に纏わるものだというのに。

 東京都、新宿区の一角。ビルの合間を縫うようにしてデルタは進む。対象S――件の少女は、この区画に逃げ込んでいるはずだ。これは追い込み漁。別方向にはチャーリー、ブラボーが待機し、逃げ道を失くしている。デルタは、――本来ならばエコーは――、少女を追い詰め、捕えればいい。楽な任務だ。

 そう思い、角を曲がった。

 瞬間だった。

 対象Sを発見した。

 けれど、今回の場合、それは重要ではなかった。

 少女の隣に青年が立っており、そのすぐ傍らには、通信途絶状態となったエコーが倒れ伏していた。

 否、それさえも今は些細なことだった。


「……?!!」


 確かな実力を持ち、幾度となく戦場を経験したデルタだからこそ理解した。

 対象の隣に立つ青年。アレは、なんだ? なんだあの、暴力という概念に服を着せたかのような存在は。

 一見すると、ただの平々凡々な若者に見える。明日になればどんな顔だったか忘れていそうな、ごくごく普通の青年に。しかし、立ち姿を一目見ただけで分かる。アレは、異常だ。殺意も悪意もない。目的も願望もない。ただ単に強い。

 ただ、それだけの―――。

 青年がこちらを見る。その煮詰めた墨汁のような黒い瞳と、目が合った。

 刹那、デルタは両腕に仕込まれたブレードを展開する。両の掌と両肘から、計四枚の刃が突き出て、纏っていたジャケットを切り裂いた。走り出す。モブ顔の若者が動き出す。

 脚から潰す……!!

 前腕から刃が飛び出す様を見れば、誰だってそちらに目を向けてしまう。だからこそ、上半身を狙うと見せ掛けて、ローキックを一発入れる。態勢を崩し、組み付き、喉を裂く。それがデルタの策だった。

 刃を纏った右腕を振るう――と思わせ、左足で下段蹴りを放つ。特殊合金で強化された足からじんとした痛みが伝わる。足裏を、合わせられた。MMAのように脛で受ける技術ではない。蹴り足に対して踵をぶつける、古武術、あるいは喧嘩の技術。

 その一瞬間の逡巡が勝負を決した。

 デルタの側頭部に炸裂したのは、飛び後ろ回し蹴り。ぐらついたところに膝蹴り。膝を付けば、ダメ押しのサッカーボールキック。意識が遠のく。アルファからの通信が遠く聞こえた。


「悪いな。あんた、強いから言うヒマなかったわ。『死んだぞ、テメェ』って」


 デルタを下した青年、高瀬壮太は、何故か申し訳なさげにそう付け加えると、先ほど知り合ったばかりの少女の背を押した。「さっさと逃げろよ」。そう言わんばかりだった。

 少女は走り出し、その足音は存在ごと都会の喧騒に吞まれていった。




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