最終話

 運転中にかかった社長からの着信は無視して、長尾からの着信にだけ答える。スピーカーに切り替えると、おつかれさまです、と久し振りの声が車内に響いた。

「おつかれさま。着いたか」

「いや、今最後の道の駅なんですけど、本社の奴から連絡が来て」

「相変わらず、耳が早いな」

 いやあ、と応えて長尾は受話器の向こうで軽く笑う。

 長尾はあそこでの仕事を終えたあと、しんがりとして次の土地へと飛び立った。俺が本部長に待ったを掛けて配置に戻るのを防いでやったのは、本社経由で知ったはずだ。

「順調に進んでるから、この件には近寄るなよ。口を滑らせたら終わるぞ」

「はい、大丈夫です。じゃあまた」

 長尾は短い挨拶を済ませ、通話を終える。終話ボタンを押して、左へウインカーを出す。

 大崎の最期は伝えていないが、巡り巡って耳に入れば長尾は口を割るだろう。あいつに、墓場まで持って行ける器はない。

「あいつも潰れるなあ、運転中に」

 呟くように告げたあと、懐かしい一角へ車を進めた。

 かつての長屋はとっくに潰されて、今は廃車や廃棄物置き場になっている。その裏が、あの丘のあった場所だ。丘が削られたのは十年以上前だが、未だなんの連絡もない状況を鑑みるに、警察は「何も出なかったことにした」のだろう。

 親父やあの人の遺体がどうなったのか施設関係者も義母も知らせなかったが、どのみちそこに俺が参ることはない。違うところに骨が納められていようと、俺の思う墓はここだ。近くのコインパーキングへ車を止め、花束をしっかりと抱えた皐子をチャイルドシートから下ろした。

「これから行くのは、お父さんがお父さんやお母さん達と一緒に住んでたところなんだ。もう家はなくなっちゃったけどね」

「おとうさんの、おとうさん?」

 花束を抱き締めて歩きながら、皐子は俺を見上げて尋ねる。

「そう。お父さんのお父さん。お父さんが子供の時に死んじゃったんだけどね」

 応えて、廃車置場脇の細道を選ぶ。裏へ向かうには、この道を行くのが早い。皐子を先に行かせて、俺は後ろに続く。かつてはこの辺が長屋の入り口だった。ここから奥へ向かうように粗末な長屋があって、路地の向かいには毎年夏になると朝顔が咲いていた。あれは、誰が植えていたのだろう。

「皐子、そこを曲がって」

 見えてきた角に指示を出すと、皐子は振り向いて俺を確かめてから右へ曲がる。言葉は少なくても意思の疎通は問題なくできるから、保育園や小学校でも大丈夫だろう。とはいえ、待機児童の問題は大きい。本部長の座に就いたら、社内託児所を作るよう働きかけるつもりだ。皐子は間に合わなくても、助かる社員は多いだろう。

「その辺だよ」

 一足先に辿り着いた皐子は足を止め、俺を待つ。礼を言って皐子から花束を受け取り、廃車置場のフェンスに立て掛けて供えた。結局何人眠っていたのかは知らないが、皆ここに眠っている気がする。鉄くさい臭いを吸い込んで一息つき、目を閉じて手を合わせた。

 親父、俺も血を引かない子供と生きていくことにした。恩返しはできないけど、俺も同じように皐子を。

 花束のフィルムが鳴らす音に、祈りを止めて目を開く。皐子が、花束に覆い被さるようにして倒れていた。ああ、しまった。

 慌てて駆け寄り、うつ伏せの体を抱き起こして膝に抱える。

「猿神」

「お前が力を使いすぎたせいだ。額に触れろ」

 内側から聞こえる声に従い、冷えた皐子の額に触れた。体の奥から生まれた熱が腕を流れて手から指を伝い、皐子へと流れていく。十秒ほど注ぎ込むと血色が戻り、やがて息を吹き返す。ゆっくりと瞼を開けた皐子に、何度目か分からない安堵の息を吐いた。まだ力の調整が難しくて、気を抜くとすぐに死んでしまう。

「ごめんね、ちょっと苦しくなっちゃったね」

 頷いて起き上がった皐子は、お気に入りのコートを見て眉を顰める。

「ああ、汚れちゃったか」

 きちんと立たせて、水色のコートにまとわりつく枯れ草のゴミを払っていく。

「相変わらず、甲斐甲斐しいことだ」

 黙ってろ、と胸の内で悪態をつき、おさげにも絡んだゴミを取ってやる。ふん、とまんざらではなさそうな声が応えた。

 猿神は日本生まれではなく、かつては海外で祀られていた神らしい。

 しかし依代だった猿のミイラが突如、何者かに奪われた。猿神は帰還を目論んで祟りを重ねたが、その結果、長い航路の果てに自分が何者かも知らない日本へと辿り着くことになってしまった。ただ、何も知らない日本人にもそれなりの畏怖を与える姿ではあったのだろう。船の持ち主だったある長者が生まれ故郷へとそれを持ち帰り、山の神として祀ったのが「猿神」誕生の瞬間だった。しかし決して善神とは呼べない姿に、周囲の反発を恐れた住民達は信仰を隠すようになっていく。「狃薗」の名は「猿」の字を潜めたものだと猿神は語った。

 祠も依代も消え去った今は晴れて自由の身となったはずだが、もう帰る気はないらしい。でも、そうでなければ困る。

「うん、きれいになったね。じゃあ、帰ろうか」

 腰を上げて差し出した手を、皐子はぎゅっと握り締める。冷え切った空気の中でも、指先はきちんと熱が巡っていた。まるで生きているみたいに。

 来た道を戻りながら、少し振り向いて花束を確認する。また来るよ、と呟いて前を向く。

「おうちに帰ったら、一緒にクリスマスツリーを飾ろうか。今日見たほど大きいのじゃないけど、ちゃんと準備してあるよ」

 おそらく初めてだろう提案に、皐子は弾かれたように顔を上げて満面の笑みで頷く。ああ、そうだ。俺はこの顔を見るために生きている。そのためなら、どんなことだってする。

「皐子、大好きだよ。皐子は、お父さんの宝物だ」

 伝えた俺に、皐子はまた嬉しそうに頬を緩めて笑顔を見せた。

「おとうさん、すき」

 初めて聞く言葉に足を止め、たまらなくなって抱き上げる。嬉しそうに笑う皐子を抱き締めて、薄く翳り始めた空を仰いだ。




                                (終)

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猿の器 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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