第五章
41.出発
「まだ、焦らなくていいと思うよー。琴音の伸びしろは、まだまだあるから」
と言うのは、担任の渡瀬先生だ。七月。季節は、夏。セミの鳴き声が徐々に街の音を覆っていく中、わたしは模試の結果を手に、渋い顔をしていた。
「焦って、時間配分をミスしちゃったんだと思います・・・・・・」
得意だと思っていた評論で、思わぬところで躓いてしまって、さっさと先に進めばいいものを、時間を浪費してしまった。その結果、得点源である「古典」「漢文」、そして「小説」と、解く時間を削られてしまい、自分でも力を出し切れなかったという感覚が残ったまま、わたしは会場をあとにしたのだった。
今回の合格率は、他分野でもケアレスミスが響き、それでもなんとかギリギリBプラス。目標はもちろん、Aプラス。ちなみにこれまでの最高記録は、Aマイナスだ。
「でも、琴音の強みは、基礎的な知識がある程度バランスよく身についていることだと思うよ。あとは、当然だけどケアレスミスの修正。そして、切り替え。これは、数をこなしていけば、おのずと身についてくることだから。あとは、自信持っていいと思うよ」
人懐こい醤油せんべいのような顔で、にこにことこちらを見やる渡瀬先生を見ていると、なんだかその通りにいきそうに思えるから不思議だ。
わたしが志望している市立大学へ入学するにあたり、まずは一月の共通テストで「国語」「日本史」「英語」の三科目を受験し、相応の得点率を稼がないといけない。
滑り止めで私立の併願も考えてはいるけれど、学費のことを考えると、どうしても本命を落としたくない。ただ、今までに二重にかかった高校の学費や、将来の学費のためとはいえ、三年生になって新しく始めたバイトのことも考えると、余裕なんてないに等しい。
加えて、もちろんりんのお世話もあるし、最近また体調を壊しがちになったおばあちゃんのことも、お父さんお母さんと一緒に注意していなくてはいけない。
正直、時間がいくらあっても足りない。あと何か月かの辛抱と思っていても、時々というか、けっこう頻繁にくじけそうになる。そんなときは、あの日のことを思い出している。
『琴にはね、不思議な力があるの』
修学旅行の夜のような、秘密の時間。こちらを向いていた理美ちゃんの表情は、今までで見た中で一番優しかった。
『琴なら、なんとかなる気がする』。一つ年上で、先に巣立った親友のあの言葉は、今でもわたしの御守りのように、心の奥の引き出しにしまってある。
心理学部への進学。そこに進学する学生の多くが目標にするのは、心理学を活かして働くことができる二大資格、臨床心理士と、公認心理師資格の取得。
特に、臨床心理士を目指す場合は、受験資格を得るためには、大学に続いて、大学院まで修了しないといけない。
こういった難しい事情が、当然だけど、家族にはあまり歓迎されていない。
(それだけじゃないもんね・・・・・・)
後々分かったことだけれど、こうした専門資格を持っていても、そもそもこの職種を取り巻く雇用状況は、とても厳しいらしい。
その理由のひとつに、 「カウンセラー」を名乗ること自体には、法的な制約はないということがある。
それはつまり、極端な場合、何の資格も持たない人や、自分で作った資格名で〇〇カウンセラーを自称したり、自己流の治療法を看板として掲げる人、あるいは短期間の通信講座で「××カウンセラー」といった名称の資格を得た人。
そういった人たちが、臨床心理士や公認心理師と同様に「カウンセラー」と名乗ることは、法律的に問題はない、ということを意味する。
もっと極端な話、希望すれば、何も学ばず、何の資格なしでも、個人的に「カウンセラー」として、開業することもできる。これも同様に、違法でも何でもない。そういう意味では、まさに玉石混交の世界なのだ。
その結果、一般の人にとって、「カウンセリング」という行為が、何をされるのか分からない、不確かなで、ときには怪しいものと受け取られてしまい、なかなか浸透しなかったり、敷居が高くなってしまう、といったことがある。
けれど、同じ「カウンセラー」でも、医療や福祉、教育や司法といった専門分野で働くためには、系統だった高度な専門知識や、経験が要求される臨床心理士や公認心理師、あるいはその両方の資格が、必須になる。
そういう意味で、この二つの資格はその他の資格と、かなり明確に区別できるし、雇用先の確保はもちろん、職業人としてのスキルにも繋がる。だからこそ、わたしはこの資格にこだわっているわけだ。
ただし、こういったことは、一般の人にはほとんど知られておらず、両方の資格は専門資格であるのに、その知名度は圧倒的に低い。
そもそも、カウンセリング(正確には、「心理療法」)という行為が、海外とは違い、日本では治療効果がかなり限定的にしか認められていない。なので、その大部分は保険適用外の、非医療行為だ。
そのため、結果的に必要性はあっても活用できるような制度が追いつかず、雇う側にとっては、専門性はあっても、専門職としては扱いづらいという、難しい存在となってしまっている。そうした背景もあって、現状、資格があっても雇ってもらえる場所が少ないのだという。
そして、待遇面での問題も大きい。臨床心理士や公認心理師としての職務を担う、心理職として正規雇用されるケースは、ほんの一握りなのだ。
男の人の場合、収入が不安定すぎる、あるいは低すぎるという理由で、周りに諭されてリタイアするケースもあるという。もちろん、心理職として第一線で活躍している男性心理職も多くいるけれど、その影で・・・・・・ということだ。
わたしの家族が一番心配しているのは、費用面というよりもそういったことだ。
あまりこういうことは言いたくないけれど、男の人ほどではないにしても、わざわざそんな危ない橋を渡らなくてもいいじゃないか。資格を取るにしても、もっと手堅いものを取ったほうがいいという、まっとうな意見だった。
これについては、今はまだ考えを保留させてもらっている。けれど、その猶予も残り少ない。明確に反対はされていないけれど、賛成もされていない。それが、現状。
ちなみに、わたしが志望している市立大学の平均偏差値は、五十六前後。
わたしの模試の平均は五十~五十三、良くて四の間を行ったり来たりしているので、先生たち曰く、「十分狙える」らしい。それにわたし自身も、まだ頑張れると思っている。体力的に、ちょっときついときはあるけれど。
「それよりも、琴音の場合、体調管理のほうが心配だよ。この後も、またバイトなんでしょ?」
「はい。今日は、夜まで」
「ご家族のこともあるし、くれぐれも無理はしないようにね。琴音の事情に合わせることができるのは、うちの強みでもあるから。頼るときは、頼ってほしいよ」
「ありがとうございます。わた先生も、特撮ばっかり観てないで、少しはリアルの出会いを求めたほうがいいですよ」
冗談交じりに軽口を叩くと、通りすがった田崎先生が吹き出した。
「琴音、三年になってからまた変わったね。なんか、またしっかりしてきた」
「そうですか?」
「うん。なんか、理美を思い出すなー。二人、仲良かったもんね」
田崎先生は、理美ちゃんの担任だった先生。同時に、理美ちゃんが一番心を許していた先生でもある。卒業式の日、わたしの次に理美ちゃんの前で涙を流したのは、普段気丈な姉御肌の、田崎先生ではないだろうか。
「琴、理美とは、あれから連絡取ってるの?」
「取ってます。新しいことばかりで、慣れるのが大変だって言ってました」
理美ちゃんとのやりとりは、お互いに忙しくて、最近はもっぱらラインだけになっている。それでも打てば響く関係は相変わらずで、例え単発的でも、やりとりはいつだって楽しい。理美ちゃんは変わらず、剣道で培った持ち前のエネルギーと、頭の良さを武器に、難関大学での生活に、果敢に挑んでいるようだ。
「あ、じゃあ、バイト行ってきますね」
行ってらっしゃいと手を振る先生たちに手を振り返し、職員室をあとにする。
午後四時前の町並みは、まだまだ忙しそうな人たちが多い。
以前はその光景に気後れしていたけれど、そういえば最近、そんな感覚を覚えなくなった。この学校に来て、二年。自分の中で何かが、変わっていっているのかもしれない。
鞄を開け、シフト表のコピーを取り出す。うん、間違いなし。今日は、五時から九時まで。夕勤のシフト。
四月に始めたばかりのバイトは、慣れないことも多いし、正社の人がやたら厳しいので、正直最初、めげそうになった。
なんで辞めなかったんだろうと自分でも不思議に思うけれど、もしかしたら、変わった自分を確かめたくて、やっと掴んだ自分を手放したくなかったのかもしれない。
この先に何があっても、自分が自分のままで、いられるように。たかがバイトでと思うけれど、後ずさりはしたくなかった。
自慢の親友が、そうであったように。
「あれ、ことっちじゃん。帰り?」
学校から駅の改札へと向かっていると、後ろからすっかり聞き慣れた声がした。
りん。 西奈 りゆ @mizukase_riyu
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