40.おやすみ

 理美ちゃんの文句は、しばらく止まらなかった。


「こわ! こわ! こわっ!! 何このラスト、反則じゃない!? ていうか、平然とこんなの勧めないでよ! 鳥肌立ったし!」


「えー。でも、わたし嘘ついてないじゃん。幽霊も、殺人鬼も出なかったでしょ?」


「うーん・・・・・・」


 これにて理美ちゃんの読了本が、また一冊増えたわけだ。海外ものは滅多に読まないと言っていたけれど、これを機にその世界に飛び込んでみてほしいとも思う。以前、理美ちゃんがわたしに本の世界を教えてくれたように。

 というのは、欲張りだろうか。


「二人ともー。そろそろ電気、消しなさいよー」


 りんの耳がぴくっと動き、理美ちゃんと顔を見合わせると、時計の針は二十三時を指すところだった。



 床に敷いた、お客さん用の布団。スタンドライトだけの明かりの中、わたしは理美ちゃんのその告白を聞いた。突然だったはずのそれはもう、どこかで聞いていたような。違う。どこかで、もうわたしは予感していた。たぶん、そうなるだろうと。


 他県へ一人、引っ越す。履修したい科目が、近くてそこにしかない。

 理美ちゃんを、止める術はない。もちろん、止めようとも思わない。まして、理美ちゃんの夢のためなら、わたしは喜んで送り出す。

 なのに。


「あーあ。やっぱり、泣いた」


「だって・・・・・・」


 からかわれるとわかっていても、止めようと思って止められるものじゃない。起き上がった理美ちゃんが、こちらにおいでおいでをするので床に降りると、まるでりんに対してやるように、ぽんぽん頭を撫でられた。


「わたし、犬じゃない・・・・・・」


「いいじゃん。可愛いんだし」


「絶対、馬鹿にしてる」


「うしし」


 悪ふざけそのものという顔で笑う、理美ちゃん。けれど、その瞳の奥は、とても優しく、そして、少しだけ物哀しい。気のせいだろうか。わたしと目が合うのを、ほんの少し迷っているように感じるのは。明かりが灯るその眼が、少しだけ潤んで見えるのは。


「食品関係に行きたいって、前に言ったよね」


 上半身を完全に起こした理美ちゃんが、言った。頷くと、掛布団に添えた自分の手を見ながら、理美ちゃんは続けた。


「わたしね、ホントは夢なんて何にもなかった。大学なんて、一応理数系って思ってたけど、ホントは学歴のために行ければどこでもいい、って思ってたくらい。そんな何個も受けられないけど、適当に受けて、適当なところに受かったら、その先はもうどうでもいいやって、そんな感じで思ってた」


 意外だった。理美ちゃんはわたしと違って、いつも何かを見据えている。視野も広くて、先を読む力もあって。たまにひやひやさせられることもあるけれど真っすぐで、迷いなんてもうないように見えていたから。


「本当言うとね、毎日がどうでも良かった。ゆかりの件もあって自分が嫌で仕方なかったし、友達なんて二度とご免だって思ってたし。先生はいい人だけど、けっきょく先生でしかないじゃん。卒業しちゃえば、ほとんど会えないし、会わない。だからわたしはこのまま、大学に行っても、どこかに勤めても、上辺だけ繕って、そこそこにやれちゃうから、そこそこにやって、なんかそれって、楽しくなさそうだなーって」


 理美ちゃんにしては珍しく、気持ちの流れるままに吐き出すような話し方だった。

少しずつ溢れたようなその流れは、けれど耳元を撫でるように穏やかに溶けていく。


「楽しかったし、楽しいんだ。琴とね、いろいろ食べに行くの。今日だってそうだし、いつもそう。いつだって、そうだった」


 その言葉を聞いて、思い出す。いつもポテト片手にだべっていたファーストフード店。バイト終わりに待ち合わせて行った、ファミレス。初めて話した、展示場の空きスペース。背伸びして入った、有名カフェ。大人の女の人とカップルばかりで、慌ててコーヒーだけ飲んで、逃げるみたいに出て行ったっけ。

 

 桜の花びらが、舞い込む屋内。今年の春、久々に二人で向き合ったテーブルでの会話を思い出した。


「理美ちゃん、進路って、この近くにするの?」

  

 本当は、「遠くに行くの?」と訊きたかった。


「さあ、どうだろね。まだ、分かんないや」


 柔らかい太陽の光が当たった、頬。

 あのときわたしは、今日聞くはずだったこの理美ちゃんの言葉を、もう知っていた。そんな気がした。ああ、今年で。今年でもう、終わりなんだって。


「でも、直接人と関わっているより、わたしは企画とか開発とか、そういうことがしたいから。ベタだけど、こんなときだけど、これなら食べれるって、そういうものを作りたいって、今は思えてる。そしてそれが、わたしの夢・・・・・って、あーあ」


 「泣くなよー」と言う理美ちゃんの声に、みっともなく濁点のついた、「だっで・・・・・・」しか、返せない。嬉しいのか、悲しいのか。分からないまま、子どもだなーわたしって、なんて、頭のどこかのほうで、苦笑いしている自分もいる。

 その自分だって今、たぶん今ある現実と、精一杯離れようとしている。わたしはまだ、子どもだ。


「もし、もしもだよ? わたしが受かったとしても、落ちたとしてもさ」


 真っすぐな目で、理美ちゃんは言った。


「琴の人生は、自分で掴まないと。そのときはわたしも、傍にいる」


 限界だった。本当の子どもみたいにうっうと嗚咽が混じってしまい、目の中が涙で熱い。鼻汁まで出てしまって、きっと今頃見るに堪えない顔だろう。今度は、頭を撫でられた。そろそろ優しくするの、やめてほしい。なんてワガママ、通るかな。


 けっきょくわたしの小さな嵐が終わった頃には、三十分も針が進んでいた。気持ちはまだ残っているのだけど、身体のほうが出し尽くした感じで、いつのまにかまともに会話できるようになった。理美ちゃんは、ずっと手を握ってくれていた。


「わたしさー、けっこう現実味あるんだと思うんだよね。琴の夢」


 今度こそ、お互いの寝床で横になっていると、理美ちゃんが不意に言った。


「夢って・・・心理のこと?」


「そう。両方、だっけ。琴は」


「できればね。でも、院まではいけるか分からないし、そもそもわたし、そんなに頭良くないから。お金もかかるし」


 大学院どころか、大学の受験でも危ういんじゃないかと、じつは今でも思っている。とはいえ実際のところは、模試の結果はたいてい中間程度で、追い込みをかければ地元の公立大学も十分狙える、という程度だった。

 そしてその大学で、臨床心理士、公認心理師、両方の資格を取るために必要なカリキュラムがそろっており、卒業後、希望者は試験を受けて、大学院に進学することもできる。


「まあ、お金はね。でも、あとは琴なら、なんとかなる気がするけど」


「どこが?」


 さっきの展開もあって、理美ちゃんとは違うんだよ?という気持ちがこもり、つい不機嫌な声色になってしまった。けれどやっぱりクールで、そしていつも通り優しい理美ちゃんは、そんなことには気づいていないふりで続けた。


「まあ、聞きなって。琴にはね、不思議な力があるの。琴と話してるとね、落ち着くんだよ。なんだかね、自分の中で暴れてたものが、だんだん大人しくなっていくの」


「それって、聞き上手ってこと?」


 それだけで済むなら、下手するとわざわざ大学院を修了して、さらに試験まで受けないといけない専門資格なんて、いらない気がする。

 嫌味じゃなくホントにそう思っていると、違う違うと、理美ちゃんがかぶりを振った。


「それもあるけど、琴は相手を傷つけない。けど、甘やかしてるわけでも、楽観的になってごまかしてるわけでもない。たまに悲観的になってるけど、琴のものの見方は人を柔らかくさせる。たぶんそれって、今までの琴の経験もだし、あとは」


 そう言って、理美ちゃんは枕元の毛玉、もとい、りんを撫ぜた。

 とはいえ、わたしにとっては半信半疑というか、むしろまったく心当たりがない。


「自覚、ないんだけど・・・・・・」


「こういうのは、変に自覚がある人のほうが信用できないよ。いいんだよ、琴はそのままで。なんか無責任なこと言っちゃうけど、わたしはそのままの琴で、夢を追っかけてほしいな。ってなんかこれ、映画化できそうなワンシーンじゃない?」


「ああ、一緒に頑張ろ、的な?」


「そうそう」


「いいね」


「いいね」


 暗闇の中だったけれど、理美ちゃんがにやりと笑ったのが分かった。だからわたしも、笑い返した。一瞬、りんがぴくんと動いたけれど、すぐにいびきが聞こえてきた。それを見ていると、こちらまで眠くなってきた。理美ちゃんも、同じらしい。


「いい夢見よう」


「そうだね」


「おやすみ、琴」


「おやすみ、理美ちゃん」


 難関の公立大学、食品衛生・生産学科。その受験を理美ちゃんが突破したのは、その数カ月後だった。


 待ち合わせ早々、今度こそ二人そろって泣いてしまった。唯一いつも通りにあくびをしていたのは、足元で地面の匂いを嗅いでいる、りんだけだった。

 

 わたしはその春、三年生になった。


 最後の一年が始まったとき、わたしは手の中に落ちてきた花びらを、まだ持て余していた。けれど、スタートの時間は、気づけばもう近い。


 わたしの一歩が、始まった。



























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る