40.おやすみ
理美ちゃんの文句は、しばらく止まらなかった。
「こわ! こわ! こわっ!! 何このラスト、反則じゃない!? ていうか、平然とこんなの勧めないでよ! 鳥肌立ったし!」
「えー。でも、わたし嘘ついてないじゃん。幽霊も、殺人鬼も出なかったでしょ?」
「うーん・・・・・・」
これにて理美ちゃんの読了本が、また一冊増えたわけだ。海外ものは滅多に読まないと言っていたけれど、これを機にその世界に飛び込んでみてほしいとも思う。以前、理美ちゃんがわたしに本の世界を教えてくれたように。
というのは、欲張りだろうか。
「二人ともー。そろそろ電気、消しなさいよー」
りんの耳がぴくっと動き、理美ちゃんと顔を見合わせると、時計の針は二十三時を指すところだった。
※
床に敷いた、お客さん用の布団。スタンドライトだけの明かりの中、わたしは理美ちゃんのその告白を聞いた。突然だったはずのそれはもう、どこかで聞いていたような。違う。どこかで、もうわたしは予感していた。たぶん、そうなるだろうと。
他県へ一人、引っ越す。履修したい科目が、近くてそこにしかない。
理美ちゃんを、止める術はない。もちろん、止めようとも思わない。まして、理美ちゃんの夢のためなら、わたしは喜んで送り出す。
なのに。
「あーあ。やっぱり、泣いた」
「だって・・・・・・」
からかわれるとわかっていても、止めようと思って止められるものじゃない。起き上がった理美ちゃんが、こちらにおいでおいでをするので床に降りると、まるでりんに対してやるように、ぽんぽん頭を撫でられた。
「わたし、犬じゃない・・・・・・」
「いいじゃん。可愛いんだし」
「絶対、馬鹿にしてる」
「うしし」
悪ふざけそのものという顔で笑う、理美ちゃん。けれど、その瞳の奥は、とても優しく、そして、少しだけ物哀しい。気のせいだろうか。わたしと目が合うのを、ほんの少し迷っているように感じるのは。明かりが灯るその眼が、少しだけ潤んで見えるのは。
「食品関係に行きたいって、前に言ったよね」
上半身を完全に起こした理美ちゃんが、言った。頷くと、掛布団に添えた自分の手を見ながら、理美ちゃんは続けた。
「わたしね、ホントは夢なんて何にもなかった。大学なんて、一応理数系って思ってたけど、ホントは学歴のために行ければどこでもいい、って思ってたくらい。そんな何個も受けられないけど、適当に受けて、適当なところに受かったら、その先はもうどうでもいいやって、そんな感じで思ってた」
意外だった。理美ちゃんはわたしと違って、いつも何かを見据えている。視野も広くて、先を読む力もあって。たまにひやひやさせられることもあるけれど真っすぐで、迷いなんてもうないように見えていたから。
「本当言うとね、毎日がどうでも良かった。ゆかりの件もあって自分が嫌で仕方なかったし、友達なんて二度とご免だって思ってたし。先生はいい人だけど、けっきょく先生でしかないじゃん。卒業しちゃえば、ほとんど会えないし、会わない。だからわたしはこのまま、大学に行っても、どこかに勤めても、上辺だけ繕って、そこそこにやれちゃうから、そこそこにやって、なんかそれって、楽しくなさそうだなーって」
理美ちゃんにしては珍しく、気持ちの流れるままに吐き出すような話し方だった。
少しずつ溢れたようなその流れは、けれど耳元を撫でるように穏やかに溶けていく。
「楽しかったし、楽しいんだ。琴とね、いろいろ食べに行くの。今日だってそうだし、いつもそう。いつだって、そうだった」
その言葉を聞いて、思い出す。いつもポテト片手にだべっていたファーストフード店。バイト終わりに待ち合わせて行った、ファミレス。初めて話した、展示場の空きスペース。背伸びして入った、有名カフェ。大人の女の人とカップルばかりで、慌ててコーヒーだけ飲んで、逃げるみたいに出て行ったっけ。
桜の花びらが、舞い込む屋内。今年の春、久々に二人で向き合ったテーブルでの会話を思い出した。
「理美ちゃん、進路って、この近くにするの?」
本当は、「遠くに行くの?」と訊きたかった。
「さあ、どうだろね。まだ、分かんないや」
柔らかい太陽の光が当たった、頬。
あのときわたしは、今日聞くはずだったこの理美ちゃんの言葉を、もう知っていた。そんな気がした。ああ、今年で。今年でもう、終わりなんだって。
「でも、直接人と関わっているより、わたしは企画とか開発とか、そういうことがしたいから。ベタだけど、こんなときだけど、これなら食べれるって、そういうものを作りたいって、今は思えてる。そしてそれが、わたしの夢・・・・・って、あーあ」
「泣くなよー」と言う理美ちゃんの声に、みっともなく濁点のついた、「だっで・・・・・・」しか、返せない。嬉しいのか、悲しいのか。分からないまま、子どもだなーわたしって、なんて、頭のどこかのほうで、苦笑いしている自分もいる。
その自分だって今、たぶん今ある現実と、精一杯離れようとしている。わたしはまだ、子どもだ。
「もし、もしもだよ? わたしが受かったとしても、落ちたとしてもさ」
真っすぐな目で、理美ちゃんは言った。
「琴の人生は、自分で掴まないと。そのときはわたしも、傍にいる」
限界だった。本当の子どもみたいにうっうと嗚咽が混じってしまい、目の中が涙で熱い。鼻汁まで出てしまって、きっと今頃見るに堪えない顔だろう。今度は、頭を撫でられた。そろそろ優しくするの、やめてほしい。なんてワガママ、通るかな。
けっきょくわたしの小さな嵐が終わった頃には、三十分も針が進んでいた。気持ちはまだ残っているのだけど、身体のほうが出し尽くした感じで、いつのまにかまともに会話できるようになった。理美ちゃんは、ずっと手を握ってくれていた。
「わたしさー、けっこう現実味あるんだと思うんだよね。琴の夢」
今度こそ、お互いの寝床で横になっていると、理美ちゃんが不意に言った。
「夢って・・・心理のこと?」
「そう。両方、だっけ。琴は」
「できればね。でも、院まではいけるか分からないし、そもそもわたし、そんなに頭良くないから。お金もかかるし」
大学院どころか、大学の受験でも危ういんじゃないかと、じつは今でも思っている。とはいえ実際のところは、模試の結果はたいてい中間程度で、追い込みをかければ地元の公立大学も十分狙える、という程度だった。
そしてその大学で、臨床心理士、公認心理師、両方の資格を取るために必要なカリキュラムがそろっており、卒業後、希望者は試験を受けて、大学院に進学することもできる。
「まあ、お金はね。でも、あとは琴なら、なんとかなる気がするけど」
「どこが?」
さっきの展開もあって、理美ちゃんとは違うんだよ?という気持ちがこもり、つい不機嫌な声色になってしまった。けれどやっぱりクールで、そしていつも通り優しい理美ちゃんは、そんなことには気づいていないふりで続けた。
「まあ、聞きなって。琴にはね、不思議な力があるの。琴と話してるとね、落ち着くんだよ。なんだかね、自分の中で暴れてたものが、だんだん大人しくなっていくの」
「それって、聞き上手ってこと?」
それだけで済むなら、下手するとわざわざ大学院を修了して、さらに試験まで受けないといけない専門資格なんて、いらない気がする。
嫌味じゃなくホントにそう思っていると、違う違うと、理美ちゃんがかぶりを振った。
「それもあるけど、琴は相手を傷つけない。けど、甘やかしてるわけでも、楽観的になってごまかしてるわけでもない。たまに悲観的になってるけど、琴のものの見方は人を柔らかくさせる。たぶんそれって、今までの琴の経験もだし、あとは」
そう言って、理美ちゃんは枕元の毛玉、もとい、りんを撫ぜた。
とはいえ、わたしにとっては半信半疑というか、むしろまったく心当たりがない。
「自覚、ないんだけど・・・・・・」
「こういうのは、変に自覚がある人のほうが信用できないよ。いいんだよ、琴はそのままで。なんか無責任なこと言っちゃうけど、わたしはそのままの琴で、夢を追っかけてほしいな。ってなんかこれ、映画化できそうなワンシーンじゃない?」
「ああ、一緒に頑張ろ、的な?」
「そうそう」
「いいね」
「いいね」
暗闇の中だったけれど、理美ちゃんがにやりと笑ったのが分かった。だからわたしも、笑い返した。一瞬、りんがぴくんと動いたけれど、すぐにいびきが聞こえてきた。それを見ていると、こちらまで眠くなってきた。理美ちゃんも、同じらしい。
「いい夢見よう」
「そうだね」
「おやすみ、琴」
「おやすみ、理美ちゃん」
難関の公立大学、食品衛生・生産学科。その受験を理美ちゃんが突破したのは、その数カ月後だった。
待ち合わせ早々、今度こそ二人そろって泣いてしまった。唯一いつも通りにあくびをしていたのは、足元で地面の匂いを嗅いでいる、りんだけだった。
わたしはその春、三年生になった。
最後の一年が始まったとき、わたしは手の中に落ちてきた花びらを、まだ持て余していた。けれど、スタートの時間は、気づけばもう近い。
わたしの一歩が、始まった。
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