39.お泊り

「いやー。ここまで歓迎されると、逆になんか申し訳ないかも」


 理美ちゃんにとっては、今日はわたしの家への、急な外泊になった。お母さんがくれたお金で(理美ちゃんは固辞したけれど、お母さんが譲らなかった)、ドラッグストアでお泊りセットを揃えた帰り道、理美ちゃんは照れたようにそう言った。

 

 当然のように、足元にはりんがいる。理美ちゃんがドラッグストアに消えた後は、後追いして店内に入ろうとするわ、吠えるわで大変だった。正直こちらこそ、いろいろ申し訳ない。

 たかがドラッグストアでこれなのだから、今夜のお泊りの先が思いやられる。


「ていうか、友達の家に泊まるの、初めてかも」


「そうなの? 子どもの頃とかは?」


「ぜーんぜん。本読んだり、剣道ばっかりやってた気がするなぁ。あんまり人づきあいに、興味なかったんだよね。それなりに浮いてたけど、まあいいかって思ってた。最初はね」


 レジ袋が理美ちゃんの膝にあたり、かさかさと音を立てる。理美ちゃんを振り返るりんの目には、明らかにわたしは映っていない。まあ、いいけど。今日くらい。


「琴は? 小さい頃、どうだったの?」


「わたし? うーん。フツウだったよ。何かできるっていうわけでもないし。あ、でも中三のときは楽しかったなー。塾でたくさん、友達ができて」


「なんか想像つく」


「かなぁ? そうそう。一人、変わった子がいてさ。理美ちゃんほどじゃないけど、勉強もスポーツもできる子がいてね」


 吉川よしかわさん、だっけ。長い黒髪をいつも後ろに束ねた、りんとした首筋を自転車で追いかけたことを、不意に思い出した。たまに笑う顔が、すごく可愛かったことも。


「一回、夜にその子のお母さんに送ってもらうことになったの。だから、塾のビルの前で、二人で待っててさ。そのときにね、一回だけ言われたの。『わたし、新藤さんみたいになりたかったな』って」


 面白い子だよねと隣の理美ちゃんを見ると、なぜか可笑しそうに、くっくと笑っている。


「え、何? これ、笑うとこ?」


「いやー。いいよ、琴のそういうところ。うん、最高」


「意味わかんない」


 一人でにやにや、納得している。なんだかからかわれたような気がして「感じわるー」と頬を膨らませてみても、「ごめんごめん」と言うわりには、理美ちゃんのにやけ顔は全然変わらなかった。理美ちゃんは、たまにこういう意地悪をする。たまに先生にすごくきわどいブラックジョークを飛ばしたりもするので、けっこう好き好んでやっているんじゃないかと思うこともある。玉に瑕というか。


「あ、いい匂い。なんだろこれ。唐揚げか何か?」


「当たり。お母さん、張り切ってるみたい」


 じつは、お母さんの実家は天ぷらメインの定食屋さんだ。ランチには唐揚げ定食も出していて、小さい店だけど、地元ではけっこう評判らしい。わたしもおじいちゃんが作ってくれたものを昔食べたけど、かりかりで肉厚、濃厚。めちゃくちゃ美味しかった。おかげで、ご飯のおかわりが止まらなかった。

 理美ちゃんが剣道をやっていることはお母さんも知っているので、インドア派のわたしよりも食べさせ甲斐があると、張り切っているのだろう。


「いいねー、わたし、めっちゃ好き。あー、お腹減るなぁ」


 匂いに食慾を刺激されたのは、理美ちゃんだけではない。リードを引っ張るりんも、心なしか目を輝かせている。


「ん? りんちゃんも、唐揚げ食べるの?」


「あー。それはねぇ・・・・・・」


 もちろん食べさせないのだけれど、りんには前科がある。といっても、わたしの不注意が原因だ。ぽろっと落としてしまった先に、たまたまりんがいた。慌てて口を開けさせたけど、手遅れ。以来りんは、唐揚げの日は有頂天になってしまうようになった。


「大変じゃん。どうすんの?」


「いつものご飯と、ささみをただ茹でて冷やしたやつで、定食にしてごまかしてる」


「あー、ナイスアイデアかも」


 そんな話をしていると、明かりの漏れるわたしの家にたどり着いた。近所の野良猫が玄関先にいたようだけれど、りんの姿を見るや、あっという間に暗闇の奥に消えていった。ちなみに、相変わらず理美ちゃんに夢中で、猫そのものにりんは気づいていない。


「りーん。足、拭くよー」


 玄関先でもなお、理美ちゃんにまとわりつくりんに向かって、わたしは呆れながら声をかけた。



「お風呂、いただきました」


「はーい。お疲れー」


 新藤家をあげての理美ちゃん歓迎会は、思っていたよりも長引いて、理美ちゃんがお風呂を終えたのは、もう二十一時に近い時間だった。


「あー、あれは反則だわ。美味しすぎるもん。明日走るの、追加しよ」


 お母さんの唐揚げのことだ。わたしの手のひらサイズはあるのに、理美ちゃんはご飯のおかわりに付け合わせも含めて八個も完食した。案の定、お父さんは目を丸くし、おばあちゃんは嬉しそうに感心し、何よりお母さんを過去一に喜ばせた。ささみ定食を食べ終えたりんは終始、みんなの足元を離れなかった。いつもと違う笑顔の絶えない、いい夕ご飯だった。


「りんちゃん、ちょっと疲れてきたかな?」


 一応顔は理美ちゃんのほうを向いているけれど、りんはわたしのベッドの下に置いてあるクッションで、うつらうつらしている。首がもう座ってなくて、時折かくんとなって慌てて持ち直しているけれど、寝入るのももうすぐだろう。


「可愛いね。琴が、可愛がるわけだ」


「もともと、犬は好きだしね。まあ、ダックスが来るとは、思ってなかったけど」


 そう。りんはもともと、わたしのためにお母さんたちが派遣した、レスキュー犬だ。いきなり現れた小さな命にただただ茫然としたときのことを、久しぶりに思い出した。「りん」と名付けた、その瞬間のことも。


「仏具から持ってくるところがまた、琴らしいけど、いい名前つけてもらったね。りんちゃんは」


 あまり聞くような話ではないので適当にごまかしてもいいのだけれど、理美ちゃんには「りん」の名の由来を伝えてある。「そっかー。琴を助けに来たもんねー」というのが、そのときの理美ちゃんの反応だった。


「あ、本棚、増えてない? 見ていい?」


 理美ちゃんが言い、返事を待たずに面白そうに本棚に近づいていく。本好きな理美ちゃんは、本屋さんでも猪突猛進で、下手をすると一時間単位でその場から動かないほどの本好きだ。前にこの部屋で、太宰治の本に出てきた、「カルチベート」という言葉について、理美ちゃんから意見をもらったことも、懐かしい思い出だ。


「お、泉鏡花。『外科室』、わたしめっちゃ好きなんだよねー」


「えー。わたし、怖いだけだったなー」


「あれはね、耽美っていうんだよ」


「そうなのかなぁ・・・・・・」


「あ、海外系もあるんだ。最近、面白いのあった?」


「うーん。ワイルズっていう人の、『フローリングのお手入れ法』かなぁ」


「何それ。お掃除小説?」


「全然。あ、いや。そうでもないか」


 一気に読んでしまったので細かいところは覚えていないけれど、思いつく範囲でのあらすじを、理美ちゃんに説明した。


 主人公は完璧主義の友人に、七日の間、自宅である高級住宅の留守番をするよう、頼まれる。室内の豪華な設備は、ほとんど自由に使ってよく、謝礼も弾む。ただし、注意点がふたつ。二匹の飼い猫をソファに上げないこと、床を汚さないこと。

 主人公は二つ返事でその頼みを引き受けるのだけど、そこから悪夢の七日間が始まって―――、といった内容だ。


「ということは、ホラーなの?」


「ホラーじゃないね。幽霊も、殺人鬼も出ないし。けど、精神的にくるかな。じわじわ」


「・・・・・・それって『外科室』より、十分怖い気がするんだけど?」


「そうかな。読む?」


 大きなピアノの左右を二匹の猫が囲んでいる表紙を眺めながら、「じゃぁ・・・・・・」と、理美ちゃんはページをめくった。


 ああ、スイッチが入っちゃったな。わたしとしたことが、迂闊だった。ああなると、理美ちゃんはスイッチが入る。物語の世界へ、イン!だ。

 これじゃあ何のために泊まりに来てるのか分からないけれど、理美ちゃんは速読が得意なので(だからこその読書量なのだと思う)、じゃあその間に、課題でも仕上げてしまおう。


 背中で静かに、ページをめくる音がする。りんはいつの間にか眠り込んでいて、気持ちよさそうに丸くなっている。いまだに慣れない漢文の読解に苦戦しながら、それでもわたしは微笑んでしまう。


 わたし、今、めっちゃ幸せかも。

 

 去年までのわたしには、絶対に想像できなかったくらいに。


※登場文献

・「フローリングのお手入れ法」ウィル・ワイルズ 東京創元社.






 


 
















 


 

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