38.未来
帰り道を、理美ちゃんの言葉を反芻しながら歩いていた。
どこかの家から、テレビの音と、子どもの大きな声が聞こえる。
「わたしにそっくりだった」
理美ちゃんはそれ以上、笑って答えなかったけど、言いたいことはなんとなく分っていたような気がする。
あの頃わたしは、笑うことができなかった。周りを警戒して、予防線を張って、大人しくしたけれど、心の中はいつもピアノ線を張り巡らせたように、ぴんと張りつめていた。わたしは表から隠れるというかたちで、理美ちゃんはおそらく、凛とした、隙のない武装というかたちで、世界に対し、対峙していたのだと思う。
もう、傷つくことのないように。だって傷ついても、投げかけられるのは応援でも、優しさでもない。わたしたちはたぶん、そういう現実を知ってしまっている。
「ね。理美ちゃんは、将来のこととか考えてる?」
話題を振ったのは、昔のわたしを振り切りたかったからかもしれない。今も完全にじゃない。けれどわたしは、わたしたちは、前に進んでいるはず。それを確かめたくて、確かにしておきたくて、わたしはそんな問いを投げかけたのかもしれない。
「んー。食品の開発、かなぁ」
理美ちゃんの蹴った缶は綺麗に左斜めに飛んで、缶のゴミ箱の横で止まった。将来の夢。と呼ぶには、いつのまにか近くなってしまった、決めなければならない未来についての話。
「あー。理美ちゃん、理系だもんね。どっか行きたいところあるの?」
「今のところは、しぼってはない。でもまあ、ひとつは人を楽しませてみたいっていうのは、あるかな」
「っていうと?」
「んー。味がいいっていうのは、もちろんなんだけど。琴はさ、どんなときに何を食べたいとかって、ある?」
「うーん。どうだろ・・・・・・」
「嬉しいとか、悲しいときとか」
「あー、あるかも。だいたい決まってるかも」
部屋で開ける生クリームチョコと、おばあちゃんの部屋で開けるあられのことを思い出しながら言うと、「そういうのなんだよ」と、理美ちゃんは言った。
「当たり前だけどさ。誰でもが、誰かとか、何かに支えてもらえるわけじゃないんだよね。世の中でありふれているものが、どうしたって届かないこともある。だからわたしは、できるだけ近くに、そういう力になるものを作りたいって思ったわけ。ほら、食べるって、力そのものじゃん」
「なるほどね」
力強くて繊細な、理美ちゃんらしいと思っていると、わたしにばっかり話させないでよと、肩を叩かれた。
「ちょ、痛いって」
「で、琴はないの? そういう話」
「あるも何も・・・・・・」
じつは、ないこともなかった。先週、本屋で立ち読みした、職業図鑑のページを思い出す。それを見る限り、前途はあまりにも多難そうだった。
「・・・・・・笑わない?」
「笑わないって言って、笑うやつもいないと思うけど」
「意地悪! もう言わない!」
「うそうそ、ごめんごめん! 絶対笑わない、ていうか、超真剣!」
のそのそと前を歩くりんを眺めながら、わざと大きなため息をつく。半分は理美ちゃんへの仕返しだけれど、もう半分はそうしないと言えそうになかったからだ。
信号が、赤になった。全員が足を止めたタイミングで、わたしは思い切って言った。
「・・・・・・しんりし」
「琴が? いいじゃん! 臨床? 公認?」
「両方だけど、よく知ってるね?」
「そりゃ、利用者だったんだもん。あと前は、わたしも興味あったから」
臨床心理士と、公認心理師。前者は文科省の関連組織で得られる民間資格ではあるけれど、大学院を修了して初めて受験資格が得られる難関資格で、少し前までは心理職として現場に出るには、必須の資格だった。
そして後者は精神保健福祉を除いた、純粋な心理学系統の範囲では初めてできた国家資格だ。資格取得に必要なカリキュラムが置かれた大学を卒業後、特定の施設で二年間の実務経験を積むことで受験資格が得られる。
臨床心理士の試験が心理検査や治療に重きを置いているのに対し、公認心理師は制度や、他の支援職との連携に必要な知識に比重が置かれているといった違いはあるけれど、どちらが上位といった区別はない。
ただ、現在は診療報酬算定の対象となるのは、臨床心理士ではなく、公認心理師によって行われた業務に統一されていて、ニーズとしては制度的にも、公認心理師のほうが高まってきているとされる。
なので、余裕がある人はダブルホルダーと言って、両方の資格を持って現場に臨むという場合もある。伝統的な心理支援の資格は、八十年代からの歴史がある臨床心理士だけれど、数年前に第一回目の試験が行われた公認心理師も、国家資格として需要が高まっている。さらにもっと言えば、そこに精神保健福祉士の資格も持って、トリプルホルダーとして現場に出る人もいるらしい。
「ていうか、理美ちゃんはどうしてそっちに行かなかったの? 理系なんでしょ?」
この場合の「理系」には、ふたつの意味がある。一つは、理美ちゃん自身が「理系」であること。もうひとつは、心理士・心理師という職業が、意外に「理系」であるからだ。
「んー。研究とかは、面白そうだと思ったよ。統計とかは難しそうだけど、ぜんぜん分かんないってわけでもなさそうだし」
「だろうね・・・・・・」
よく言われていることだそうだけど、心理の仕事を文系と勘違いして苦労する学生は多いという。もちろんまだわたしには分からないのだけど、今理美ちゃんが言ったような「統計」学、ようはバリバリの数学なわけなのだけど、そうしたものにも明るくないといけないのだという。
なぜなら、研究も心理士・師の仕事であり、義務だから。特に臨床心理士は更新制で、五年ごとに資格更新の審査があり、所定の要件を満たしていないと、資格を失ってしまう。その際に研究論文も審査の対象になることがあり、その研究論文で厳密なデータを取り、検証するために、統計学のような数学的知識が必須になるというわけだ。
「まあ、あとは院だね。ちょっとそこまでは、考えられないかな」
「だよねぇ・・・・・・」
別に両方の資格を持っていないといけない、というわけではないのだけれど、現場に出ているのは両方の資格を持った、ダブルホルダーの人も多いらしい。実際にその仕事に就きたかったら、両方を持っていたほうが無難、というのは、この前めくった職業ガイドや、現役の心理職の人のブログにも書いてあった。
「それに、カウンセリングの仕事ができるところなんて、ほとんどないんでしょ。だからわたしは、わたしの場合はだよ? なんか想像と、全然違うなと思ってさ」
「だよねぇ・・・・・・」
理美ちゃんの言うことはわたしも思ったことで、心理学の仕事イコール、カウンセリングルームでのカウンセリングと思っていたわたしには、それがちょっと意外だった。実際には、そんな「閉じこもった」タイプの心理職もいないし、以前はそうした風潮もあったけれど、そのようなあり方だと、周囲と連携が取れず、業務に支障をきたす。
現在心理職に求められているのは連携力で、さらには、基本的には保険診療の対象ともならない一対一のカウンセリングを行う場面はむしろ少なく、診療報酬のつく心理検査や、グループ活動の進行役などといった、治療の補助的な部分を担うことが多い。どうしてもカウンセリングにこだわりたければ、開業するのが一番手っ取り早くはある。それで生き残っていけるかどうかは、まったく別の話として。
「ま、たくさん悩みたまえよ。先輩からの、アドバイス」
「もう、ひとごとだと思って」
「いや、そんなことは思ってない。琴が目指すなら」
そう言って、理美ちゃんはわたしの目をじっと見た。
「応援するよ。なんていうか、何があっても」
信号が青になり、りんに手を引かれたわたしは、理美ちゃんに返事するタイミングを失った。相変わらず、帰り道は元気だ。身体全体でリードを引っ張る力が、ぐいぐいと強い。いつの間にかずいぶん体つきもしっかりして、ぶんぶん振り回すしっぽも力強い。
「やっぱり犬って、散歩好きだよねー」という理美ちゃんの間違いを訂正せず、三人で家路を行った。その日理美ちゃんは、たぶん理美ちゃんのことが前から気になっていたうちのお母さんの勧めで、初めてわたしの家に泊まることになった。
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