37.brutally honest.

 理美ちゃんからの返信は、8日が過ぎた今になっても返ってきていない。それがどういうことか。考えるまでもない。


「おバカぁ・・・・・・」


 もとはといえばわたしのせいなのだけれど、恨みがましくもなる。とどめをさした本人はといえば、もうすぐ散歩から解放されるのを分かっているので、足取りが軽い。信号に引っ掛かってリードを引くと、不満そうな顔をして振り返った。

 立ち止まって、いや、立ちすくんでいるのは、わたしだ。取返しがつかないことだと分かっている。それでもけっきょく画面を何度も見てしまって、あの日送った言葉を頭の中で、地面に刺した風車のようにくるくる回していた。


『わたしたちの関係を勝手に決めないで。理美ちゃんだけがそれを決めるのなんて、間違ってる』


『それが、理美ちゃんの望んでいることですか?』


 他に言い方があった気もするけれど、本音だった。今のわたしたちの関係を、勝手に過去にあてはめないでほしい。たとえそれが、理美ちゃんの辛い記憶に重なるものだとしても、上書きできる可能性を最初から否定しないでほしい。

 背を向けるなんて、理美ちゃんらしくない。


 そこまで考えて、自分が抱えている矛盾にいつも気づく。過去を清算できていないのは、わたしのほうだからだ。

 先週訪ねてきた、叔母さんの言葉を思い出す。


「そんな弱くてどうするの。これからはもう、逃げられないんだからね」


 普段は遠く離れた県にいるけれど、出張の帰りにわたしの家に寄ったという叔母さんは、パリッとしたスーツを着こなして、胸を張っているように見てた。

 手土産の袋をもらったお母さんは、困ったように笑っていた。「ちょっと、甘やかしすぎたんじゃない」と言われて、その表情は曖昧になった。


「とにかく、これからはもっとしっかりしなさいね」


 何を言えばいいのか分からないまま小さく返事をしたわたしに、叔母さんは軽くため息をついた。


 劣等感。何に秀でているわけでもないし、個性的な何かがあるわけでもない。下手をすれば、簡単に悪意の的にされてしまう自分。そんなところがつけこまれるんだよと言われても、今のわたしはこれでも進んでるんですとしか、言えない。


 でも、周りから見ればその歩みは、遅すぎるのかもしれない。誰もがもうとっくに通過したチェックポイントを、ずっと遅れて目指しているのがわたしなのかもしれない。なら、それは。

 いつまで許されるのだろう。守られた環境にいることが。限られた人相手にしか、本心から笑えない弱さが。自分で何も決められない、この幼さが。

 

「そんなこと、琴に言われたくない」


 理美ちゃんがそんなことを言うはずはないのだけれど、そう言われてしまったら、わたしには返す言葉がない。


 そんなことを考えていたら、いきなりリードが後ろにぴんと張って、腕から後ろによろけそうになった。「行かない」の合図だ。小型犬のりんとはいえ、進みたくないからと本気で地面に踏ん張ると、けっこう力がある。


 「何、りん?」


 トイレかなと思って下を見ると、りんは後ろを見やって、だんだんと大きくしっぽを振りだした。ふと見上げると、陽の光を背負って、ずっと待っていた声がした。


「お疲れ。琴」


 ひらひらと振る、懐かしい手のひら。


「・・・・・・お疲れ」


 久しぶりに会う、理美ちゃんだった。



「琴のせいで、前髪切りすぎちゃったよ」と、まるで照れ隠しのように理美ちゃんが笑った。「なにそれ」とつられて笑うと、理美ちゃんはこちらにやってきて、かがんでりんの頭を撫で始めた。可愛い女の子に優しくされて、りんは一気にご機嫌だ。

 顔が弛緩しまくっている。ベロは出しっぱなし、しっぽは振りっぱなし。

 

「覚えててくれてるのかな?」


「あ、りん?」


「そそ。頭いいね、この子」


 ダックスフント特有の垂れた両耳を、つまんでパタパタされているけれど、りんのしっぽの動きはまったく衰えない。早すぎて、地面から砂埃が舞っている。あれ。今、しっぽのところにアリがいたような。毛に入ってないよね?

 帰ったら徹底的にブラッシングだなと思っていると、理美ちゃんが口を開いた。


「ライン、見た」


「あ、うん・・・・・・」


 「見た」に続く言葉は、どちら側に転がっていくのか。

立ち上がった理美ちゃんは、まっすぐわたしの目を見て言った。


「琴のいう通りだよ。ごめんね」


「理美ちゃん・・・・・・」


 あれは本来、わたしが言えるような言葉じゃないはずなのに。そんなことは理美ちゃんだって気づいているだろうに、正面から受け止めてもらえた。

 温度のある懐かしい感覚が、じんわりと心に広がっていく。

 少し笑った理美ちゃんが、続けて言う。


「わたし、考えたのよ」


「何を?」


「琴のライン。それが望んでいることなの、っていうやつ」


「ああ」


 なんだか、見すぎたドラマのようなことを書いてしまったと思って、本来なら未送信になったはずのセリフだ。それを送り出した本人は、理美ちゃんのスニーカーに鼻柱を押し付けて、さあ一緒に行こうとばかりに、靴底を持ち上げようと必死だ。


「気が抜けるなー」


「抜けるね」


 二人でりんを見ていると、「こういうとき、話したくなっちゃうんだよ」と、理美ちゃんが言った。理美ちゃんは、りんの鼻の先をつつき始めた。「湿ってるね」というので、「元気なんだよ」と返す。鼻の湿り気は、健康のバロメーターだ。


「ここに移る前にね、琴と同じこと言われたの。お世話になった人に。あ、田崎センセにもか。似たようなこと」


「同じことって。望んでるのっていうこと?」


 答える代わりに、理美ちゃんがわたしの背後を指さす。自販機と、木造の店舗跡に添え置かれたままのベンチ。

 

「おごるよ」と、理美ちゃんが笑った。

「じゃあ、おごられる」。わたしも笑った。


 百円玉をいくつか飲み込んだ自販機が落としたジュースと水を、二人と一匹で座って飲んだ。りんははしゃぎつかれたのか、座ったまま半目を閉じている。時々、首がかくんと落ちそうになっている。


「あら、眠くなったかな」


「はしゃいだからね。可愛いお姉ちゃんに、また会えて」


「可愛いやつめ」


 理美ちゃんがりんの頭のてっぺんをつんつんするも、りんはひとつあくびをするだけで、あんまり反応がない。そのうち座ったまま目を閉じてしまって、お座りはしているのだけれど、顔は完全に眠っている。器用だ。

 理美ちゃんが「国会にこんな人いそう」なんて言うものだから、笑ってしまった。


「ねえ、琴。『価値の羅針盤』って、知ってる?」


「価値の羅針盤? 知らない」


 初めて聞く言葉に首をかしげていると、理美ちゃんが「まあ、そうだよね」と、脚を組んだ。


 「わたしが前の学校でね。退学するまで、しばらく会議室登校っていうのかな。空き教室みたいなところで、出席日数だけ稼いでたの。とりあえず、通学実績だけは作れるようにっていう」


 ああ、それなら覚えがある。わたしも、同じようなことをしていたから。


「それでね。悪いんだけど、時間が余るわけ。で、わたし、相談室に行ってみたの。スクールカウンセラーっていうやつ」


「へえ。うちにもいるよね」


「いるいる。わたしにはあの人、あんまり合わなかったけど」


 年配で小太りの、優しそうな女性の先生を思い出して、確かになんとなく理美ちゃんとは合わないような気がした。


「『価値の羅針盤』の話は、だから中学校のときにね、そのセンセに言われたの。『未来にあなたは何をしていたい?』『自分の中で大事なものは何?』、それを手掛かりに生き抜こうって。まあ、そういう方法があるんだって。カウンセリングに」


「手がかり・・・・・・」


「それが、『羅針盤』っていうことらしいよ。自分が大事にしたい価値は、譲らなくていいって」


 そう言って、理美ちゃんはスマホを操作し始めた。

少し操作して、「ほら」と画面を差しだす。


「ぶるたりぃ・・・・・・」


「brutally honest。その先生は、残酷なまでに正直に、って訳してた。そのくらい正直な気持ちで、自分の大事にしたい『価値』に向き合いなさいって」


「すごいこと言うね」


「だよね。でも、わたしには響いたんだよね。なんていうかさ。覚えてる? わたしが昔、琴に言ったこと」


 理美ちゃんが言いたいことは、不思議とわたしにもすぐ伝わった。あの時のことだ。まだ出会って間もない頃に、二人で行った、マック。あの時、わたしは理美ちゃんに訊いた。何でわたしなんかに近づいてきてくれたのって。


「私にそっくりだった」


 それが、その時の理美ちゃんの答えだった。








 







 


 





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りん。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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