36.ミス

「わたしのせい、なのかな」


 窓から差し込む日向に寝そべって、りんは機嫌がいいらしい。動物を飼ったことがある人にはたぶん分かると思うけれど、動物にも表情がある。身体は寝そべり首だけ上げているりんは、目を細めて、口元は笑っているように、くにゃっとなっている。


 「りんはいいよねー。何にも悩みなんかないでしょ」


 さっき、牛レバーミンチだか、とにかく高い缶詰をもらっていた。おばあちゃんは自分の回復祝いに出かけたはずなのに、りんが一番得をしたように思えてならない。

 ちなみにりんの散歩とおばあちゃんの警護がてら、わたしも付いていった。行き先はいつものスーパーで、わたしは外のベンチでりんと待っていた。久しぶりに姿を見せたおばあちゃんは、知り合いっぽいおばあちゃんたちに囲まれて、しばらく戻ってこなかった。人気者だ。


 人気者といえば、りんも引けをとらない。座っているだけなのに、通りすがりの人から何度も「可愛い」「ねー」とか、たまになでてもらってご機嫌だった。

 一歳を超えたとはいえ、まだまだベビーフェイスのりん。控えめに言っても、確かに可愛い。主にわたしが毎日ブラッシングして、週に一回はシャンプーをしているので垂れた耳も首元の毛もふわふわで、しっぽの毛もほさほさと風になびいている。


 道端を行く人を見ていると、平和だって思う。余裕がない人だってたくさんいるんだろうけど、わたしの目の前に広がる木曜日の昼間のこの風景には、不穏なところは何も感じられない。救急車も、クラクションの音も鳴らない。平和な町。

 

 おばあちゃんの部屋から、おりんの音が響いた。最近ようやく、いつも通りの音が聞こえるようになった。

 自分ひとりで出かけることができるようになるまで、おばあちゃんの鳴らすおりんの音は、変わってしまった。いつも澄んだ音が間を置いて、三回聞こえてきていたのに、足早に高い音が聞こえてきたり、物と物をぶつけたような鈍い響きが届くこともあった。

 おりんという仏具は、「鳴らす人の気持ち次第で、音が変わる」と昔おばあちゃんから聞いたことがある。純粋に体調が思わしくないというのもあるのだろうけれど、あの頃おばあちゃんの心は、わたしたち家族にも分からない、重く苦しい場所にいたのだと思う。


 ひとまず、我が家に平和は戻った。りんはと言えば、一歳の健診も問題なくパスして、他に病院にかかったことといえば、見落としていた小指の爪が巻き爪になってしまい、病院で五百円払って切ってもらったことくらいだ。「こういうのは、自分で噛んじゃうんですけどね。忘れちゃったんですかねー」と、獣医の崎田先生は笑っていた。ちなみに、爪切りもわたしの役目なので、毛の間に隠れた小指の爪に気づかなかったのもわたしの注意不足だ。


(さて、どうしようか)


 赤坂が、この平和な世界に乱入してくる可能性。それをちょっとだけ、考えてみた。そして、理美ちゃんが抱え込んでいた秘密のことも。

 話は、あの日の校長室にさかのぼる。


「琴、ごめん」


 先生たちは仕事に戻り、わたしたちはなんとなく、施錠された校長室の横にある空き教室に入り込んで、何をするでもなく座っていた。別に重苦しいとかそういう雰囲気はまったくなかったけれど、急にぺこんと頭を下げた理美ちゃんは、なんだかいつもより小さく見えた。


「何が? 理美ちゃんが悪いわけじゃないじゃん。悪いのは、赤坂だし」


「それでも。中途半端なことして、迷惑かけたのはわたしだから」


 ああ。やっぱり、そう思ってたか。


「いや、確かに驚いたけど。わたしは理美ちゃん、格好いいなと思ったよ。わたし全然、女子でもああいうの言い返せないし」


 思えば、前の学校で冴島たちに付け込まれたのも、そういうところだろう。何をしてもいい存在。あいつらには、わたしはそう映ったのだろう。

 だからますます、わたしは自分のことが嫌いになった。そんな隙を与えてしまう自分を責めた。そうしたら、関係のない人のことまでどんどん怖くなっていった。


 「何で琴が悪いの。悪いのは、そいつらじゃん」


 あの時そう言い切った理美ちゃんが、今度は自分を責めているのが分かる。わたしのために、自分がしたことで。それが招いた、結果のことで。

 なぜだろう。なぜわたしたちは、二度傷つかないといけないんだろう。

 言葉が浮かばないまま考えていると、「今回だけじゃないんだ」と、うつむいたまま理美ちゃんが言った。


「友田さんのときもそうだったし、前の学校でもそうだった。わたしみたいな優等生に同情されたくないって、助けようとした子に言われてさ。けっきょくその子もいつの間にか相手側に入っちゃって、わたしがウザいっていう話になって」


 偽善者って、言われたんだ。そう、理美ちゃんは言った。


「正義ごっこが通用するのは、小学校低学年までだっていうのに、やっと気づいた。そんで、そのときにはもう遅かったってわけ。曲がったことが嫌いなんてキャラは、周りから見たら曲がって見えるし、空気乱すだけの厄介者なんだって、そのとき分かった。だから自分からは、関わらないことに決めたんだ」


「ごっこなんかじゃ、ないでしょ・・・・・・?」


初めて聞く話だった。そして、こんな表情で語る理美ちゃんも、初めてだった。

ようやく絞りだした言葉に、理美ちゃんは少し笑って首を振った。


「どうだろね。けっきょくわたしって、その子の言ってたように、自分のために人のために動いてみせてるだけなのかもしれないし。だから、ゆかりのときも、肝心なときにわたしは逃げ出したし、琴にまで迷惑かけちゃった」


「そんなこと・・・・・・」


「だからさ」


 わたしの言葉を遮るように、理美ちゃんは言った。


「わたし、やっぱり一人がいいみたい。近づいちゃって、ごめん」


 立ち上がり、理美ちゃんが部屋を出ていこうとする。「待ってよ!」と叫んだ声は、わたしのものだったのに、自分のものじゃないみたいだった。


「勝手に決めないでよ。理美ちゃんといるかどうか、決めるのはわたしだよ? 勝手に、勝手に・・・・・・」


 全部自分のせいにしないでよ。それしか言えなくて、わたしは唇を噛んだ。

 理美ちゃんは一瞬立ち止まり、「ごめん」とだけ言って、振り返らずに部屋を出ていった。


 そして、今。スマホの画面を開いたり閉じたりで、もう何十分も経っている。その間りんは缶詰を食べ、トイレを失敗し、反省したかと思えば二階に連れていけとねだり、今もこうしてわたしの部屋でくつろいでいる。


「あー。もうヤダ・・・・・・」


 あきらめて、スマホを放り出す。途中まで打って先が続かないラインの文面が、天井の蛍光灯の光を受けている。


『元気? わたしは元気です』


 何も意識することなんてないのに、なんてことない言葉が急にたどたどしくなって、いつもはすらすら続く文章が、たった二言で止まってしまった。あて先は、もちろん理美ちゃんだ。


 お互いが二年と三年生になって、もともと会う機会は減ってはいた。

けれどラインだけは、少しは減ったかもしれないけれど、二日置きくらいにはやりとりがあった。面談があった、あの日からちょうど十日目。


 理美ちゃんから、連絡はない。

 正直、学校に来ているのかも分からない。田崎先生に訊いてもいいけれど、なんとなくできないでいる。理美ちゃんのことだから、たぶん大丈夫だと思うけど。


(なんか。嫌だな・・・・・・)

 

 本の背表紙を指でなぞってもぜんぜん何も面白くなくて、けっきょく床のスマホを拾い上げる。どうせ送らないなら、いっそ言いたいことを書いてしまおう。

 勢いで書いてしまうと、自分でもこんなことを考えていたんだと、ちょっとびっくりした。読み返すと、気づかないところで自分はこんなことを考えていたんだなと、初めて気づくところもあった。わたしはもう一度、床にスマホを放った。


 天井を仰ぐ。理美ちゃんに今まで勧めてもらった本を思い出して、ため息をつく。わたしにも、誰かに届く言葉があれば。理美ちゃんにだって、何かができたんじゃないかな。


 肘に冷たく湿った鼻の感触がして、下を見るとりんが来ていた。ぽんぽんと平たい頭をなでてやると、満足げにしっぽを振っている。いつも生意気で気分屋だけど、けっきょくあどけなくて可愛くて。しばらくそうしていた。

 

 ふと、わたしは大変なことに気づいた。

りんの足の下。慌てて引っこ抜いた、わたしのスマホ。

 送信されたラインメッセージの上に、既読の文字がくっきりと浮かんでいた。

 












 

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