第一章 贖罪妃と四人の妃 ②
「秘密? 何のことだ?」
「あなたは宦官ではありません。宦官に扮して、この後宮に忍び込んでいる不審者です。違いますか?」
精一杯意地の悪い笑みを浮かべて、相手の様子を伺う。
歴代の王国がそうであるように、黄塵国の後宮も皇帝と一部の皇族を除き、男子禁制。その後宮内で女官と共に皇帝や妃に仕えるが、『作られた第三の性』である宦官。
「異なことを。俺が宦官ではない、そう言いたいのか?」
大袈裟な仕草で両手を広げ、盛大に遺憾を示す不審者。調べてくれとでも言わんばかりだ。
「ええ、そうです」
「何を証拠に?」
太々しいほどに、その態度は揺るがない。楽しんでいるようにさえ見える。
怯むことなく、立ち向かう。
「あなたが気を失ってる間に、勝手ながら調べさせて頂きました」
不快を示すように、黒曜の眉間にしわが刻まれる。これには薫香の方が慌てた。
「あっ、ご安心下さい。服を脱がすとか、あなたの貞操を汚すようなことは、誓ってしていませんから」
「貞操……」
一瞬、相手の気が緩む。呆れたようだ。
「実は寝てみえる間に、少しだけにおいを嗅がせて頂いたのです」
「におい?」
「はい。こう、くんくんと」
低い鼻を動かし、においを嗅ぐ仕草をしてみせる。だが、黒曜はますます呆れた様子。張り詰めていた気配も消えていた。すっかりこちらを舐めている。
「そんなことで一体何が――」
「腐刑、というそうですね」
「えっ?」
古代から伝わる刑罰の中に、宮刑というものがある。いわゆる去勢で、その別名を腐刑と呼ぶ。性器を切り取られ傷口が腐り、においを発することから、その呼び名が付いたと聞く。
「同じく去勢をうけた身である宦官さまからも、同じにおいがしていいはず。だから、宦官の方は、神経質なほどにおいを気にするといいます。ですが、あなたからは腐臭がまったくしません」
ふっ、と黒曜の顔が緩む。笑ったのだ。こちらを馬鹿にするように。
「そんなことで、疑ったのか? 愚か者が。お前の言う通り、宦官はにおいを気にする。だから衣類に『香』を焚き締め、におい袋を持ち、腐臭を紛らわせる。腐臭を感じなかったのはそのため。なんの不思議もない」
「私、鼻がいいんです」
「……それが何だ。多少鼻がよいからといって――」
「多少、ではなく、凄くよいのです」
「だから、それがどうしたと訊いている!」
怒気と共に、卓子に拳を打ち付ける大きな音が響いた。あからさまに不機嫌な顔が、こちらを睨んでくる。
だが、薫香は動じない。
「私は、鼻がとてもよいのです。幾つも重なり合ったにおいでも、正確に一つ一つ嗅ぎ分けることが出来ます。どんな順番で付着したかも。そして一度嗅いだにおいは忘れません。だから、どんなに他のにおいで誤魔化していたとしても、そこに腐臭があれば、嗅ぎ取れないわけがないのです」
ゆっくりと、噛んで含めるように話す。
疑いの眼差しが薫香を射る。
「まるで犬だな。俄には信じられん話だ」
「ですが、桃の花は見ておられたはずです」
はっ、とした表情が一瞬だけ浮かび、すぐに険しいものに変わった。
それを楽しむように、薫香は自分の顎を撫でる。
「あとはですねえ、あなたは午前中、書き物をなさっていた。利き手は左で、墨は竜洞湖の物を使われている。午後から人を訪ねていますね。少なくとも四か所」
「なっ!?」
目を剥く黒曜を尻目に、当たってました? と薫香は得意気に胸を張る。
「驚くことではありません。すべてあなたの衣装についたにおいからの推測です。墨のにおいから書き物をしていたこと。左の袖と、左手の三本の指に、墨のにおいが強く残っているので左利き。竜洞湖産の墨は、私も使ったことがあります。だから、においを覚えていました。他の物に比べて樟脳のにおいが強いのが特徴。そして四つの異なる残り香が、衣装に残ってみえました。昼食の饅頭(まんとう)のにおいの上に」
「……」
話を聞きながら、ぴくりとも動かない黒曜。
(やはり、そうか)
その様子が薫香に、もう一つの確信をもたらす。
「もう一つ分かったことがあります。あなた、鼻が利かないのですね? においを感じられない。違いますか?」
顔の中央を通る、綺麗な鼻筋を見つめた。
「……」
黒曜は何も言わず、険のある目つきを向けてくる。ただ、青ざめたその顔は、説明を求めていた。
「普通は嗅いでみるものではないですか? 本当に私が言ったにおいが付いているか、確認してみたくなるのが人の心情。でも、あなたは一度もそうされなかった」
わずかに左手首を、隠すように右手で掴んだだけ。左手首の裏に、引き攣ったような痣があったのを思い出す。
「まさしく犬だな。なるほどお前の鼻は、本物のようだ」
黒曜は椅子を引き寄せ、腰を降ろした。取り乱すこともなく、とても冷静だ。
「お前の言う通り、俺はにおいを感じない。ガキの頃のある経験を境に、鼻が利かなくなった。これで満足か?」
「宦官でないことも、お認めになるのですね?」
「好きにしろ」
そう言った黒曜の目に、強く怪しい光が宿る。一瞬、ぞくりとした。
「変な気は起こさないことだ。お前自身の為に」
文字通り椅子から飛び上がった、のは黒曜の方。突然、彼の背後に現れた女の囁きに、肝を潰したのだろう。
椅子から転げ落ちた黒曜を、女は虫けらでも見るような目で見ていた。褐色の肌と碧眼が、鮮烈な印象を与える小柄な女だ。女は無表情のまま、白磁の碗を卓子に置き、影のように部屋から出ていく。足音も、気配すらない。まるで白昼に見る幽霊。印象的な見た目が、より気配の希薄さを際立たせていた。
「な、何者だ、あいつ?」
「銀葉と言います。この宮の番人で、あなたと同じ官吏ですよ」
えっ、と黒曜は目を剥く。
「ああ見えて、力が強いんです。剣の腕もたつ。あなたを見つけ、ここまで運んでくれたのも、あの子なんですよ」
「番人がなぜ、宮の中に?」
「番人ですが、いまは私の世話や護衛も買って出てくれています。危険が迫ると、駆けつけてくれるんですよ」
そう教えてやりながら、意地の悪い視線を向ける。
「さて、先程あなたは、一体何をしようとしたのですか?」
「別に。何もしようとしていない」
うそつき、と言ってやると、忌々し気に顔を背けた。
「心配しなくても、秘密は決して口外したりしません。協力さえして頂ければ」
親交の笑み。
「脅しか? 別に心配なんてしてねえよ。よく考えれば、あんたは贖罪妃。誰もお前の言うことなど信じやしない。いや、そもそも話す相手もいないんだろ?」
「おや、冷静ですね」
その冷静さとしぶとさに好感を覚えた。
「それにしても、随分と大きな。薬箪笥か?」
椅子に座り直した黒曜が目を向けたのは、壁一面を覆う巨大な薬箪笥。縦横に仕切られ、たくさんの小さな抽斗が付いている。
「はい、銀葉のお手製です。集めた『香』の材料を仕舞うのに使っています。もっとも仕舞い切れてはいませんが」
箪笥に納まりきらなかった物、例えば乾燥した草や、砕いた鉱石、動物の毛皮などが、周囲に無秩序な山を作っていた。
「香材か」
黒曜は箪笥に近寄り、抽斗の中を一つずつ覗いていく。
「桂皮、丁字、竜脳、乳香、排草香、甘松、山奈、椨の樹皮に甲香、貝香まであるのか。随分と集めたな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます