第一章 贖罪妃と四人の妃 ③
「なんの呪文ですか、それ?」
怪訝そうな顔で、黒曜は振り返る。
「何って、ここに入っている香材の名前だろ?」
「あっ、やっぱりそうなんですね。よく知ってみえますね」
「鼻が利かないのは、この国では大きな欠点だ。気付かれないために、出来る限りの『香』の知識を学んできたからな」
黒曜はさらりと言うが、並大抵の努力ではないだろう。素直に感心する。
「凄いですね。私なんか、半分も分かりませんでした」
「嘘だろ? 香材としては基本的なものばかりだぞ?」
「知識なんてほとんど持ち合わせていません。何しろ幽閉中の身で、誰に習うことも出来ませんから」
「知らないのに集めたのか?」
「自分がいいと思ったものを集めただけです。私にとって大切なのは、においだけですから」
申し訳なさそうに頭を掻く薫香に、黒曜は呆れ顔。
「一体、どんな暮らしをして来たんだよ」
「至って普通ですよ。想像されるより、ずっと平穏な暮らしです」
幽閉の身とはいえ、一応扱いは妃だ。最低限必要な物は定期的に届けられるし、欲しい物は銀葉を通して要望出来る。香材もそうして取り寄せた。物資に不自由しないのは幸せなことだ。
「ただ、ここでは時間の流れが遅いのです」
「時間?」
宮から出ることは出来ず、その存在は忌み嫌われている。当然、訪ねてくる者はなく、便りもない。
窓から入ってくる花のにおいで季節の移ろいを知り、遠くに聞こえる調べで宴の様子を思い描く。壁に映る己の影に話しかけ、『香』を焚くことだけを楽しみとする。
淋しいという感覚は、もう忘れた。
ここが薫香のすべて。狭く、閉ざされた薫香の世界。
その世界に黒曜がやって来た。おそらく薫香が迎えた二人目の来訪者。こんなこと、もう二度とないかもしれない。それだけに、薫香はこの機会に、黒曜に賭けていた。
「ここに入って、何年になる?」
壁を見つめたまま、黒曜が訪ねてくる。
「確か十三年。それくらいだと思います。ここにいると時間の感覚が鈍ってしまって、はっきりと断言はできませんが」
「逃げ出そうとは、思わなかったか?」
「逃げ出せば一族の者に迷惑が掛かります。それと銀葉にも」
「それなら、死のうとは思わなかったのか?」
黒曜はまだ、こちらを見ない。
「過去の贖罪妃の中にはいたようですね。ですが、私は一度もありません」
ようやくこちらに顔を向けた黒曜と目が合う。
なぜ? と黒曜石の瞳が問いかけてくる。
「私は欲の深い女なのです」
「欲?」
「はい。どんなに良いにおい、素晴らしいにおいを嗅いでも、満たされることがありません。もっと良いにおいが、もっと素晴らしいにおいが、外の世界にはあるのではないか。そう思うと、夜も眠れません。きっとこの世のすべてのにおいを嗅ぐまで、そう思い続けるでしょう。とても死んでなどいられません」
「なるほど、実に欲深い。そして、本物のにおい馬鹿だな」
「誉め言葉と、捉えておきます」
にこりと笑いかけると、黒曜は小さく肩を竦めた。それから何を考えているのか、もう一度、品定めするように薫香を見つめる。
「いいだろう。お前の望み、この黒曜が叶えてやろう」
思いもかけない言葉に、ぱっと目の前が明るくなる。だがすぐさま警戒心が沸き上がった。
「もちろん、ただではありませんよね?」
上目遣いに様子を伺えば、黒曜は実に底意地の悪い笑みを浮かべる。
「話の分かる女は、嫌いじゃないぜ」
「それはどうも。それで、あなたの望みは何ですか?」
その瞬間、相手の顔から表情が消える。わずかに出来た間に、躊躇いを感じた。
「お前に探して欲しい、においがある」
意外だった。
「におい? どんなにおいです?」
「甘いにおい。華やかで優美、だが粘りつくように濃密で……」
言葉が途切れる。黒曜は手で顔を拭う。額には汗が浮かび、顔色は明らかに悪い。
「大丈夫ですか?」
「何でもない。とにかく強い甘さを感じさせるにおいだ。この後宮で、そんなにおいのする女を探せ。それが条件だ。出来るか?」
「最善は尽くします、としかお答えできません。何しろ捜索対象が曖昧過ぎますから」
「最善か。まあ、いいだろう。出来る、と安易にいう奴よりは期待できそうだ」
黒曜は鷹揚に頷く。まったく、偉そうだ。
「では」
「何だ?」
差し出した左手を、黒曜は訝しげに見つめる。
「今日から私と黒曜さまは一蓮托生。よろしくお願いしますね」
少しだけ戸惑う様子を見せた黒曜だったが、面倒臭そうに薫香の手を握る。
「役に立たん奴は嫌いだ。俺の役に立てよ」
態度とは裏腹に、その口元が緩んでいることを、薫香は見逃さなかった。
「思いがけず、よい拾い物をしたわね。お手柄よ、銀葉」
初めての来客を送り出すと、独房宮はいつもの静けさを取り戻す。静寂に響く薫香の声は、上機嫌だった。
「そうでしょうか?」
話を振られた銀葉は、小さく首を傾げる。
「銀葉はそう思わないの?」
「鼻持ちならない奴、としか思いませんでした」
思わず苦笑する。銀葉の物言いはおもねりがなく、いつも真っすぐだ。聞いていて心地がいい。
美しい褐色の肌と碧眼を持つ彼女は、黄塵国の人ではない。異国から連れてこられたのだ。戦勝の戦利品として。
そんな銀葉が独房宮に来たのは、薫香が後宮入りして三年後のこと。
自分より一つ年下の番人に、初め薫香は驚いた。だが年が近く、孤独を持て余す二人だ。囚人と番人という関係を越え、仲良くなるのに時間はかからなかった。
「まあ、性格はこの際置いておきましょう。協力すると言ってくれるだけでも、有難いじゃない。贖罪妃と聞いただけで、大抵の者は尻込みするというのに」
「望みを叶えてやるなんて、偉そうに言っていましたね。高が宦官ごとき、一体何が出来るものですか」
銀葉は不満気に鼻を鳴らす。余程、黒曜のことが気に入らないらしい。
「正確に言うと宦官に扮しているだけだけどね。でも、それが重要なのよ。偽宦官だと確信したから、私は彼に話を持ち掛けたの」
「どういうことでしょうか?」
「いい、仮にもここは後宮よ。この国の頂点に立つ皇帝の妃たちが住まう場所。何も持たない者が、おいそれと忍び込める所ではないわ」
「つまり協力者、或いは後ろ盾がいるということですか?」
薫香は大きく頷く。
「それも、この後宮でそれなりの力を有する者だと思う」
「そう言われれば、確かに都合のよい拾い物だったかもしれません」
銀葉のいかにもしぶしぶといった様子と、その物言いが可笑しい。
「問題は誰が後ろ盾についているのか。そしてあいつの目的ね」
「においを探して欲しいと言っていました。本当でしょうか?」
「嘘ではないと思う。でも、それが全てではないでしょうね」
顎に手をあてて考える。思い出すのは、黒曜の暗い目。並々ならぬ執念を感じさせる。過去に一体何があったのだろう。
「どうします?」
「いずれにしても、黒曜が私を利用しようとしているのは確か。まずは相手の出方を待ちましょう。その間に情報が欲しいわ。調べられる?」
奴隷だった銀葉が、形だけとはいえ官吏として取り立てられたのには理由がある。
一つは忌み嫌われる贖罪妃の番人など、誰もやりたがらなかったから。もう一つは奴隷として幼き頃より、汚れ仕事に携わって来た彼女の経歴と能力。
「あの男のことですね。お任せ下さい」
銀葉は力強く、その胸を叩いた。
これまでの人生において、唯一、天に感謝したことがある。それは銀葉と出会いだ。
そして今回の出会い。果たして感謝となるか、はたまた怨嗟となるか。
「まずはお手並み拝見といきましょうか」
翌日、黄塵国の後宮内にある噂が広まる。
曰く、後宮に『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます