第二章 後宮に化け猫は香る ①
「廣黒曜。太監に所属する宦官、ということになっています。年齢は二十一歳。都郊外の小さな部落出身で、この春、正式登用。つまり先帝が崩御され、後宮が一新されるにあたり、その採用に引っかかったわけです。仕事ぶりは極めて優秀。おまけに容姿端麗で、後宮の女官たちの間でも噂になるほどです」
銀葉から黒曜についての調査報告を聞く。
ここに来るまでは、奴隷として汚れ仕事にも携わっていたという銀葉だ。その時の繋がりはいまも生きているらしく、この手の仕事は朝飯前。
「ふ~ん、非の打ちどころがないってわけね」
「影で虎の威を借りる狐と揶揄されているように、上役には気に入られているようです」
「上役は誰?」
「太監の長である
「他には? 何か気になることはある?」
「この後宮に来るまでの足取りがはっきりしません。まだ調査中の段階ですが、このまま調べても何も出てこないかもしれません。どうも意図的に過去を消した痕跡があります」
ふ~ん、と唸ってから、薫香は天井を見上げる。
(白檀さまは当然、黒曜が偽宦官だということを知っているはずだ。そうなると黒曜を後宮に潜り込ませたのは、その白檀さまだろうか? しかし黒曜が人に命令されてやっているとは思えないし、素直に命令に従うって柄でもないだろうし)
しばらく考えていたが、やがて諦める。まだ情報が少なすぎる。
「探して欲しいにおいとは、一体なんなのでしょう?」
「探して欲しいにおい、か」
薫香は眉を顰める。
思い出したのは、沈香亭での審査の後。黒曜に四妃のにおいについて問い質された。物凄い剣幕で。
「四人とも多少なり甘いにおいは混じっていました。ですが、どなたも濃密というほどには強いものではありません」
そう答えると、あからさまに肩を落としていた。
「いまは大人しく待ちましょう。数日もすれば動きがあるでしょう。黒曜か、四妃か、あるいは皇后選びについてか
一礼して下がろうとした銀葉が、思い出したように足を止める。
「そういえば『香妃』について、小耳に挟んだことが。十数年前にも同じようなことがあったそうです」
「同じようなことって?」
「先帝が即位された時、やはり皇后選びの最中に出たそうです、『香妃』を名乗る女が」
「出た、なんて言うと幽霊みたいね。でもまあ、『香妃』は皇后選びの鬼札みたいだから、同じこと考える人はいたでしょうね」
それにしても状況が酷似してますが、と言い残し、銀葉はその場を辞した。
「というわけで、晴れてお前の
数日後、予想通り黒曜が姿を見せた。
「はあ、そうですか。ところで御前聞香というのは、一体何をするんです?」
「御前聞香というのは、代々黄塵国に伝わる皇后選びの儀式だ。黄塵国にとって『香』がいかに重要なものであるかは知っているだろ?」
小さく頷く。
黄塵国で『香』は神聖な物。なにより重要な天への捧げ物であり、『香』と引き換えに天の意志、神託がもたらされる。捧げる『香』を間違えれば、神託はもたらされず、国は衰退する。
「天の声を聞くのは天子たる皇帝陛下。そして捧げ物である『香』を用意するのが、皇后の役目となっている。要するに昔『香妃』がやっていたことを、皇帝と皇后で分担しているわけだ。そのため御前聞香では四妃それぞれが『香』を用意する。それを陛下が全員の前で嗅ぎ、神に捧げるに最も相応しいと思う『香』を選ぶわけだ。そしてその『香』を用意した妃が皇后となる」
「なるほど。ですが、それだと結局は陛下のご一存によるのではないですか? たとえば『香』より、妃の好みで選んでもいいわけですよね」
素朴な疑問を差し挟んだ薫香を、黒曜は冷たい目で見降ろす。
「愚か者め。これは神前で行われる国にとって重要な儀式。私心を挟むことは許されぬ。もし嘘や私心で選ばれた『香』を天に捧げれば、神託は下されない。代わりに天から下されるのは罰だ」
そう言う黒曜の物言いは実に白々しく、自ら口にしたことを信じていないのは明白だ。なぜ天はこの者に罰を下されないのか? 実に不思議に思う。
「罰とは、たとえばどのような?」
「天災、飢饉、疫病、外敵の侵入など様々だ。もちろんその『香』を選んだ皇帝自身にも罰は下る。不慮の事故や、早世された時などは、御前聞香での虚偽が真っ先に噂されるくらいだ」
「そういえば先頃崩御した先帝も、確か早世の部類ですよね?」
そうだな、と答える黒曜の顔は、わずかに曇っているように見えた。
「いずれにせよ天罰なんてものが本当に存在するのか、実際のところは誰も分からん。現実的な話をすれば、誰がどの『香』を用意したか、陛下には伝えられない。私心を挟む余地は、最初からないのさ。あくまで公明正大な儀式だ、建前上は」
大きく肩を竦めて見せる黒曜。
「現実的な考えですね」
「当然だ。そもそも皇帝が天の声を聞けるかも、怪しいからな」
「いいんですか、そんなこと言って。誰かに聞かれたら、首が飛びますよ」
「別にいいさ。ここにはお前しかいない。そして贖罪妃であるお前の言葉などに、耳を傾ける奴など誰もいないよ」
俺以外はな、と自らを指し示す。
思わず苦笑いが零れた。
「それでは、私も『香』を用意しないといけないのですか?」
「いや、その必要はない。お前の御前聞香への参加方法は検討中だ。なにしろ今まで取り調べを通った奴はいなかったからな。上は揉めてるぜ」
黒曜は声を上げて笑う。実に楽しそうだ。その様子を見ていた薫香は、あることを思い出す。
「ですが、十数年前にも『香妃』を名乗った妃がいたと聞きました。その時も、同じように皇后選びの最中だったと」
笑い声が、ぴたりと止まる。
「よく、知ってるな」
「銀葉は優秀ですから。十数年ぶりの出来事は、前代未聞でしょうか? いささか大袈裟な気がしますが」
黒曜はわずかに視線を逸らす。
「そんな愚か者も、いたようだな。だが、その時は大事(おおごと)になる前に収束した。参考にはならんよ」
「収束したとは?」
「死んだのさ、その愚か者。御前聞香より前に」
面白くもなさそうに、そう答えたっきり黒曜は黙り込む。
「そう、ですか」
曖昧に頷く。いろいろと疑問はあったが、とても訊けそうになかった。
重苦しい時が、暫く流れた。
「そう心配するな。お前には、俺が付いている。大丈夫だ」
沈黙を破ったのは、黒曜のそんな言葉。薫香の沈黙を、御前聞香への不安と捉えたのだろうか。
相変わらず言葉は白々しいが、とにかくほっとした。
「何か考えでもあるのですか?」
途端に黒曜の口角が大きく持ち上がる。悪人の顔だ。大分、調子が戻ってきた。
「この後宮内で近頃、ちょっとした事件が起きているのを知っているか?」
「いいえ、知りません」
薫香は小さく首を降る。もちろん『香妃』騒動以外では、ということだが。
「実はな――」
わざとらしく声を潜める黒曜。つられて薫香も体を前に乗り出す。丸い卓子を挟んで、二人の顔が息のかかる距離まで近づく。
「猫が、出たんだ。この後宮に」
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