第一章 贖罪妃と四人の妃 ⑦

「結構です。では香炉を」


 取調官から香炉を受け取る。炉身は深く丸みを帯び、底に小さな脚が三本、蓋はない。中には三角形に整えられた灰の山。その中には炭が埋められ、山の頂上に問題の『香』が乗せられている。


 灰の上には黒く丸い丸薬のようなものが三つ置かれていた。


「練香だな」


 後ろから覗いていた黒曜が呟く。


「練香とは、何ですか?」


 薫香が訪ねると、黒曜は目を剥き、近くで聞いていた取調官は噴き出した。


「お前、練香も知らないのか?」

「だから、におい以外の知識は浅いと言っているじゃないですか」


 顔を引き攣らせながらも、黒曜は練香について説明してくれた。


「練香は主に『香』の材料となる香材を粉末にし、蜂蜜で練り固めたものだ。草木の香材が多い南の方で盛んな『香』の一種。練ってから壺に入れ、地上に埋めて寝かせる。完成までは約三か月。手間がかかる分、値も張る。なにより同じ材料で作っても、わずかな量の違いや練り方、寝かせた期間の違いによって香りが微妙に変わってくるという話だ」

「つまり見分けるのが難しいということですね」


 卓を挟んだ向こう側で、取調官がニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。

 腹立たしいが、いまは気持ちを落ち着ける。


(滅多に嗅げない上質の『香』。雑念混じりで嗅いだら、勿体ない)


 薫香はいつものように大きく息を吸い込み、それから吐いた。頭と肺の中を空っぽにしてから、ゆっくりと香炉を鼻に近づける。


 一瞬、情景が頭に浮かんだ。

 降りそそぐ日差しは柔らかく、窓から見える庭には梅の花。冬の寒さを耐え忍んだ梅の花は麗しく、その香りは気高い。


(ああ、これは春のにおい。春の『香』だ)


 そのにおいを存分に楽しむ。

「結構な香りでした」


 香炉を卓に置き、静かに一礼する。

 それから、ずらりと香炉が並ぶ卓子を見た。確かにこの中から、ただ一つのにおいを見つけ出すのは困難かもしれない。薫香以外の者なら。


 あと二十回も『香』を嗅げることに、薫香は心の底から歓喜した。



「結構な香りでした」


 薫香がニ十個目の香炉を卓に置いた時、誰からともなくため息が漏れた。


「よ、よし、では回答を聞かせて貰おう」


 しきりに額の汗を手巾で拭いながら、取調官が薫香に答えを即す。


「十七ですね」


 薫香は迷いなく答え、「十七」の札が付いた香炉を差し上げる。

 その瞬間、取調官の顔が驚きに歪むのを見た。だが、それも一瞬で、すぐに卑下た笑みを浮かべる。


「よろしい。では、正解を発表する」


 取調官は懐から注意深く、一通の書簡を取り出す。恭しく掲げてから、封を解く。開いて内容を確認すると、取調官は書簡をこちらに向け、高々と掲げた。まずは四妃に見えるよう四方掲げ、最後に薫香の鼻ずらに書簡を突きつける。

 そこには大きく「八」と書かれていた。


「ふん、偽者か」


 北麗妃の呟きと、黒曜の舌打ちが耳に届いた。


「なんですか、これ?」


 突きつけられた書簡の意味が分からず、薫香は首を捻る。


「なんですか、ではない! 答えだ、答え! 「八」が正解! つまり、お前は間違えたんだ!!」 


 喚き散らしながら、巨体が嬉し気に飛び跳ねる。


「いいえ、違います。「八」ではありません」

 思っていた以上に、薫香の声は響いた。そして、急速に沈黙が訪れる。


「ば、馬鹿なのか、お前は!! これはなあ、陛下自らがお書きになった回答だぞ!!」


 顔を真っ赤に染め、下あごの肉を震わせ、取調官は書簡を押し付けてくる。


「それでは、皇帝陛下が間違っておいでなのです。「八」は確かによく似てはいますが、苦味が足りません。答えは「十七」です」


 揺るがぬ薫香と、揺らぐ取調官の巨体。


「な、なんと恐れ多い。聞かれましたか、皆さま方! この者、あろうことか皇帝陛下の書簡を否定しましたぞ! よいか、この書簡は陛下の直筆。つまりは、この書簡は陛下そのもの。お前は皇帝陛下を否定したのだ! これを反逆以外の何物でもない!! まさに『英雄殺し』の末裔に相応しい暴挙よ!」


 陛下そのもののはずの書簡を振り増し、取調官は喚き散らす。

 薫香は手を伸ばし、書簡を奪い取る。


「あっ、何をする!?」


 仰天する取調官を無視して、書簡に鼻を突けた。それから真っすぐに、取調官を見据える。


「この書簡、本当に皇帝陛下のものですか? 先程のとは違い、この書簡からは『香』のにおいがしないのですが」


 薫香にとっては、素朴は疑問。だがその疑問が、取調官の顔をこれでもかというほど歪ませ、場の空気を一変させる。


「か、返せ!」


 必死の形相で取調官が、薫香から書簡を奪い返す。頭の上まで掲げられてしまっては、小柄な薫香が跳ねても届かない。

 だが、長身の黒曜にとっては造作もないこと。


「あっ!?」


 あっさりと取調官から奪い取り、追い縋る手も簡単にいなす。


「陛下自らお書きになる書簡の紙には、『龍香』という、皇帝のみが身に纏う秘伝の『香』を焚き締めることになっている」


 そう説明しながら、おもむろに書簡に鼻を近づける。

「確かに、この書簡からは『龍香』のにおいがしない。一体どういうことですかな、取調官殿?」


 笑顔で問い詰める黒曜。その目は冷たく、美しい顔立ちと相まって凄みがある。


(いやいや、あなたは鼻が利かないから、においなんて分からないでしょう。とんだ食わせ者だわ)


 内心、苦笑いの薫香だが、いまは黒曜に加勢する。


「取調官さまの懐から、先程と同じにおい、『龍香』のにおいがします」

「ほう、書簡はもう一通あるのですかな? 出していただこうか」


 黒曜が詰め寄る。


「こ、これは違う! 違うんだ!! いや、書簡などない、ないぞ!!」


 ないと言いつつ、懐を庇う様に背を丸める取調官。逃げる取調官と、追いかける薫香と黒曜。場は混乱に陥った。


「辞めなさい。見苦しいですよ」


 静かだが有無を言わさぬ下知。薫香と黒曜は我に返る、声の主に目を向ける。


「答えはもう出ました。取り調べは終了です」

「で、ですが東蕙妃さま……」


 食い下がろうとする薫香に、東蕙妃は小さく首を振り立ち上がる。


「残念です、贖罪妃。どうやらあなたとは、争い合わなければならないようです」


 一瞬、何を言われたか分からなかった。同じくぽかん、と口を開けている黒曜と顔を見合わす。


「あの、合格なのですか?」

「残念ながら」


 そう言い残すと、東蕙妃は踵を返し、沈香亭をあとにする。


「取り調べの結果は、その豚宦官の顔に書いてある。あんたの勝ちだよ」


 北麗妃に言われ、宦官を見れば顔面蒼白。今にも泣き出さんばかり。


「わ、私は、へ、陛下のために……」

「心にもないことを。ぬしのために忠告してやる。誰に頼まれたか知らんが、余計なことは口にせず黙っていろ。さもないとぬしの命、ないぞ」


 罪を逃れようとする罪人を、西華妃は冷たく切り捨てる。宦官はその場に崩れ落ちた。


 どうやら本当に取り調べを通ったらしいと理解した時には、北麗妃の姿も、西華妃の姿もなかった。ただ一人残っていた南貴妃はしばらく無言で薫香を見つめていたが、そのまま何も言わず立ち去っていった。


「なるほど。確かにここは、大変なところのようね」



 翌日、独房宮を訪れた皇帝の勅使に、薫香は皇后選びの儀式である御前聞香への参加を言い渡された。

 五人目の皇后候補の噂は、あっという間に後宮中に広まっていった。

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