第一章 贖罪妃と四人の妃 ⑥
沈香亭の八つある扉の一つに、数人の女官を従えた女が姿を現す。すらりと背が高く、長い烏羽色の髪を美しい金銀の櫛で飾り、その輝きすら霞むほどの美貌。年は二十三、四。人を圧倒する気品と貫禄がある。一目見るなり『毅然』という言葉が頭に浮かんだ。
一嗅ぎすれば薫風を思わせる涼やかな香りが広がった。だが、その奥にはきちっと一本芯が通っている。自然と背筋が伸びてしまう、そんな香りを身に纏っていた。
薫香の時と同じように言葉を遮られた取調官だったが、その対応はまるで違った。
「こ、これはこれは
すっ飛んでいくや、跪かんばかりの勢いで出迎える。先程までの横柄な態度が嘘のようだ。
「誰?」
黒曜にそっと尋ねる。
「東蕙妃さまだ。東王家の縁者で、皇后候補の四妃のひとり。その美貌はもちろん、聡明にして清廉。もっとも皇后に相応しいと専らの評判だ」
お前とは大違いだな、と要らぬ一言まで付いてきた。評判に違わずといったところか。
「でもどうして、東蕙妃さまがわざわざここに?」
「愚問だな。この取り調べの結果次第では、お前は東蕙妃さまと皇后の座を争うことになるのだぞ。『香妃』を名乗るということは、そういうことだ」
畏まる宦官に東蕙妃は慈愛の笑みを向ける。
「この聞香、私も見学、いえ視察させて頂きます。よろしくって?」
その視線が薫香に向けられる。親しみとも、挑発ともとれる笑みを浮かべて。
(敵情視察、ってわけですか)
薫香は小さく唇を舐めた。
もちろん彼女は返事など必要としていない。さっさと沈香亭の一角に座を占める。
「取調官殿」
「は、はい」
「言うまでもないことですが、これは陛下の命による取り調べ。くれぐれも公正なご判断を。曲がり間違っても私心など挟めば、それは陛下への反逆と心得られますよ。いいですね?」
「し、承知しております」
肥大した宦官の体と態度が、みるみるうちに萎んでいく。
「なんて言うか、格が違うって感じですね」
「さすが、皇后の最右翼。見事な脅しだ」
ただただ感心する。
「そ、それでは東蕙妃さま、取り調べをはじめてもよろしいでしょうか?」
すっかり大人しくなった取調官が、恐る恐る伺いを立てる。
だが、東蕙妃は小さく右手を上げ、それを制す。伺いを退けられ、戸惑い狼狽える取調官を尻目に、東蕙妃は厳かに告げる。
「どうやら視察に訪れたのは、私だけではないようですね」
ほぼ同時に三つの強い香りが、別々の扉から亭の中へ入って来た。
「面白そうなことをやっているじゃないか。俺も混ぜてくれよ」
北側の扉から入って来たのは、目を奪うような長身の美丈夫。長袍を着用し、腰には革帯を締め、黒い長靴を履いている。
獣を思わせるしなやかな身のこなしと、猛禽類のような鋭い眼光。艶然とした笑みには、身の毛もよだつほどに美しい。纏う香りにも、野生を感じさせる力強さがあった。
「北の王家より参られた
「えっ、お姫さまなの!?」
よく考えれば当然の話だ。ここは後宮。皇帝以外に男性が入ることは許されない。だから、男性であるはずないのだが、それでも俄には信じがたい。
「ふん、北の番犬が」
北麗妃の衝撃がおさまらぬうちに、今度は西側の扉から声がかかる。そちらを見た瞬間、ギョッとした。
道士服に身を包んだ女が入ってきた。正確に言うなら、おそらく女性と思われる人物が。というのも、その顔は帽子から垂れ下がった面紗に阻まれて、伺うことが出来なかった。相貌はもちろん、性別すら分からない。
纏うのは丁字の香り。爽やかなのに、ピリッとした苦味を感じる。まるで野ばらの棘。癖が強いのに、慣れるほど求めたくなるにおいだ。
「西の王家の
「ふん、異国かぶれの食わせ者と聞いてはいたが、なんだいその変な布は。何かのまじないかい?」
小馬鹿にしたように北麗妃が鼻を鳴らす。
「馬を追って草原を駆け回るしか脳のない犬には分からぬだろう。面紗(ベール)という物だ。異国の物だが、重宝している。我が相貌を拝せるのは、我が夫たる者だけ。汚らわしい野犬の視線を遮るのには丁度よいのでなあ」
声自体は若い女性のものだが、喋り方は老練な翁のそれ。その隔たりが西華妃の得体の知れなさは増長する。
一方、犬扱いされた北麗妃は、分かりやすく不機嫌を示す。
「けっ、そんなに面に自信がないならこんなとこへ来るな。守銭奴のえせ道士が」
「異なことを。黄塵国の皇后に美貌など必要ない。求められるのは、陛下への助力のみ。そんなことも知らんのか、吼えるだけが取り柄の駄犬」
北麗妃と西華妃との間に、見えない火花が飛び散る。それを東蕙妃が、余裕たっぷりの表情で眺めていた。薫香は思わず首を縮める。
「北と西の王家は、代々いがみ合ってきた。だから歴代の妃同士も諍いが絶えないらしい」
「でしょうね」
黒曜の耳打ちに、薫香はそっと肩を竦めた。
北と西、いがみ合う二人を他所に、最後の来客が姿を見せる。
南側の扉から入って来たのは、鮮やかな若草色の袖広を身に纏った妃。ゆったりとした衣装にも拘わらず、その実りの豊かさが分かる。それに反して顔には小動物のような愛らしさ。東蕙妃のように圧倒的な美貌ではないが、逆に気圧されない分、人気を集めそうだ。年もおそらく四人のうちで一番若い。まだ十代だろう。
においも正統派。誰が嗅いでも、どこで嗅いでも、良いと感じるにおい。ほどよく甘く、癖も少ない。
最後に相応しくゆったりとした足取りに貫禄を感じる。その顔は鉄仮面の如く、些かの表情も見られない。あまりの無表情に、どこか冷たい印象を受ける。
一瞬、薫香は女と目が合った。キッと無言で睨み返され、慌てて視線を逸らす。
「
黒曜の解説に頷く。
「図らずも四妃全員が揃うことになりましたね。そしてこれがお互い初顔合わせ。本来ならあいさつ代わりにお茶でも、と言いたいところですが、無用ですね。お互い仲良くしたくて、ここに来たわけではないでしょうし」
一番年長と思われる東蕙妃が、ゆっくりと一同を見渡す。
「当然だな」
「無益なことに割く時間を持たぬ」
「……」
他の三妃が異口同音の反応を示す。
「なに、この空気の悪さは……」
「この四人は、たった一つの皇后の座を賭けて争うのだから当然だ。そして何を他人事のように言ってる」
何をいまさら、と黒曜に叱られる。
「そして私たちの争いに加わりたいという方が、もう一人」
奇しくも四人の妃の視線が、一斉に薫香を捉えた。四方からにらまれて、まさに袋の鼠状態。おまけにどの視線にも微塵の好意も感じられない。
薫香はあからさまにため息を吐く。なるほど、ここは戦場だ。
「取調官殿、お待たせしました。始めて下さい」
四妃の登場ですっかり影が薄くなり、片隅で震えていた取調官が飛び上がる。慌てて中央に進み出た。
「そ、それでは取り調べを始めさせて頂きます」
取調官は持参した木箱から書簡を取り出し、中央に呼び出された薫香の前で読み上げる。皇帝からの書状で、この取り調べが皇帝認可のものであることなどが書かれていた。
自分の運命を左右する内容を、薫香は――
(さすが皇帝の書状、いい紙といい『香』を使っているなあ~)
夢見心地で聞いていた。
書簡の紙はもちろん一級品の物で、しっかりと『香』が焚き締めてある。その『香』がまたよい物で。あたりに漂うそのにおいに、薫香はうっとりとしていた。
「以上である! では取り調べの方法を説明する」
ようやく我に返る。
「取り調べの方法は聞香。まずここにある香炉で焚いている『香』のにおいを嗅いでもらう」
宦官は手にした香炉を示す。両手に納まるほど小さなその香炉からは、白い煙が立ち上っている。
「その『香』の種類を当てればよいのですか?」
先程から薫香の背後に控えていた黒曜が口を挟む。
「焦るな! そうではない。この香炉のにおいを嗅ぎ、それと同じにおいの物があの中にある。それを選び出してもらう」
宦官が指し示したのは、先程から卓の上で香煙を上げている香炉たち。その数ざっと二十はある。
同時に四方から零れる嘲笑。そして勝ち誇ったような宦官の顔が、その難易度を示していた。
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