第一章 贖罪妃と四人の妃 ⑤
「これから
「沈香亭?」
黒曜の話によれば、沈香亭は皇帝や妃たちの憩いの場。建材に香木でもある沈香を使用しているのが、その名の由来。そればかりか、欄干には檀香を使い、壁には麝香や乳香が塗り込まれているという。
「な、なんて贅沢な!」
良質な沈香は、同じ重さの金と取引される。つまり沈香亭とは、黄金で作られていると言ってもよい。
そうでなくてもにおい好きには、夢のような建物だ。聞いただけで涎が、もとい鼻が疼く。
「それで? 沈香亭で優雅にお茶でも、なんてわけはないですよねえ?」
「もちろんだ。何しろお前は、後宮の風紀を乱した不届き者として、取り調べを受ける身だからな」
「……どういうことです?」
不届き者とは、寝耳に水だ。だが、黒曜はしたり顔。
「先程のお前の質問の答えだ。『香妃』を自称し、皇后の座を掠め取った女の話が広まると、『香妃』を自称する者が大勢現れた。お前の言う通りさ」
「そうでしょうね」
皇后選びにおいて『香妃』は抜け道であり、鬼札。真似する者が出てくるのは当然だ。
「問題は、誰も本物の『香妃』を知らないことだ」
「自称されても、審議の判断が出来ないということですね」
黒曜は頷く。
国中に『香妃』の伝説や、物語は溢れている。だが、そのほとんどが信憑性にかけるものばかり。
確かだと言われているのは、その体から強い芳香を放っていたこと、鼻がずば抜けてよかったこと、そしてあらゆる『香』に精通し、神託をもたらしたことくらい。
「『香妃』を語る上で、その三つの要素は欠かせない。だが、それにしたって名の由来にもなっている体臭芳香はともかく、鼻と『香』の知識に関しては、どれくらいという具体性がない」
「判断材料にはなりませんね」
事実、唯一皇后の座を掠め取った女はひどい悪女で、歴史にその悪名を刻んでいる。『香妃』の再来などではなく、ただの詐欺師だったというのがいまの通説だとか。
「かと言って、自称する者すべてを皇后にすることなど出来ない。困った時の皇帝が、一つの解決策をひねり出す。後宮で『香妃』を自称する者は、風紀を乱したとして、全員厳罰を科すことにしたんだ」
「随分、大胆な策ですね」
そして薫香は、ようやく自分が厳罰の対象であることを理解する。
「だが、効果はあった。それ以降、この後宮で『香妃』を自称する者はほとんどいない」
黒曜の説明に納得しつつも、薫香は首を捻る。
「でも、もし本物の『香妃』の再来がいたらどうするんです?」
「その時の為に、一応、取り調べが行われる」
一応、という言葉が不安を誘う。
「取り調べを受けて、厳罰を免れた、つまり『香妃』と認められた方はいるんですか?」
「前に言っただろ? 『香妃』を自称して、皇后になった者はただ一人だと」
要するに厳罰を免れた者はいないということ。薫香の口から、思いっ切りため息が出た。
「安心しろ、あくまで今のところは、だ。取り調べの方法は分からないが、何でもにおいに関することらしい。だとしたら、お前の鼻なら可能性がある」
じろりと隣に立つ黒曜を睨む。
「まったく、他人事だと思って。ですが、分かりました。皇后を狙うには、そのくらいの危険は付いて来るってことですね。とにかく、やってみましょう」
思っていた以上に、皇后への道は厳しいことは分かった。同時に思っていた以上に、黒曜が食わせ者だということも。
行く先に巨大な池が見えてきた。城外を流れる川から、地下を通して水を引き、後宮内に作った人口池だという。そのほとりに建つのが沈香亭。
沈香亭は八本の柱と八面の壁を持つ八角形の東屋だった。黒曜に続いて、短い階段を上がる。
「黒曜です。贖罪妃さまをお連れしました」
八面あるうちの一つを叩き、黒曜が中に取り次ぐ。すると八面全てが一斉に開く。同時に溢れ出した芳香の濁流に、薫香は一瞬で飲み込まれた。
「おい、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫。突然たくさんのにおいが流れてきたから、驚いただけです」
一瞬ふらついた薫香の体は、黒曜の腕に支えられた。驚きと恥ずかしさで、慌ててその腕の中から逃げ出す。
どうやらすべての壁は、外向きの開き戸になっていたらしい。開け放たれた亭の中は思いのほか広く、中央に丸い卓が一つ据えられている。卓の上では無数の香炉が、細い煙を立ち昇らせていた。どうやらにおいの濁流の正体は、この無数の香炉のようだ。
(でも、なぜこんなに香炉が?)
「遅い! この儂を待たせるとは、よい度胸だ!」
薫香の疑問は、突然の怒号に掻き消された。
卓の脇に立つ宦官服の者が、顔を真っ赤にして喚いている。
その姿を一目見るなり、薫香は思わず感嘆した。なにしろよく肥えている。見事なまでの二重顎に、丸く大きく突き出した太鼓腹。全身が程よく丸い姿は、愛嬌すら感じてしまう。対照的に、ニキビだらけの顔は醜悪に歪み、唾と一緒に文句を噴き出している。
「静かに。ここは神聖なる帝の後宮、騒がしくしては妃たちの機嫌を損ねるぞ。それにまだ約束の刻限には、いま少し時間がある。文句を言いたくば、よく確認してからにしろ」
しれっと黒曜があしらうと、宦官は悔し気に押し黙る。
「薫香さま、こちら薫香さまを呼び出された田岩(でんがん)さまです。本日の取調官を務められます」
どんな奴、と小声で訪ねれば、愚物、と返って来た。
なるほど、と頷く。
宦官がこちらを向いたので、あわてて拝礼する。
「初めまして、贖罪妃こと李薫香と申します」
途端に宦官は袖で顔を隠し、大袈裟なまでに慄く。
「おお、恐ろしや。これが裏切りの一族の末裔か。近寄るな、近寄るな。穢れが移ったら如何するつもりだ!」
贖罪妃に初めて出会った時の、実に模範的な反応だ。『裏切りの一族』と罵られていた故郷の頃を思い出し、懐かしすら感じる。
「気にするなよ」
「気にしてませんよ」
横に立つ黒曜の気遣いが、少し意外だった。
そんな二人の前で、宦官は大威張りで声を張り上げる。
「よく聞け、後宮の風紀を乱す不届き者! 儂はそなたが本当に『香妃』の生まれ変わりであるか、皇帝陛下に代わり見定めるよう仰せつかった。つまり儂は皇帝陛下の代理人である。そのこと、くれぐれも肝に銘じておけ。よいな?」
「ということは、陛下はお見えになられないのですか?」
「あ、当たり前だ! なんで贖罪妃のお前ごときのために、陛下自らが足をお運びになろうか! 身の程をわきまえよ!」
そうだろうとは思っていたが、少しだけ気落ちする。
その様子が気に入ら無かったのか、侮られていると思ったのか、審査官は不機嫌を隠そうともしない。蛇のような目で、こちらを睨みつけてくる。
「よいか、これからそなたには一つ、聞香をして貰う。真に『香妃』の生まれ変わりなら、聞香など造作もないこと。見事正解出来ればよし、出来なければ――」
「結構です。で、どのような聞香ですか?」
わざと相手の言葉を遮ってやる。忌々し気な舌打ちが響く。
聞香とは『香』を焚き、そのにおい嗅ぎ分ける遊戯。一口に聞香と言っても、様々な遊び方がある。
「いま説明してやる。よいか――」
一陣の風が通り抜けた。
(あっ)
薫香は風の中に涼やかなにおいを嗅ぎ取る。
「お待ちなさい」
凛とした響きに、審査官の言葉は再度遮られた。
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