第二章 後宮に化け猫は香る ③

「じゃあ、行くか」


 黒曜に続いて、宦官服に着替えさせられた薫香も外へ出る。


「なんで私が……」

「ぶつぶつ言うな。人手は一人でも多い方がいいんだ。そして、これはお前自身のためでもあるんだからな」


 偉そうな物言いにはうんざりだが、黒曜の言うことはもっともだ。

 薫香は気持ちを切り替え、あらためて事件について考えてみる。


「でも、相手は猫ですよ。幾ら制限したところで、外から勝手に侵入することもあるのではありませんか?」

「ないとは言いえないが、可能性は低い。ここは禁城の中にあり、さらにその奥。禁城内での飼育、持ち込みも禁止されているし、高い塀に囲まれている。猫であっても容易には入り込めない。さらに後宮の外には壁沿いに薄荷が植えられているんだ。薄荷の強いにおいを猫は嫌う」

「何だか過剰なくらい徹底していますね」

「まったく、そう思うよ。どれだけ嫌いだったんだろうな、その猫嫌いの皇后は」


 呆れずにはいられない。


「まずはどこへ行くんですか? まあ、聞いたところで分かりはしませんけど」


 振り返った黒曜は不思議そうな顔をする。


「ここへ来てからの十三年、宮の外へ出たことがないんですよ? 後宮のどこに何があるかなんて分かるわけがない」

「それもそうか。では、簡単に後宮内を説明してやる。ありがたく、拝聴しろ。後宮内には全部で五つの宮がある。真黄宮は皇帝陛下が政務を離れ、日常を過ごされる場所。外廷と後宮の境に建ってる。残りは東西南北そろぞれに配置され、北黒宮ほっこくきゅう南紅宮なんこうきゅう東青宮とうせいきゅう西白宮せいはくきゅう。それぞれ歴代の四妃が使用してきた」

「この前連れていかれ沈香亭はどこになるんです?」

「四妃の宮の丁度真ん中に人口池があり、沈香亭はそのほとりに建っている。どうだ?」

「およそ、把握しました。それでは、どこから調査します?」

「まずは四妃の宮を回ろう。四妃さまはいずれも後宮に入られてから日が浅く、ただでさえ慣れない環境に心安んじられない日々を送っておられる。そこに今回の化け猫騒動だ。心労は如何ほどのものかと、後宮を預かる太監長の白檀さまは心配されておられる。よくよくその様子を伺ってくるよう仰せつかった」

「そうなんですか?」

「馬鹿。口から出まかせに決まってるだろ。そういう建前で会いに行くんだよ」

「……なるほど」


 とは言え、後宮の実質的な支配者である四妃が動揺すれば、騒ぎは大きくなる。まずは四妃の危惧を取り除き、大山の鳴動を防ぐ。初手としては悪くないだろう。


「では、東蕙妃さまのところから始めよう。お前にとっては、敵情視察の意味もある。抜かるなよ」


 まったく、いろいろと考えているものだ。


 薫香と黒曜は東蕙妃から北麗妃、西華妃の順にその宮を訪ねた。

 結論から言えば、まったくの無駄足だった。どの妃も化け猫騒動など歯牙にも掛けておらず、動揺など微塵も感じられない。それどころか、


「見事なまでの門前払いでしたね」

「……」


 どの宮でも二人は中に招き入れられることすらなく、対応に出た女官に嘲笑された挙句、冷たく追い返された。主の心の揺れは、仕える者の態度に現れる。あの女官たちの様子を見れば、妃たちに動揺がないのは明らかだ。


「まあ、化け猫ごときで動揺する方々とは思えませんしね」


 沈香亭で見た四妃の姿を思い出し、薫香は深く納得する。それでも愚痴は口をつく。


「仮にもこちらは太監長の命令で、様子を伺いに来たんですよ。中に入れて、お茶の一杯くらい出してくれてもいいと思いません?」

「仕方ない。御前聞香の前だからな。どの宮も警戒しているんだ」


 思い通りことが運ばないせいか、不機嫌顔で押し黙ってい黒曜が口を開く。


「どういうことです?」

「御前聞香では各妃、各王家が文字通り命運をかけて用意した『香』を献上する。その『香』に何かあれば、大事だからな」

「何かあればって、何かあるんですか?」

「過去にはいろいろあったみたいだぞ。友好のお茶会を装って相手の宮に入り込み、隙を見て用意された『香』を強奪、なんてことは珍しくない。だから、御前聞香が終わるまで、よそ者を宮の中に入れるようなことはない。中に入れるとしたら、皇帝陛下とその使いくらいだろうな」

「随分と陰湿なんですね。って言うか、そんな事情が分かっているなら、なんで四妃の宮を訪ねるなんて言い出したんですか?」

「入れる可能性は低いが、やってみないと分からないだろ? これでは入れたら儲けものだからな」


 喰って掛かる薫香に、黒曜は悪びれる様子もなく言い放つ。


「さあ、あとは南貴妃さまの宮だけだな」

「えっ、行くんですか? もういいんじゃないですか?」

「仮にも太監の使者が、南貴妃のところだけ来なかったと知れてみろ? どんな噂を立てられるか分かったもんじゃない。ほら、さっさと門前払いされてくるぞ」

「だったら、太監の使者を口実に使わないで下さい!」


 つくづく後宮とは面倒なところだ、そんなこと思いながら、黒曜が門を叩くのを見ていた。



「……遅い、ですね」

「……」


 てっきり追い返されるものだとばかり思っていたが、南貴妃の対応は他とは違っていた。


「ば、化け猫ですか!?」


 対応に現れた女官に用件を告げると、あからさまに動揺を示し、奥へとすっ飛んでいった。しばらくそこで待たされていたが、慌てた様子で戻って来た女官に中へと通された。


「すぐに南貴妃さまがおみえになりますので、しばしお待ち下さい」


 と言われ待たされること、早半刻になろうとしている。その間、妃はおろか女官の一人も様子を見に来なければ、茶の一杯も出されていない。


「……遅い、ですね」


 もう何度目かの台詞を零す。これまでと同じように黒曜からの返答はない。待ちくたびれ、卓の上に行儀悪く頬杖をついていた薫香は隣に目を向ける。背筋を伸ばし、半刻前と同じ姿勢で黒曜は前を向き、目を軽く閉じていた。腹が立つくらい美しい横顔だ。それが癪に障り、視線を前に戻す。その拍子に大きな欠伸が出た。


「随分と大きな欠伸だな」


 途端に、意地の悪い声が突き刺さる。


「そちらこそ、目なんか閉じているから寝ているかと思いました」

「ちゃんと起きている。安心しろ」

「分かっています。それにしても、遅いですねえ」


 また出そうになる欠伸を、必死に噛み殺す。目尻に涙が滲む。


「まあ、女性は何かと身支度に時間がかかるからな。妃ともなれば、尚のことだ」


 女である私に、女でもないお前がそれを言うか! 恨みがましい目を向けるが、目を閉じている相手には意味がない。


「それにしたって遅すぎますよ」

「そうだな。何やら宮全体が、ひどく動揺しているようだ」

「確かに」


 女官の慌てぶり、姿を見せない妃、出されないお茶、何より宮全体が静かすぎる。この動揺は化け猫騒動によるものなのか、それとも……。

 薫香はおもむろに立ち上がり、そのまま出口へと向かう。


「どうした?」

「いえ、ちょっとそこまで」

「ああ、厠。どうぞ、ごゆるりと」

「……」


 余計なお世話だ!



「ふう」


 厠から出て人心地。厠を探すのに手間取り、思いのほか危ない所だった。


「なにしろ広いのよね、ここ。驚いちゃった」


 つい独り言が口をつく。独房宮とは比べ物にならない広さ、隅々に致すまで施された装飾、そして至る所から漂う香しいにおい。思わず、くんくんしてしまう。


「それにしても誰にも出くわさないとは、一体どうなってるの?」


 人がいないわけではない。ちゃんと人のにおいはする。においを頼りに、探り当ててみようかとも考えたが止めておく。


「触らぬ神に祟りなし! さて、早く元の部屋に戻らないと、おっ!」


 部屋に戻るために黒曜のにおいを探した。そして薫香は気づく。微かに感じるにおいがある。それはこの宮に入ってから感じた、どんなにおいとも違う。異質なにおい。


 そして、薫香にとって嗅いだことのないにおい。未知のにおいに、好奇心が鎌首をもたげる。

 薫香は異質なにおいをたどり、宮をさ迷い歩く。そして……、


「ここは、物置?」


 物は多いが、がらんとした印象の空間だ。日常的に使われているわけではないのだろう。恐る恐る中に入り、鼻を動かす。大分消えかけているが、くっきりと輪郭が分かるにおい。残り香でこれ程なのだ。まともなら相当強烈な、悪臭と言っていいくらい水準のはず。


 やがてにおいの元にたどり着く。部屋の奥、隠すように置かれた四角い箱のような物。上から白い布が被せられている。躊躇いは一瞬、薫香はその白い布に手を掛けた。


「こ、これは……」

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【増量試し読み】後宮の薫香妃 しそたぬき/富士見L文庫 @lbunko

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