序章 消えないにおい
このにおいをたどれば、いつかあなたに辿り着けるのだろうか?
甘いにおいが漂っていた。
場にそぐわない、華やかで優美なにおい。
彼は惨劇の場に、立ち尽くしていた。
床には母だった女が倒れている。目は大きく見開かれ、表情は苦悶に歪み、柔らかだった肌は固く硬直していた。生前の彼女とは、何もかもが違った。彼は戸惑う。
けたたましい足音。彼は我に返る。近づいてくる足音は、母を殺した者たちのもの。やり過ごしたと思ったのに、奴らは戻ってきた。彼を探し出すために。
部屋の納戸に逃げ込む。
先程やり過ごした時と同じように、息を殺し、戸のわずかな隙間から様子を伺う。
やがて、戸の向こうが騒がしくなる。女の声。何かを命じている。
どれだけ隙間から目を凝らしても、何も見えない。真っ暗な闇が広がっているだけ。
それでも誰かが、何かが近づていくるのが分かる。
におい。あの甘い、粘りつくようなにおい。近づいてくる。濃度と粘度が増す。喉が痛い。息が詰まる。
暗闇の中から、ゆっくりとこちらへ腕が伸びてきた。細く、白い腕。甘いにおい。綺麗に手入れされた長い爪。
身を隠す戸は、あまりに薄く、頼りない。
汗が伝う。動かなくては。母が教えてくれた通りに。助かるには、それしかない。
だが、動けない。体が、頭が重い。心の臓だけが、狂ったように胸を叩く。
甘いにおい。脳が揺らぐ。
鋭い爪先が、わずかな隙間に差し込まれる。鋭く磨き込まれた爪先。
汗が止まらない。視界がぐにゃりと歪む。甘いにおい。頭が割れそうだ。
喉を裂くように、爪先が真横に走る。
開け放たれた戸の向こう。溢れる光とにおいの靄の中に、彼は女の顔を探した。
「お目覚めになりましたか?」
悪夢が醒めた時、目の前に女がいた。心の臓が潰れたと錯覚するほどの衝撃。眩暈を覚える。
(違う。あの女ではない)
手で顔を拭う。大丈夫、あの女は悪夢の中にしかいない。何度も自分に言い聞かせる。鼓動はまだ鳴りやまない。
「随分とうなされていましたが、大丈夫ですか?」
「ここは? 俺は何を?」
かすれた声を絞り出す。
女はわずかに目を細める。
「憶えておられませんか? あなたは、この宮の近くで倒れていたんですよ。たまたま通りかかった番人の者が見つけ、知らせてくれたので、ここに運んで貰ったのです」
思い出した。
新しき皇帝の即位に伴い、後宮が一新された。新たに迎えられた四人の妃。挨拶とご機嫌伺いを命じられ、その元を訪ねたのだ。舞い込んだ絶好の機会に意気込み過ぎていたのか、それとも結局何も得られなかった結果に失望したのか。その帰り道、急に体調が悪くなり……。
「そうでしたか。それはご迷惑をお掛けした。挨拶が遅くなりましたが、私は太監に属する宦官で、
身なりと外面を整えてから、寝台を降り、女に向かって拱手する。
「宦官さま、ですか?」
なぜか腑に落ちない様子の女。思わず眉を顰める。
何もおかしなことは言っていないはずだ。太監はこの
あらためて女の姿を見た。
小柄な女だ。年は二十二、三といったところか。もう少し上と言われても納得するし、もう少し下だと言われても不思議には思わない。要するに、よく分からない。
顎の細い、丁度卵をひっくり返したような顔に、大きめの目と口、間に低い鼻が鎮座。薄めの顔だが、垂れた目じりに愛嬌があった。ほとんど化粧っ気はなく、紅も引いていない。髷は結っておらず、長い黒髪が腰まで流れていた。
パッとしない地味な見た目だが、素材は悪くない。ちゃんと着飾ればと、少々残念に思う。
気になるのは、その着古してよれよれの服の色。
黄塵国には使用が定められた色が三つある。皇帝のみが使用する黄、喪中を示す黒、そしてもう一色が灰。
彼女の来ている服は、灰色。
(灰色は確か、罪人の色のはずだが)
頭に浮かんだ答えを、すぐさま否定する。ここは後宮であり、罪人住まう場所ではない。
「桃の花は、いかがでしたか?」
「えっ?」
反射的に聞き返す。何を言われたのか、分からなかった。それほど女が口にした言葉は、黒曜にとって予想外で、完全に意表を突かれた。
「桃の花です。今日近くを通られ、見上げておられたのではありませんか?」
ハッとした。後宮の中央に作られた人工池。その脇を通った時、植えられていた桃の木に花が咲いていた。普段なら気にもしない。だがその時は、何を思うでもなく足が止まった。そして確かにその淡い色を見上げた。
「……八分咲きといったところでした」
そうですか、と女は微笑む。
なぜこの女は、そんなことを知っているのだろう? 見られていたのだろうか?
得体のしれない不気味さを覚える。
「ご気分がよくなられたのなら、隣の部屋でお茶でもいかがです? 少しお願いしたいこともありますので」
慌てて辞退しようとしたが、女はさっさと立ち上がり、部屋を出ていく。急いで、その後を追う。
「あの、失礼ですが、ここは
追い縋りながら、その小さな背に問いかける。
「いいえ、ここは四妃さまの宮ではありませんよ」
振り向きもせず、女はおかしそうに笑い声を上げた。
「えっ、では
真黄宮は後宮での皇帝のすまい。ありえないことと思いながらも、重ねて問いかける。
「いいえ、それも違います」
案の定の答え。
(どういうことだ?)
この後宮で、皇帝と四妃以外の者が使っている宮など、いまはないはず。脇の下を汗が伝う。
突然、女が振り返る。
「ご存じありませんか? この後宮には四妃以外にもう一人、妃がいることを。他の妃とは違い、決してその宮から出ることを許されない妃が」
噂だ。あくまで噂で聞いたことがある。この後宮には、かつて大罪を犯した一族の妃が居ると。
こちらの反応を楽しむように、女は微笑む。
「この宮に正式な名前はありません。ですが、人はこう呼びます。囚われの妃が一人住まう場所、独房宮と。そして私こそ囚われの妃、贖罪妃こと
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