8 丘陵

 丘の上からは、小さな村が一望できた。

 入り口にある宿屋と、そこから村の中心を突っ切っている道。黄色とオレンジになっている梨園。外れのあたりにあるクロードの家にあるオリーブだけが所在なげに青々としている。

 荷車から降りたクロードは、杖をついてはあと感嘆のため息を漏らした。間近で見る紅葉には一枚一枚の葉脈まで見える繊細な美しさがあるが、丘の上から眺めるのもモザイク模様のようで風情がある。


「面白いな……葉の色が黄色っぽい梨畑と、赤っぽい梨畑がある。落葉の進み具合も畑によって違うんだな」


 横から眺めているだけでは気づかなかった発見にクロードが目を丸くしていると、クロードと同じく丘の下を見下ろしたルネが「ああ」と頷いた。


「梨の種類によって少しずつ紅葉の色が違うからな。早生種は早く、晩生種は遅くに落葉するし」

「へえ、そんな差が」

「年によっても違うぞ。寒いほうが色が鮮やかになって綺麗になる」

「じゃあ、これをよく覚えておいて、また来年見に来なくちゃいけないな」

「そうだな」 


 きっとルネは、毎年この時期にここに来ていたのだろう、とクロードは思いながらルネの横顔を見上げた。夏から秋にかけての収穫作業を終え、その肌は琥珀色を深くしている。

秋の空に映えるルネを見て、この色も今だけなのかな、と考える。


「……何だ?」

「いいや?」


 視線に気づいたルネの不思議そうな顔を見て、クロードはなんでもない、と首を振った。荷車から絵の道具を取り出し、三脚を据える場所を探して高台の上を歩きはじめる。


「あんまり端の方行くなよ」

「わかった」


 シートとバスケットを並べ、ケトルを出して昼食の用意をするルネを見ながら、クロードはゆっくりと後ろに一歩下がった。

 琥珀色のルネと、その後ろに広がるレモン色から紅色の点描のような梨畑、薄い雲がかかる抜けるような空。

 この景色を覚えておきたいと思ったのだ。

 ルネはクロードの視線には全く気付いていないようで、てきぱきと食器を並べていた。のぞき見をしているような、どこか後ろめたい喜びを感じながら、クロードは収まりの良い構図を探してもう一歩下がる。

 その足の下には、何もなかった。


「わあ!」


 突然バランスを崩したクロードは叫び、油彩道具を持っていた手を振り回した。顔を上げたルネが弾かれたように走ってくる。伸ばした腕を掴まれるが、すでにクロードの体は崖の向こうへと重心を移していた。



 胃の底が抜けたような浮遊感ののちに、どん、と背中に衝撃があった。なにが起きたか理解できないままもみくちゃになり、どちらが上でどちらが下かも分からない体のあちこちがぼこぼことどこかにぶつかる。

 どれくらい経っただろうか。ぐらぐらとした感覚が治まり、自分が止まっていると実感できたクロードはそっと目を見開いた。


「……っ」


 見えたのは、先ほどまでと変わらないのどかな秋空だった。だが視線を巡らせると、先ほどまでルネと一緒にいたはずの頂上部分が自分の上にあるのが見える。

 そこにきてようやくクロードは、自分が頂上から転げ落ちたのだということに気が付いた。

 指先や足をこわごわ動かしながら、体を起こす。体中ぶつけてはいるものの、どこか異常があるわけではなさそうだ。だが、杖はどこかに飛んで行ってしまっていた。


「ルネ……? ルネ!」


 一緒に落ちたはずの――正確には、クロードのせいで落っこちてしまったはずの――ルネを探す。


「うう……」


 うめき声は、クロードのすぐ後ろで聞こえた。振り向くと、土と草のかけらにまみれたルネの大きな背中が転がっている。


「ルネ!」


 膝立ちでルネに近寄ったクロードは、ルネの肩を叩こうとして思わず硬直した。

 横向きになったルネの頭の下に、真っ赤な染みが見えたからだ。

 クロードの全身から、ざあっと血の気が引いた。


「ル、ネ……?」

「あ、クロード……」


 ぼうっと目を開いたルネは、クロードを見て微笑した。


「端の方、行くな、って……言ったろ」

「も、申し訳ない……」


 ルネの言うとおりだった。気を付けるようにさんざん言われていたのに、浮かれていたクロードは何も聞いていなかったのだ。ルネと丘に来れたことが嬉しくて、それ以外のことなんて考えていなかった。

 そうしている間にも、ルネの頭の下の染みはゆっくりと広がっている。呆然としていたいたクロードは、とにかく血を止めなければということにハッと気づいた。震える手で自分のシャツのボタンに手をかける。うまく外せず、引きちぎるようにして脱いだ。


「大丈夫、か?」

「……いてえ」

「そ、そうだよな」


 血が出ているのだ、大丈夫なはずがない。

ぐったりとしたルネの頭を抱え、下に自分のシャツを差し入れる。本当は傷の大きさや具合を確かめた方がいいのだろうが、怖くてそんなことはできなかった。


「ごめん、ごめんルネ……」


 自分の愚かさを噛み締めながら、シャツに広がっていく赤い染みを見る。

 あの丘に登ってみたい、なんて言わなければ。もう少し注意深く行動していれば。舞い上がるようだったクロードの心は、冷たい湖の底にでも沈み込んでしまったようだった。


「来るべきじゃなかったんだ。僕みたいなやつは、こんな……」

「そんな顔、するなよ」


 伸びてきたルネの指先が、クロードの頬を伝っていた涙を拭った。


「だいじょぶ、だから。また……来ればいいだろ」

「ルネ」


 クロードは手の甲で涙を拭った。ルネを不安がらせてはいけない。助けを呼ばなくては。


「おーい!」

 辺りを見回しながら大声で叫ぶ。だが村とは逆方向に落ちてきてしまったようで、見慣れない草原が広がっているばかりだ。人っ子どころか動物の姿も見えない。

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