或る青年画家と梨農家の1年
@nikkyokyo
春【授粉】
1 到着
ぽかぽかと暖かい、春の陽が窓の外に満ちていた。
「はぁ……」
果樹園だろうか、パールホワイトの花をつけた低木が一面に植えられている。その様子を見ながら、クロード・ベルトランはため息をついた。さわりと風にアイボリーの髪が揺れる。
乗合馬車に、クロード以外の客はいない。舗装されていない道はぼこぼことしていて、揺られ続けた尻が悲鳴を上げていた。
画商が「君の絵を気に入って、ぜひ会いたいといってくれている人がいるよ」と貴族を紹介してくれたのはもう数か月も前のことになる。そんなことを言われたのははじめてだった。画廊での待ち合わせに現れた男性の身なりもよく、クロードはついに自分にもチャンスが、と小躍りしたい気持ちだった。
彼が、クロードの尻に手を伸ばしてくるまでは。
あまりのことに硬直するクロードの尻を無遠慮に揉みながら、その男はねっとりと囁いてきた。
「なあ、支援してほしいなら……わかるだろう? 君は同性でもいけると聞いたよ」
気が付いた時には、その手を払いのけて相手を怒鳴ってしまっていた。
抱かれるのが嫌だった、わけではない。パトロンとなった貴族や金持ちが、自らの抱える芸術家に体まで要求するのはままあることではあった。問題はそこではなかった。
その男がクロードの描く絵に興味を示さなかったこと。それどころか、下賤な目的を達するための手段として使ってきたことが堪らなく屈辱的だったのだ。
お前の絵には何の価値もない、そう言われた気がした。
本当に貴族がクロードのことを気に入っていたのか、それとも醜聞を恐れたのか、クロードに対して彼がそれ以上何かしてくることはなかった。だが、紹介してくれた画商との取引は打ち切られ、噂を知った他の画商もクロードと口をきこうとはしなくなった。
サロンにも呼ばれなくなったクロードは郊外の村に小さな家を買い、引っ越すことを決めた。
仲間には、「画商どもが頭を下げて詫びに来るような作品を作るため、新しい題材を探しに行くんだ」と嘯いていた。だが、実際のところは首都にいづらくなって逃げだしただけである。
「どうしようかね、これから……」
ぽつりとつぶやき、組んだ手を見下ろす。
絵を描いて、生きていこうと思っていた。
兄と違ってあまりできの良くなかったクロードが、唯一親に褒められたのが絵の上手さだった。それが嬉しくて描いているうちに、いつしか描かずにはいられなくなっていた。
もっと上手く、もっと美しく。
見た人が忘れられなくなるような絵を。
その衝動に従ってクロードは絵を描き続け、学校を卒業した年に首都に出た。サロンに潜り込み、画商がやっと彼の絵を扱ってくれるようになって、これからだったというのに。
全てがパアだ。
残ったのは、絵を描くことしかできない若造と、少しの画材だけだった。僅かばかりあった蓄えは、家を買う費用に消えた。
気の毒に思った友人が挿絵の仕事を融通してくれると言ってくれたが、それも不確かな話だった。
はあ、ともう一度クロードがため息をついた時、ゆっくりと馬車が止まった。がらりと御者台につながる窓が開けられる。
「お客さん、着いたよ!」
「ん、ありがとう」
クロードが顔を上げ、足元に置いていた荷物を取っていると、「なあ」とそれを見ていた御者が遠慮がちな声を発した。
「お客さん、その……今は他に客もいないし、良ければ家の前まで送っていくけど」
「大丈夫だ、気持ちだけ受け取っておくよ」
申し出はありがたかったが、そこまで他人に甘えるのは好かなかった。杖を突いて立ちあがり、馬車を降りる。ちょうど村の入り口のようで、目の前に宿屋があった。
再度御者に礼を言ってから、クロードは足を引きずって歩きはじめた。村の中にも白い花が沢山咲いており、どこからかかすかに特徴的な、少し生臭いにおいがする。すぐ向こうには小高い丘があり、上から村が一望できそうだとクロードは思った。
村は、その栄え具合からクロードが予想した以上に広かった。家と家の間に畑や果樹園が挟まっているため、家同士の間がやけに離れているのである。
先ほどの御者の親切心を断ったことをクロードが後悔し始めたころ、目的地が現れた。一階建ての、小さなレンガ造りの家。玄関にオリーブの木があるのが目印だ。
鍵穴に鍵を差し込むと、かたんと小さな音を立てて扉が開いた。
中に入ると、突き当たりにある調理器具兼暖房器具のストーブがまず目に入ってきた。その前に小さな机と椅子が置かれている。奥の部屋には前の住人のものらしきベッドまで残されており、クロードはホッとした。しばらくは床で寝るのを覚悟していたからだ。
全体的にやや埃っぽいが、問題になるほどではない。作り付けの棚の上を指でなぞってから、クロードはようやく地面に荷物を下ろした。
木箱に入った画材、折りたたみ式の三脚、何冊かのスケッチ帳、数枚のキャンバス、それからわずかばかりの日用品。
それが、クロードの全部だった。
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