2 邂逅
しばらく休憩した後、クロードは村の中を見て回ることにした。この村がどんなところか早く知りたかったし、近所の人に挨拶もしておきたかった。尻の痛さのせいで気づかなかったが、だいぶお腹も空いてきている。
クロードはスケッチブックと鉛筆を持って家を出た。適当に方向を決めて歩を進める。
だが、しばらく歩いても人影はなかった。ただパールホワイトの花をつけた低木が広がっているばかりである。
人を探しながら歩くことに疲れてきたクロードは立ち止まり、道の横にある低木に近づいた。木全体を覆い尽くすように、五枚の花弁をつけた花が咲いている。知っている花の中ではいちごに一番似ていたが、いちごは木になるものではないことくらいクロードも知っていた。
なんだろう、と考えながら樹の下に座り込み、下の方に咲いた花に手を伸ばす。よく見ると中の雄しべがバラ色をしていて、非常に愛らしい。
クロードは鉛筆を取り出し、スケッチブックを開いた。さらさらと花の姿を紙の上に写し取っていく。
花びらは薄く柔らかく、つんと尖った雌しべも五本ある。小さく反り返ったがくの下では、伸びかけの若葉が丸まっていた。
「おい、うちの木に何してんだ!」
「わっ」
ディテールを描き込んでいた時、突然声をかけられてクロードはビクリとした。顔をあげると、木々の向こうにコーヒー色の髪の毛と長い脚が見える。声の主らしき男は、のしのしと大股で近づいてきた。
「ああ、申し訳ない……ちょっと、スケッチをさせてもらっていた」
クロードが杖をつき、立ち上がったときには男はもう目の前に来ていた。クロードより顔半分ほど高い位置から、栗皮色の目が見下ろしている。
「スケッチだと? なんだ、画家さんなのかあんた」
「あ、いや……趣味だ」
画家だ、とは言えなかった。
男は胡乱げな目でクロードのことを上から下まで見回した。その手には大きな筆と、乳白色の粉が入った瓶が握られている。見知らぬ男が自分の果樹園で絵を描いていたらそんな顔にもなるだろう、とクロードは手を差し出した。
「はじめまして、僕はクロード・ベルトランだ。今日この村に越してきたところなんだ、よろしくお願いするよ」
「俺はルネ・シュヴァリエ。ここで梨農家をやっている。わからないことがあったら聞いてくれ」
筆を腰のベルトに差し、胡乱げな表情を崩さぬままルネはクロードの手を握った。ゴツゴツとした肉厚の手は、クロードより二回りほど大きそうだ。
「ああ、梨なのかこれ。可憐で美しい花だな」
ようやく疑問の解けたクロードが笑って果樹園を見渡すと、ルネは「ん」とわずかにその相好を崩したように見えた。悪い人ではなさそうだと判断したクロードは、さっそくルネの言葉に甘えることにした。
「それじゃあ一つ聞いてもいいかな。ルネ、この村でおすすめの料理店はどこだい?」
「おすすめも何も、ここに料理を出す店は一件しかねえよ。村の入り口のところにある宿屋だ。……分かるか?」
「ああ……来るとき通ったな」
ルネの指が示す先を、クロードは重い気分で眺めた。確か馬車を下りたところに宿屋があったと記憶している。またあそこまで歩いて戻るとなると、クロードの足では頑張っても一時間以上かかるだろう。
「なんだ、昼飯か」
「そのつもりだったが」
クロードが答えると、ふうん、とルネは首を傾げた。ちょっと待ってろ、と言い残して梨の木の向こうへと消えていく。
「……?」
訳が分からずクロードが木の横に座り込んでいると、しばらくしてルネは戻ってきた。手にバスケットと瓶、コップを持っている。
「俺もそろそろ昼飯にしようと思っていたところだ。一緒に食べよう」
「いや、しかしそれは君の」
「せっかく越してきたんだ、これくらいのもてなしはさせてくれ」
またずんずんと歩いてきたルネは、クロードに大きな手を差し出した。
「ほら、ここじゃくせえだろ。ちょっと向こうのほう行こうぜ」
「くさい?」
クロードは辺りを見回し、やっとこの村に入ったころからなんとなく漂っている生臭さの原因が目の前の花であることに気が付いた。
「これ、梨の花の匂いなのか」
「うん。俺はもう慣れちまって分かんないけど、他所から来た奴は皆くせえくせえって言うぞ」
それなのに花言葉は「愛情」らしいから笑えるよな、と言うルネの手を取って立ち上がる。自分を引き上げる大きく力強い手と「花言葉」がどうにもミスマッチで、クロードは吹き出しそうだった。
「物知りなんだな」
「自分の育ててる作物だからな」
少し梨畑から距離を取り、ニンジンの植えられた横に二人は腰を下ろした。
離れて眺める梨の花は、白色のじゅうたんのように見えた。風に揺れる様子はさざ波のようでもある。
ルネが手渡してきたのは、シンプルにハムを挟んだバゲットだった。ありがたく受け取って頬張ると、香ばしいバターの風味とハムの旨味が口の中に広がる。コップに注がれた水からは、梨の風味がした。
「美味い」
クロードが素直に感想を述べると、ルネは得意そうな顔をした。
「俺んちの梨で作ったシロップを入れてるんだ」
「そうか。さぞかし美味い梨なんだろうな」
世辞ではなかった。横にいる男が自信をもって育てているのだから、きっと美味しいだろうと思ったのだ。
クロードがバゲットを食べ終わるのを見てから、ルネは立ち上がった。手早くコップと空になった瓶をバスケットに放り込み、大きく伸びをする。また差し出された手を取り、クロードも腰を上げた。
「なあ、もう少しさっきの場所で描かせてもらってもいいか?」
「構わないけど、梨畑の絵なんて描いたって面白くともなんともないだろ」
「そんなことはない。僕にとってこの村はどこも新鮮だ。それに、たとえ見慣れた場所だって絵にすれば新しい発見があるものだ」
「そんなもんかね」
疑わし気な目をするルネを見上げながら、クロードは頷いた。
「絵にする時には詳細な観察が欠かせないからな。今まで気づかなかったような部分や、普段なら気にも留めないような事柄まで気づけるようになる……対象をより深く理解できるようになるんだ」
「ふうん」
また梨の木の横まで戻ったクロードは、ゆっくりとその横に腰を下ろした。スケッチブックを開き、丸まってきていた鉛筆を削る。
ルネは腰に差していた筆をとり、粉の入った瓶の蓋を開けた。筆の先を瓶の中に突っ込み、それからちょんちょんと花をつつく。
「ルネ、それは何をしているんだ?」
クロードが大きめの声で呼びかけると、「授粉だよ」と花を見ながらルネは答えた。「梨の花は臭いせいかミツバチもあんまり寄ってこなくてな、風任せだとムラが出るから人の手でこうやって授粉させてやるんだ」
「はー、大変なんだな」
今まで梨の絵を描いたことは限りなくあったが、その梨がどんな風に作られているかなどとクロードは考えたこともなかった。
「ま、どんな仕事だって大変なことくらいあるだろ」
「そうか……そうだな」
当たり前のように答えるルネを見ながら、クロードは紙の上に鉛筆を走らせた。先ほど花を描いた時より手早く、授粉作業をするルネの姿を写し取っていく。
健康的に焼けた皮膚を押し上げる鼻筋は長く、まっすぐ。その下にある唇はぽってりと肉感的だ。表情は真剣だが、どこか楽しそうな色がある。コーヒー色の髪の毛は柔らかめで、風にそよぐくらいの長さ。わずかに汗で湿っている。着心地のよさそうなシャツの下は見えないが、程よく発達した筋肉がついているのが手に取るように分かった。
そして、その見た目に反して繊細な力加減で作業をする、ごつごつと節くれだって大きな手。
ふわりふわりと雌しべに筆先で触れる様子は、クロードにはまるで梨の花への愛撫のように見えた。
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